愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題337 飛蓬-190  秋3首-1 鎌倉右大臣 源実朝

2023-06-08 14:30:42 | 漢詩を読む

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“萩”と“荻”、よく似た漢字である。“萩”は、クサカンムリに禾(ノギ)偏の“秋”、“荻”は、クサカンムリに獣(ケモノ)偏の“狄(テキ)”である。“萩”は、秋の七草のひとつ、紅紫色の蝶型の多数の花をつけた種類を、公園などでよく見かけます。

 

“荻”は、ススキに似た植物で、河川敷などの湿地に自生し、やはり秋に穂状花をつける。ススキが生える乾燥した場所では生育しないという。歌によく詠われ、沼や川岸など湿地を好む芦(アシ/ヨシ)よりは乾燥した場所を好む という。

 

下の歌では、季節感を表す花として“荻”が詠われています。秋の七草のひとつとして万葉の頃から親しまれてきた“萩”ではなく、秋風に揺れ・そよぐ情況は、やはり“荻”が相応しいと言えようか。しかし、“我が宿の”が気に掛かります。漢詩では“荻”を活かし、“我が宿”ではなく“垣牆”とした。

 

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  夕べの心を詠める 

たそがれに 物思ひをれば 我が宿の

     荻の葉そよぎ 秋風ぞ吹く (金槐集 秋・186;玉葉集 486)

  (大意) 黄昏、物思いに耽っていると、屋敷の庭の荻の葉をそよがして秋風

     が吹く。

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<漢詩> 

  孟秋黄昏心情        孟秋黄昏の心情  [下平声十一尤韻]

黃昏時分暮雲收, 黃昏の時分 暮雲收(オサ)まり,

陷入沈思自休休。 沈思(チンシ)に陷入(オチ)いり自(オノズ)から休休(キュウキュウ)。

瑟瑟秋風撫摩面, 瑟瑟(シツシツ)たる 秋風 面(オモテ)を撫摩(ブマ)し,

垣牆荻葉搖様悠。 垣牆(エンショウ)の荻葉 搖様(ヨウヨウ)悠(ユウ)なり。

 註] 〇休休:心の安らかなさま; 〇瑟瑟:風が寂しく吹くさま; 〇撫摩:

   撫でる; ○垣牆:垣根; 〇搖様:揺れるようす; 〇悠:のどかである。

<現代語訳> 

  初秋夕暮れの気分 

夕暮れ時分 暮雲が収まり、

物思いに耽って心穏やかである。

そっと秋風が吹き抜け 頬を撫でる、

垣根の荻の葉が緩やかに揺れて、長閑である。

<簡体字およびピンイン> 

  孟秋黄昏心情   Mèngqiū huánghūn xīnqíng 

黄昏时分暮云收, Huánghūn shífēn mù yún shōu

陷入沉思自休休。 xiànrù chénsī zì xiū xiū

瑟瑟秋风抚摩面, Sè sè qiūfēng fǔmó miàn,,  

垣墙荻叶摇样悠。 yuán qiáng dí yè yáo yàng yōu

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製本技術の未発達の時代、文書の複製は人手による書写である。書写を繰り返すうちに、書き間違い、読み違い等々、起こり得ることである。一見、紛らわしい文字、“萩”と“荻”については、特にそうで、やむを得ない事情と言えよう。掲歌において、伝本により“萩”と“荻”が混同されているようである。

 

定家本では、平仮名の“おき”また玉葉集では“をぎ”、貞享本を底本とした斎藤茂吉『金槐和歌集』においては漢字“荻”である。一方、群書類聚本(後注)、および貞享本を底本としながら定家本および群書類聚本を比校した『金槐和歌集』(小島吉雄 校注)では“萩”となっている。

 

しかし小島吉雄 校注書では、脚注に、[「荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなべに」と万葉にも新古今にもあるから、“萩”よりも“荻”がよいであろう]としている。下に示した2首が該当する本歌であろう。掲歌は、両歌の本歌取りの歌と解されます。

 

本歌である両首の“荻”は、それぞれ、“葦辺”および場所不特定の“垣(根)”であり、詠われている情景が自然に理解できます。実朝の歌では、“我が宿の”と設定されています。すなわち、湿地帯にある“我が宿”が想起されて、“気掛り”なのである。

 

“我が宿の”の“我”の身は、“隠遁”の身か?ならば、山の麓で川辺に近い所に構えた“庵”が想像でき、歌の情景が率直に目に浮かびますが。

 

実朝が参考にされたと思われる2首:

 

葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の

    吹き来るなへに 雁鳴き渡る (作者不詳 万葉集 巻十・2134)  

 (大意) 葦辺に生える荻の葉がざわつき、秋風が吹き寄せてきた。折しも雁

    が鳴きながら空を渡っていった。

 

かきほなる 荻の葉そよぎ 秋風の  

    吹くなるなへに 雁ぞ鳴くなる  (柿本人麻呂 『新古今集』 秋・497)

  (大意) 垣の所に生えている荻の葉がそよぎ 秋風が吹く音と共に雁の鳴き声

     も聞こえる。   

 

注:群書類聚本:『群書類聚』とは江戸後期の叢書。塙保己一編で、古代から

  近世初期までの国書を25の部門に分けて収めたもので、その中の『金槐

  和歌集』。定家本、貞享本については閑話休題-311参照。 

 

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次の歌は、“実朝らしさを表す歌”として、諸家が評価する歌である。“萩”が詠われていますが、“我が宿”にある“萩”であろう。夕暮れ時、一人でいて庭の萩が気になり、月が出でて、改めて目を遣るに、花が見えない、散ってしまったのかと。

