58 有馬山 いなのささ原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
大弐三位(ダイニノサンミ)(『後拾遺和歌集』恋二・709)
<訳> 有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てます。さあそれですが、あなたは私に心変わりが心配だとおっしゃいますが、私があなたを忘れたりしましょうか、忘れはしません。(板野博行)
ooooooooooo
訪れが遠のいている男性から「貴女が心変わりしているのではと気にして訪ねるのを控えています」と弁解する便りが届いた(詞書による)ので、「何をおっしゃいますの?そうですよ、どうして私が貴男を忘れることがありますか」と、やり返している歌です。
作者は、大弐三位、紫式部の娘です。歌才はしっかりと母親から受け継いでいるようです。しかしおとなしく慎重で、必ずしも宮廷生活には馴染めない性質の母親とは異なり、娘は、情熱的で活発な性質で、多くの貴公子たちと恋愛を楽しんでいたようです。
歌の技法が詰まった難解な歌です。 “掛詞”の“そよ”が歌の序詞の部と主題の部を繋ぐ鍵と言えます。漢詩では、“掛詞”の意義を活かす工夫として、発音がやや似た“徐徐(ソヨソヨ)”と“是是(ソウソウ、ソウヨ)”の語を組み込みました。
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<漢字原文および読み下し文>
恋愛的吵架 恋愛の吵架(クチケンカ) [上声四紙韻]
有馬山前微風起、 有馬山前に微風(ビフウ)起り、
徐徐竹葉猪名里。 徐徐(ソヨソヨ)たり竹葉(ササノハ) 猪名の里(サト)。
君如挂念吾心变、 君 吾の心变りを挂念(キニカケ)るが如きも、
是是我安能忘你。 是是(ソウソウ) 我 安(イズグ)んぞ你(ナンジ)を忘れ能(エ)んや。
註] 有馬山:歌枕。現在の兵庫県神戸市北区有馬町。; 猪名:有馬山の南東に
当たる、猪名川沿いに広がる平野。; 徐徐:そよそよとゆれるさま。;
竹葉:笹(子竹)の葉。; 挂念:気にかける。; 是是:強調用法の“是”の重ね
型で、“そうよ、そうなのよ!”と一層強調する。
<現代語訳>
恋の口喧嘩
有馬山の前に広がる野原にそよ風が吹き起こり、
猪名の里の笹の葉がそよそよと音を立てて揺れている。
あなたは、私が心変わりしたのではないかと気に掛けているようですが、
そうよ、まったく、私がどうしてあなたを忘れたりすることができようか。
<簡体字およびピンイン>
恋爱的吵架 Liàn'ài de chǎojià
有马山前微风起, Yǒumǎshān qián wēifēng qǐ,
徐徐竹叶猪名里。 xúxú zhú yè Zhūmíng lǐ.
君如挂念吾心变, Jūn rú guàniàn wú xīn biàn,
是是我安能忘你。 shì shì wǒ ān néng wàng nǐ.
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大弐三位(999?~1082?) は、父・藤原宣孝(ノブタカ)-母・紫式部との間に生まれた娘であるが、3歳の頃、父は亡くなっている。18歳の頃、母・紫式部の後を継いで、一条院の女院・彰子(ショウシ、上東門院)に女房として出仕した。本名は藤原賢子(カタコ/ケンシ)。
1025年、69代後朱雀天皇(在位1036~1045)の第一皇子・親仁(チカヒト)親王(のちの70代後冷泉天皇、在位1045~1068)の乳母となり、後冷泉即位に伴って従三位に昇叙・典侍となる。併せて夫・高階成章(ナリアキ、990~1058)も大宰大弐に就任した。賢子が大弐三位と称される所以である。
有名人の娘、あるいは女院の女房という職場環境故か?魅力的な女性であったに違いない。贈答歌などから、藤原頼宗、藤原定頼(百人一首64、閑話休題147)、源朝任ら多くの貴公子たちと交際していたことが知られており、恋愛遍歴は賑やかであったようだ。
後に関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女を設けている。1037年までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、1038年には高階為家および一女を設けている。浮いた話もなく、慎重で感情を表に出さないとされている母親とは異なり、活発な性格であったようだ。
歌才はしっかりと母親から受け継ぎ、一流の歌人の中に混じって歌の世界で活躍していた。「上東門院菊合」(1032)、「源大納言家歌合」(1038)、「内裏歌合」(1049)および「祐子内親王歌合」(1050)と晴の舞台で作詠を競っています。
中でも「祐子内親王歌合」は特筆すべき歌合と言えようか。時の関白太政大臣・藤原頼道(992~1074)が自宅で、費用の一切を賄って華やかに催した歌合である。当日は“庚申(コウシン)の日”に当たっていたため、夜を徹して宴は続いたという。
因みに、大弐三位が乳母として養育に関わった親仁親王の母・嬉子(キシ)は頼通の妹である。また祐子内親王(1038~1105)の母・中宮・嫄子(ゲンシ)(1016~1039)は頼通の養女であり、且つ中宮が早世されたのち、頼通は祐子内親王の養育に当たっていた。
このように大弐三位が頼通と世俗的な深い繋がりを持ったことは確かであるが、大弐三位は、伊勢大輔(同61番)、相模(同65番)、能因法師(同69番)たちと共に選ばれ、参加した由。歌人としても頼通のお眼鏡に適い、一流の歌人たちと渡り合っていたことを示している。
大弐三位には、家集『大弐三位集』があり、『後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に39首収められている と。女房三十六歌仙の一人である。83歳?で逝去。通称は別に越後弁(エチゴノベン)、藤三位(トウノサンミ)、弁乳母(ベンノメノト)とも呼ばれている。
