晩春から初夏にかけて、枝に黄色い花を連ねてつける山吹、特に八重咲の花は印象的である。金槐集では山吹に関わる歌12首が収められている。この歌は、人に贈ろうと、花の散り残っている一枝を手折っているところを詠っています。
実朝は、ピラミッドの頂に居ながら、農漁民や亡くなった親を求める子供等の庶民、また四方の獣など、世の底辺にある人や物に目を向ける心根の持ち主であるように思える。この歌についても、散り残った山吹の花に対して、同様の態度で臨んでいると言えようか。
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[詞書] 山ふきの花を折らせて人のもとにつかわすとて
散残る 岸の山ぶき 春ふかみ
このひと枝を あはれといはなむ (金槐集 春・104)
(大意) 春が深まって 岸辺の散り残った山吹の花 手折ったひと枝 いとおしいと言ってもらいたいものだ。
註] 〇春ふかみ:春がたけた故; 〇あはれといはなむ:あわれと言っていただきたい、“あはれ”は感深く心ひかれること。
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<漢詩>
棣棠余花 棣棠(ヤマブキ)の余花(ヨカ) [下平声一先韻]
臨岸棣棠花, 岸に臨んで棣棠(ヤマブキ)の花あり,
春深後凋娟。 春深(フコウ)して後凋(コウチョウ)娟(エン)なり。
一条攀折採, 一条(エダ)攀(ヒ)きて折(オ)り採(ト)る,
乃願説可憐。 乃(スナワ)ち 願わくは 可憐(アハレ)と説(イウ)を。
註] 〇棣棠:山吹の花; 〇余花:散り残った花; 〇後凋:「萎むことなく残っている」意、論語「歳寒松柏」(歳寒くして、松柏の凋(シボ)む)に後(オク)るるを知る)に拠る; 〇娟:美しい; 〇乃:すばわち、文のリズムを整える助詞。
<現代語訳>
散り残った山吹の花
岸辺にある山吹の花、
春が深まって散り残っている花が麗しい。
人に差し上げようと、ひと枝を引いて手折った、
何ともいとおしい と言ってほしいものであるよ。
<簡体字およびピンイン>
棣棠余花 Dìtáng yú huā
临岸棣棠花, Lín àn dìtáng huā,
春深後凋娟。 chūn shēn hòu diāo juān.
一条攀折采, Yī tiáo pān zhé cǎi,
乃愿说可怜。 nǎi yuàn shuō kělián.
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“ピラミッドの底辺に思い遣る心根”を詠っている。しかし実朝は、その他の歌をも含めて、特に底辺のみに目を向けているわけではなく、また大上段に構えて、主義主張を訴え、どうしようと言うわけでもない。現実の世の中の姿を六感で率直に感じ取り、心の動くまゝに淡々と歌にしているように思える。
小林秀雄は、『モオツアルト・無常という事』中『源実朝』で、この歌を取り上げている。其の中で、「……、奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持って生まれた精妙な音楽のうちに、すばやく捕らえられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたう。」と述べている。
恥ずかしながら、筆者は同書を充分に理解できる文的才を持ち合わせていない。したがって此処でこのフレーズを取り上げた理由を問われても、満足な説明はできないのであるが、実朝の作歌態度を想像すると、妙にこのフレーズが気になるのである。