 

“言振(イイブ)りが余程雅(オサナ)くできている。……はかなさ、寂しさを感じている作者の心が、無技巧なほどごく自然に表れている”と、斎藤茂吉の評が紹介されています(渡部泰明「実朝像の由来」)。

 

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  [詞書] 庭の萩 わずかに残れるを 月さし出でてのち見るに 散りにたるや

     花のみえざりしかば    

萩の花 暮れぐれまでも ありつるが 

  月出でて見るに なきがはかなさ (金槐和歌集 秋・188) 

 (大意) 萩の花は つい先ほどの日暮れ時までは あったのだが、月だ出てから

    見てみるとなくなっていた、 何と儚いことだ。

 (註) 〇暮れぐれ:日のくれぎわ; 〇ありつるが:あったが。

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<漢詩> 

   花生命短暫啊      花の生命の短暫(ハカナ)きことよ  [下平声六麻韻]

庭前僅剩胡枝花、 庭前 僅(ワズカ)に剩(ノコ)る胡枝(ハギ)の花、

直到黃昏映彩霞。 直(ジキ) 黃昏(クレ)到(マデ) 彩霞(ユウヤケクモ)に映(ハ)えていた。

月亮上昇来看見、 月亮(ツキ)上昇(ノボ)りて 来て看見(ミル)に、

応憐露水絕紛華。 応(マサ)に憐(アワレ)むべし 露水(ロスイ)に紛華(フンカ)絕(タ)えたり。

 註] 〇短暫:時間がみじかい、儚い; 〇胡枝花:萩の花; 〇月亮:月;

    〇露水:露、かりそめの、儚い; 〇紛華:華やかで美しい、此処では、

    萩の花を指す。

<現代語訳> 

  花のいのちの儚いことよ 

庭先にわずかに残る萩の花、

つい暮れまでは、夕焼けに映えていて、美しかった。

月が昇って、月下に見るに、

まさに憐れむべし、儚く、美しい花はなくなっている、散ってしまったか。

<簡体字およびピンイン> 

 花生命短暂啊      Huā shēngmìng duǎnzàn a 

庭前仅剩胡枝花, Tíng qián jǐn shèng húzhī huā, 

直到黄昏映彩霞。  Zhí dào huánghūn yìng cǎi xiá.  

月亮上升来看见  Yuèliàng shàng shēng lái kàn jiàn, 

应怜露水绝纷华。 yīng lián lùshuǐ jué fēn huá. 

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庭の萩が萎れだしてきたので、気に留めていたのでしょうか。月明かりの下、覗いて見ると、さっきまであった数少なくなっている花がもう見えなくなった。黄昏の頃は、そうでなくとも気の滅入る思いのあるもの。

 

その思いが、率直に詠われているようである。この歌について、参考にしたと思しき「本歌」は挙げられていない。「心に浮かぶ言葉がそのまゝ和歌になっているだけのようで、……」という評言(三木麻子 『源実朝』)に納得します。

 

先述の歌で“萩”と“荻”が話題となりましたが、この歌を参照するなら、やはり先の歌においても“萩”が妥当であるように思える。しかし“秋風にそよぐ”のは、“荻”が相応しく思える。

 

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20歳前後の若者の歌である。現代の18歳成人という時代と直接比較はできないが、12歳に元服、征夷大将軍宣下を受けた実朝である。戦の絶えぬ時代とは言え、“世のはかなさ”を歌に詠む心根には、驚きを禁じ得ない。

 

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  [歌題] 槿(アサガオ)

風を待つ 草の葉におく 露よりも 

  あだなるものは 朝顔の花  (金塊集 秋190) 

 (大意) 風が吹けば露が散る。その風前の露よりもなお儚いものは 咲くかと

    見れば直に萎れる朝顔の花である。

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<漢詩> 

    短暂命花      命の短暂(ミジカ)い花   [下平声一先韻] 

草葉露華鮮, 草葉の露華(ロカ) 鮮なるも,

待風起寒煙。 風を待ちて 寒煙起る。

牽牛花更憫, 牽牛の花 更に憫(アワレ)なり,

剛開就萎蔫。 開いた剛(バカリ)で 就(ス)ぐに萎蔫(シオレ)る。

 註] 〇待風:風を待っていたように風が吹くと直ちに; ○寒煙:寒々とし

    たもや・けむり、露が飛び散っているさま; 〇牽牛花:朝顔の花; 

    〇萎蔫:(草花が)しおれる。

<現代語訳>

 短命の花 

草葉に置いた露は鮮やかであるが、 

風に遭うと忽ちに煙のように散ってしまう。 

朝顔の花は 露よりも一層哀れなものだ、 

咲いたかと思うとすぐに萎れてしまうのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 短暂命花   Duǎnzàn mìng huā 

草叶露华鲜, Cǎo yè lù huā xiān,  

待风起寒烟。 dài fēng qǐ hán yān.

牵牛花更悯, Qiān niú huā gèng mǐn,

刚开就萎蔫。 gāng kāi jiù wěiniān.

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掲歌の歌題“槿”は、まず低木“ムクゲ”を想像する。木性の“ムクゲ”は、庭木として植生され、夏から秋にかけて白または紅紫色の花をつける。その花は朝に開き、夕方にはしぼみ、次々と咲き続ける。“あさがお”とも読まれるようである。

 

歌では、“草の葉”に降りた露が比較の対象であることから、日常に呼ばれる蔓性の“アサガオ”と理解し、牽牛花とした。

コメント
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