いでそよ人を 忘れやはする
大弐三位(ダイニノサンミ)(『後拾遺和歌集』恋二・709)
<訳> 有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てます。さあそれですが、あなたは私に心変わりが心配だとおっしゃいますが、私があなたを忘れたりしましょうか、忘れはしません。(板野博行)
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訪れが遠のいている男性から「貴女が心変わりしているのではと気にして訪ねるのを控えています」と弁解する便りが届いた(詞書による)ので、「何をおっしゃいますの?そうですよ、どうして私が貴男を忘れることがありますか」と、やり返している歌です。
作者は、大弐三位、紫式部の娘です。歌才はしっかりと母親から受け継いでいるようです。しかしおとなしく慎重で、必ずしも宮廷生活には馴染めない性質の母親とは異なり、娘は、情熱的で活発な性質で、多くの貴公子たちと恋愛を楽しんでいたようです。
歌の技法が詰まった難解な歌です。 “掛詞”の“そよ”が歌の序詞の部と主題の部を繋ぐ鍵と言えます。漢詩では、“掛詞”の意義を活かす工夫として、発音がやや似た“徐徐(ソヨソヨ)”と“是是(ソウソウ、ソウヨ)”の語を組み込みました。
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<漢字原文および読み下し文>
恋愛的吵架 恋愛の吵架(クチケンカ) [上声四紙韻]
有馬山前微風起、 有馬山前に微風(ビフウ)起り、
徐徐竹葉猪名里。 徐徐(ソヨソヨ)たり竹葉(ササノハ) 猪名の里(サト)。
君如挂念吾心变、 君 吾の心变りを挂念(キニカケ)るが如きも、
是是我安能忘你。 是是(ソウソウ) 我 安(イズグ)んぞ你(ナンジ)を忘れ能(エ)んや。
註] 有馬山:歌枕。現在の兵庫県神戸市北区有馬町。; 猪名:有馬山の南東に
当たる、猪名川沿いに広がる平野。; 徐徐:そよそよとゆれるさま。;
竹葉:笹(子竹)の葉。; 挂念:気にかける。; 是是:強調用法の“是”の重ね
型で、“そうよ、そうなのよ!”と一層強調する。
<現代語訳>
恋の口喧嘩
有馬山の前に広がる野原にそよ風が吹き起こり、
猪名の里の笹の葉がそよそよと音を立てて揺れている。
あなたは、私が心変わりしたのではないかと気に掛けているようですが、
そうよ、まったく、私がどうしてあなたを忘れたりすることができようか。
<簡体字およびピンイン>
恋爱的吵架 Liàn'ài de chǎojià
有马山前微风起, Yǒumǎshān qián wēifēng qǐ,
徐徐竹叶猪名里。 xúxú zhú yè Zhūmíng lǐ.
君如挂念吾心变, Jūn rú guàniàn wú xīn biàn,
是是我安能忘你。 shì shì wǒ ān néng wàng nǐ.
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大弐三位(999?~1082?) は、父・藤原宣孝(ノブタカ)-母・紫式部との間に生まれた娘であるが、3歳の頃、父は亡くなっている。18歳の頃、母・紫式部の後を継いで、一条院の女院・彰子(ショウシ、上東門院)に女房として出仕した。本名は藤原賢子(カタコ/ケンシ)。
1025年、69代後朱雀天皇(在位1036~1045)の第一皇子・親仁(チカヒト)親王(のちの70代後冷泉天皇、在位1045~1068)の乳母となり、後冷泉即位に伴って従三位に昇叙・典侍となる。併せて夫・高階成章(ナリアキ、990~1058)も大宰大弐に就任した。賢子が大弐三位と称される所以である。
有名人の娘、あるいは女院の女房という職場環境故か?魅力的な女性であったに違いない。贈答歌などから、藤原頼宗、藤原定頼(百人一首64、閑話休題147)、源朝任ら多くの貴公子たちと交際していたことが知られており、恋愛遍歴は賑やかであったようだ。
後に関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女を設けている。1037年までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、1038年には高階為家および一女を設けている。浮いた話もなく、慎重で感情を表に出さないとされている母親とは異なり、活発な性格であったようだ。
歌才はしっかりと母親から受け継ぎ、一流の歌人の中に混じって歌の世界で活躍していた。「上東門院菊合」(1032)、「源大納言家歌合」(1038)、「内裏歌合」(1049)および「祐子内親王歌合」(1050)と晴の舞台で作詠を競っています。
中でも「祐子内親王歌合」は特筆すべき歌合と言えようか。時の関白太政大臣・藤原頼道(992~1074)が自宅で、費用の一切を賄って華やかに催した歌合である。当日は“庚申(コウシン)の日”に当たっていたため、夜を徹して宴は続いたという。
因みに、大弐三位が乳母として養育に関わった親仁親王の母・嬉子(キシ)は頼通の妹である。また祐子内親王(1038~1105)の母・中宮・嫄子(ゲンシ)(1016~1039)は頼通の養女であり、且つ中宮が早世されたのち、頼通は祐子内親王の養育に当たっていた。
このように大弐三位が頼通と世俗的な深い繋がりを持ったことは確かであるが、大弐三位は、伊勢大輔(同61番)、相模(同65番)、能因法師(同69番)たちと共に選ばれ、参加した由。歌人としても頼通のお眼鏡に適い、一流の歌人たちと渡り合っていたことを示している。
大弐三位には、家集『大弐三位集』があり、『後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に39首収められている と。女房三十六歌仙の一人である。83歳?で逝去。通称は別に越後弁(エチゴノベン)、藤三位(トウノサンミ)、弁乳母(ベンノメノト)とも呼ばれている。