恋の歌、想いを訴えることができず、悩み多き時代の青年期実朝の歌である。今流に言えばplatonic loveでしょうか。将軍という特殊な環境に置かれながらも、はにかみ、悩んでいる姿が想像されて、微笑ましい限りである。
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み熊野の 浦の浜木綿(ハマユフ) 言はずとも
思ふ心の 数を知らなむ (金槐集 恋・506)
(大意)熊野の浦の浜木綿(ハマユウ)ではないが、口に出して言わ(いう)ず
とも、あなたを思う私の心の多いのを知ってもらいたいものである。
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<漢詩>
沈默語 沈默の語り [下平声八庚韻]
文殊蘭寄語, 文殊の蘭(ラン) 語を寄すも,
世人敢不声。 世人 敢(ア)えて声(カタ)らず。
願為相察覚, 願わくは 為(タメ)に相(ア)い察覚(カンヅク)を,
切切斯深情。 切切(セツセツ)たる斯(コ)の深き情(オモイ)。
註] 〇文殊蘭:熊野の浦の“浜木綿”の意と“(文殊菩薩の)蘭”の意を含めた;
○世人:世の中の人、ここでは作者自身; 〇察覚:察する、感づく、
気づく; 〇切切:心に強く迫るさま、切実である。
※ 起句では、歌中の浜木綿(ハマユウ)の“ユウ”と“言う”の掛詞を念頭においたが、
“文殊菩薩の蘭”として特に意味はない。歌の表現“意図”を示す一工夫であ
る。
<現代語訳>
言わず語り
浜木綿(ハマユウ)は言うが、
私は敢えて声に出して言うことはしない。
願わくは語らずとも察して欲しいものである、
切切たるこの熱き想いを。
<簡体字およびピンイン>
沉默语 Chénmò yǔ
文殊兰寄语, Wénshū lán jì yǔ,
世人敢不声。 shì rén gǎn bù shēng.
愿为相察觉, Yuàn wéi xiāng chájué,
切切斯深情。 qiè qiè sī shēnqíng.
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上掲の実朝の歌は、拾遺集に撰された万葉集中次の柿本人麻呂の歌の“本歌取り”の一例である。実朝は、特に、人麻呂の歌を愛していたようで、人麻呂の歌の“本歌取り”の歌は多いという(下記を参照)。
み熊野の 浦の浜木綿 百重(モモヘ)なす
心は思へど 直(タダ)に逢はぬかも
(柿本人麻呂 『万葉集』 巻四 496; 拾遺集 巻第十一 668 )
(大意) 熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にもあ
なたのことを思っていますが、直接に会えないことよ。
歌人・源実朝の誕生 (25)
賀茂真淵(閑話休題-329)、続いて正岡子規(同-330)の評価を得て、実朝は、当時、稀に見る万葉調の歌人であると注目される所となり、その歌風は、『万葉集』を味読することによって習得されたものであろうと、解されていた。
特に、定家から相伝私本の『万葉集』が贈られている(建歴三年十一月二十三日、実朝22歳)ことから、この『万葉集』に接したことが契機となり、実朝の歌風に飛躍が齎された、すなわち、万葉調の歌は、実朝晩年の作であろうと解釈されていた。
昭和初期、佐佐木信綱により定家所伝本『金槐集』が発見され、その奥書に定家の筆で「建暦三年十二月十八日」と記されていることが判明した。信綱は、実朝が書いたのを定家がそのまま写したものと推定している。
実朝の万葉調と目される歌のほとんどが定家所伝本に収められていることから、それらの歌は、定家から『万葉集』が贈られる以前、22歳までの作であることを意味し、これまでになされていた上述の推定に疑問符が付された。
“11月23日”から“12月18日”の短期間で、かほど多くの万葉調歌を作ることは考えにくいことから、信綱は、「定家から贈られる前に、すでに『万葉集』を所持し、味読していたのであろう」と推定している。この“推定”を否定することはできない。
斎藤茂吉は、別の可能性を提示している。一つは、和歌に関りのあった近臣で、京都歌壇との交渉があった人々が『万葉集』の一部の写しを持っていて、『万葉集』に関する知恵を実朝に与えたこともあろう。
今一つは、『万葉集』そのものではなく、勅撰集の歌を通じて『万葉集』の作者に接触し、それらの万葉歌人の歌の影響を受けた可能性である。事実、19歳(承元四年)の折、大江広元から三代集(古今、後撰、拾遺)、後に定家から『新古今集』、『近代秀歌』等の和歌文書が贈られている。
実朝は、“本歌取り”による作歌例が多い。そこで実朝の“本歌取り”の歌とそれら歌書中の“本歌”を逐一調べた。その結果、実朝は、『拾遺集』を愛読し、『拾遺集』中の柿本人麻呂、山部赤人や読み人知らずの万葉調の歌に心を惹かれ、特に人麻呂を尊敬していたようであることが示唆された。
すなわち、直接『万葉集』に頼ることなく、他の歌集に散見される万葉歌人の理解を通して万葉調の歌を詠まれていたことも十分に有り得ることが明らかにされたのである。併せて、これらの歌が、22歳までの作と言うことで、歌人・実朝の力量は並みでないことを改めて証明された としている。
『新古今集』や定家から贈られた『近代秀歌』中の「近代六歌仙」の歌を本歌とした歌も多く作られている。「……、定家から本歌取りのことを言われて、手本の歌もどしどし模倣しているのであるが、幽玄の余り難しいところは模倣していない」と、茂吉の印象である。
ただ、「……これは単に初学者だったという意味ではなく、全体として実朝の歌の傾向がそういう方向を取ろうと言うことを示しているのである」。定家の与えた手本に対して、これだけの作歌実行を直ちに行ったことは、「実朝がいかに歌が好きで、且つ勤勉であったかということを証するものだと思う」と論じている(斎藤茂吉選集・歌論『源実朝』(岩波書店,1982)に拠った)。
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