59 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて
傾(カタブ)くまでの 月を見しかな
赤染衛門(アカゾメエモン)(『後拾遺和歌集』恋・680)
<訳> (あなたが来ないと知っていたら)ためらわないで、とっくに寝ていたでしょうに。信じて待っているあいだに夜が更けてしまい、西の山の端に傾くまでの月を見てしまいましたよ。(板野博行)
oooooooooooooo
「今夜は行きます」と前触れがあったので、寝まずにずっと待っていたのに。気がついたら、月は西に傾いており、夜明け近くになっていたわよ と。待ちぼうけを食って、憤懣やるかたない思いの歌です。当歌は妹に代わって詠んだ代作である と。
作者は赤染衛門、平安中期の歌人、一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕える女房の一人。当時、紫式部、清少納言、和泉式部、伊勢大輔等々、錚々たる顔ぶれの女流歌人が活躍していたが、中でも赤染衛門は、良妻賢母の才媛と評されていたようである。
「待ちぼうけ」の詩題を付し、七言絶句の漢詩としました。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声十四塩・十二侵韻]
白白等候 白白(ハクハク)等候(トウコウ)
要不連忙睡得甜,要不(サモナク)ば 連忙(レンボウ)に睡ること甜(テン)ならん,
一直等着儞来臨。一直(ズッ)と 等着(マッテイ)た儞(アナタ)の来臨(ライリン)を。
知没理会為半夜,理会(キニトメル)こと没(ナ)く 半夜(ハンヤ)と為(ナ)るを知る,
見到月傾天際沈。月は傾(カタム)き 天際(テンサイ)に沈まんとするを見到(ミトド)ける。
註]
白白等候:待ちぼうけ。 要不:さもなくば。
連忙:すぐに、さっさと。 一直:ずっと、一筋に。
理会:気にとめる。 半夜:真夜中。
天際:山の端。
<現代語訳>
待ち惚(ボウ)け
さもなくば、ぐずぐずせずにぐっすりと休んでいたであろうに、
ずっと起きていて、あなたの来るのを待っていたのよ。
気にも留めていなかったが、夜更けになっているのを知った、
月は西に傾き、山の端に沈もうとしていることを見届けることになったわよ。
<簡体字およびピンイン>
白白等候 Báibái děnghòu
要不连忙睡得甜,Yàobù liánmáng shuì dé tián,
一直等着你来临。yīzhí děngzhe nǐ láilín.
知没理会为半夜,Zhī méi lǐhuì wéi bànyè,
见到月倾天际沉。jiàn dào yuè qīng tiānjì chén.
xxxxxxxxxxxxxxx
赤染衛門は、右衛門尉赤染時用(トキモチ)の娘で、その名称は父の姓と官職名による。ただ母親が、前夫・平兼盛(百人一首40番、閑話休題132)との婚姻中に懐胎していて、後に時用と再婚し出産したとの可能性があって、兼盛実父説もある。当時、裁判沙汰となり、兼盛は敗訴しているが。
赤染衛門の生没年は不詳であるが、956年頃生、1041年以後に没と推定されている。976~978年の間に、文章博士・大江匡衝(マサヒラ)と結婚、仲睦まじい夫婦故に当時、匡衝衛門と呼ばれていた由。子息に歌人・江侍従(ゴウノジジュウ)と文章博士・挙周(タカチカ)、曽孫に権中納言匡房(同73番)がいる。
良妻賢母の誉れが高く、また社交的で面倒見の良い人物であったようだ。他人に代わって詠む代詠の歌も多く、上掲の和歌は、妹の代作である。その詞書によれば、妹から、関白・藤原道隆にすっぽかされた話を聞いて、妹に代わって作った歌である。
すっぽかされて、ややもすれば感情を爆発させる、あるいは湿っぽく恨み節を詠う、こんな場面ではある。しかし山の端に掛かる月を想像させる温雅な歌である。第三者的立場で詠ったというだけでなく、作者の歌風でしょうか。その心は漢詩でも伝えることができたかな と。
赤染衛門は、藤原道長の正室・源倫子(リンシ)とその娘・66代一条天皇中宮・上東門院彰子(ショウシ)に女房として仕えていて、和泉式部や紫式部の大先輩に当たる。なお口うるさい紫式部も、『紫式部日記』の中で、“風格のある方で、歌は自分が恥じ入るような詠みぶり”であると、高く評価している。
当時の数多女流歌人の中で、和泉式部(同56番、閑話休題145)と並び称される才媛である。歌風は、和泉式部が情熱的であるのに対して、赤染衛門は穏健且つ典雅な詠みぶりであると。「関白左大臣頼道歌合」(1035)や「弘徽殿女御生子歌合」(1041)などに出詠、活躍している。
『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首入集、歌集『赤染衛門集』がある。また藤原道長を主題にした歴史物語『栄花物語正編30巻』の作者と目されている。夫・匡衝の逝去(1012)後出家し、信仰と子女の育成に尽力したという。享年80余歳。
赤染衛門の子煩悩ぶりを示す次の逸話がある。挙周の就職活動を主導し、和泉国国司に任じられたが、赴任中に病に罹った。京から急遽駆けつけ、住吉神社で “身代わりになってもよい”と次の一首を奉納し、病治癒を祈願した。病はその夜のうちに快癒した と。
代(カ)はらむと 思ふ命は 惜しからで
さても別れむ ほどぞ悲しき
[息子に代っても、私の命は惜しくないけれども、それより息子と永遠に別れて
しまうことはやはり悲しいことであるよ]
傾(カタブ)くまでの 月を見しかな
赤染衛門(アカゾメエモン)(『後拾遺和歌集』恋・680)
<訳> (あなたが来ないと知っていたら)ためらわないで、とっくに寝ていたでしょうに。信じて待っているあいだに夜が更けてしまい、西の山の端に傾くまでの月を見てしまいましたよ。(板野博行)
oooooooooooooo
「今夜は行きます」と前触れがあったので、寝まずにずっと待っていたのに。気がついたら、月は西に傾いており、夜明け近くになっていたわよ と。待ちぼうけを食って、憤懣やるかたない思いの歌です。当歌は妹に代わって詠んだ代作である と。
作者は赤染衛門、平安中期の歌人、一条天皇の中宮・上東門院彰子に仕える女房の一人。当時、紫式部、清少納言、和泉式部、伊勢大輔等々、錚々たる顔ぶれの女流歌人が活躍していたが、中でも赤染衛門は、良妻賢母の才媛と評されていたようである。
「待ちぼうけ」の詩題を付し、七言絶句の漢詩としました。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声十四塩・十二侵韻]
白白等候 白白(ハクハク)等候(トウコウ)
要不連忙睡得甜,要不(サモナク)ば 連忙(レンボウ)に睡ること甜(テン)ならん,
一直等着儞来臨。一直(ズッ)と 等着(マッテイ)た儞(アナタ)の来臨(ライリン)を。
知没理会為半夜,理会(キニトメル)こと没(ナ)く 半夜(ハンヤ)と為(ナ)るを知る,
見到月傾天際沈。月は傾(カタム)き 天際(テンサイ)に沈まんとするを見到(ミトド)ける。
註]
白白等候:待ちぼうけ。 要不:さもなくば。
連忙:すぐに、さっさと。 一直:ずっと、一筋に。
理会:気にとめる。 半夜:真夜中。
天際:山の端。
<現代語訳>
待ち惚(ボウ)け
さもなくば、ぐずぐずせずにぐっすりと休んでいたであろうに、
ずっと起きていて、あなたの来るのを待っていたのよ。
気にも留めていなかったが、夜更けになっているのを知った、
月は西に傾き、山の端に沈もうとしていることを見届けることになったわよ。
<簡体字およびピンイン>
白白等候 Báibái děnghòu
要不连忙睡得甜,Yàobù liánmáng shuì dé tián,
一直等着你来临。yīzhí děngzhe nǐ láilín.
知没理会为半夜,Zhī méi lǐhuì wéi bànyè,
见到月倾天际沉。jiàn dào yuè qīng tiānjì chén.
xxxxxxxxxxxxxxx
赤染衛門は、右衛門尉赤染時用(トキモチ)の娘で、その名称は父の姓と官職名による。ただ母親が、前夫・平兼盛(百人一首40番、閑話休題132)との婚姻中に懐胎していて、後に時用と再婚し出産したとの可能性があって、兼盛実父説もある。当時、裁判沙汰となり、兼盛は敗訴しているが。
赤染衛門の生没年は不詳であるが、956年頃生、1041年以後に没と推定されている。976~978年の間に、文章博士・大江匡衝(マサヒラ)と結婚、仲睦まじい夫婦故に当時、匡衝衛門と呼ばれていた由。子息に歌人・江侍従(ゴウノジジュウ)と文章博士・挙周(タカチカ)、曽孫に権中納言匡房(同73番)がいる。
良妻賢母の誉れが高く、また社交的で面倒見の良い人物であったようだ。他人に代わって詠む代詠の歌も多く、上掲の和歌は、妹の代作である。その詞書によれば、妹から、関白・藤原道隆にすっぽかされた話を聞いて、妹に代わって作った歌である。
すっぽかされて、ややもすれば感情を爆発させる、あるいは湿っぽく恨み節を詠う、こんな場面ではある。しかし山の端に掛かる月を想像させる温雅な歌である。第三者的立場で詠ったというだけでなく、作者の歌風でしょうか。その心は漢詩でも伝えることができたかな と。
赤染衛門は、藤原道長の正室・源倫子(リンシ)とその娘・66代一条天皇中宮・上東門院彰子(ショウシ)に女房として仕えていて、和泉式部や紫式部の大先輩に当たる。なお口うるさい紫式部も、『紫式部日記』の中で、“風格のある方で、歌は自分が恥じ入るような詠みぶり”であると、高く評価している。
当時の数多女流歌人の中で、和泉式部(同56番、閑話休題145)と並び称される才媛である。歌風は、和泉式部が情熱的であるのに対して、赤染衛門は穏健且つ典雅な詠みぶりであると。「関白左大臣頼道歌合」(1035)や「弘徽殿女御生子歌合」(1041)などに出詠、活躍している。
『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首入集、歌集『赤染衛門集』がある。また藤原道長を主題にした歴史物語『栄花物語正編30巻』の作者と目されている。夫・匡衝の逝去(1012)後出家し、信仰と子女の育成に尽力したという。享年80余歳。
赤染衛門の子煩悩ぶりを示す次の逸話がある。挙周の就職活動を主導し、和泉国国司に任じられたが、赴任中に病に罹った。京から急遽駆けつけ、住吉神社で “身代わりになってもよい”と次の一首を奉納し、病治癒を祈願した。病はその夜のうちに快癒した と。
代(カ)はらむと 思ふ命は 惜しからで
さても別れむ ほどぞ悲しき
[息子に代っても、私の命は惜しくないけれども、それより息子と永遠に別れて
しまうことはやはり悲しいことであるよ]