愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題332 飛蓬-185  古寺の 朽木の梅も  鎌倉右大臣 源実朝

2023-05-15 09:40:22 | 漢詩を読む

春雨がしとしとと降る中、勝長寿院(ショウチョウジュイン)を訪れている。古い梅の枝葉もしっとりと濡れて、花の蕾が膨らんで、今にも開こうとしている。小雨も厭わず、春の息吹を感じつゝ、境内を散策している様子です。

 

oooooooooooooo    

  詞書] 雨そぼ降れる朝(アシタ) 勝長寿院の梅、所どころ咲きたるを見て、花

   にむすびつけし歌   

古寺の 朽木の梅も 春雨に 

  そぼちて花ぞ ほころびにける (源実朝『金槐和歌集』 春・27)  

  (大意) 古寺の朽ちた梅の木が 春の雨にしっとりと濡れて 花のつぼみが綻

  びだしている。 

  註] 〇そぼちて:しっとりと濡れて。

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<漢詩> 

   春雨促茁梅花    春雨 梅花の茁(ホコロビ)を促す 

古寺院中梅朽柯,  古寺の院中 梅の朽柯(クチギ)あり, 

御寒独立带微霞。 寒を御(シノ)いで 独り立ち 微かに靄(カスミ)を帯びる。 

淅淅春雨湿枝葉, 淅淅(セキセキ)として春雨 枝葉を湿(ウルオ)し, 

稀稀南枝促茁花。 稀稀(キキ)として南枝に 花の茁(ホコロ)ぶを促す。 

 註] ○茁:草木が芽をだす; 〇柯:草木の枝や茎; 〇御:抵抗する、

  しのぐ; 〇淅淅:しとしとと小雨が降るさま; 〇稀稀:ぽつぽつと、 

  所どころ。 

<現代語訳> 

 春雨 梅花の開花を促す

古寺・勝長寿院の庭にある梅の古木、

寒に耐えて独りで立って、微かに春霞を帯びている。

しとしと降る春の小雨に、枝葉もしっとりと濡れて、

南枝に点点と花のつぼみが綻び始めたのが見える。

<簡体字およびピンイン> 

  春雨促茁梅花    Chūnyǔ cù zhuó méi huā 

古寺院中梅朽柯, Gǔ sì yuàn zhōng méi xiǔ ,   [下平声五歌-六麻通韻]

御寒独立带微霞。 yù hán dú lì dài wēi xiá.  

淅淅春雨湿枝叶, Xī xī chūn yǔ shī zhī yè, 

稀稀南枝促茁花。 xī xi nán zhī cù zhuó huā

oooooooooooooo 

 

勝長寿院は、鎌倉時代初期、1184年に頼朝が建てた寺院で大御堂(オオミドウ)とも、また幕府御所の南にあることから南御堂(ミナミミドウ)とも呼ばれていた。父・義朝の菩提を弔うために建てられた。

 

当時、鶴岡八幡宮、永福寺(ヨウフクジ)と共に、鎌倉の三大寺社の一つであったが、16世紀ころ廃寺となり、現在はその跡に石碑がある と。実朝は、よくここを訪れて、歌を詠んでいたようである。

 

歌人・源実朝の誕生 (26) 

 

“歌人・源実朝の誕生”を「§1章 実朝の天分・DNA、§2章 教育環境、特に和歌の師匠、§3章 後世での評価」として概観してきました。実朝の歌について、世の注目を惹くようになったのは、先ず賀茂真淵に遡り、実朝の万葉調の歌に感動されたことに始まり、また正岡子規がさらにそれを強調されたことによる。

 

本稿では、その経緯を中心に論を進めてきましたが、「実朝は、万葉歌人である」ということを意味するわけではない。事実、『金槐集』中、むしろ古今調、新古今調の歌も多く、それらが大半を占めているようである。言わば、実朝は、“all-round player”なのである。

 

本歌取りや模倣ではなく、素朴な実感に根差した発想と自由で大胆な用語や句法による、実朝独特の特徴的な歌が数多あり、それらが、当時の京都歌壇では見るを得ない新味をもたらし、それが後世人の注意をひくことに繋がったと言えよう。

 

師弟関係、あるいは歌仲間という関係で捉えることはできず、また直接的な交流もあり得ないながら、“非常に密な関係”にあり、触れずに通り過ごすことのできないのは、後鳥羽上皇と実朝の関係であろう。

 

後鳥羽上皇と実朝の関係を振り返ってみます。1203年9月7日、京都・朝廷は、千幡(実朝の幼名)を従五位下・征夷大将軍に任じ、10月8日、千幡は12歳で元服、後鳥羽上皇の命名により、“実朝”と称するようになった。

 

実朝は、1204年12月、後鳥羽上皇の寵臣・坊門信清の娘、また上皇の従妹でもある西八条禅尼を正室(御台所)に迎えている。斯様に一見関係は深そうに見えるが、これらは、政治的な一表現であり和歌とは直接に関係はない。 

 

唯、実朝は、後鳥羽上皇に対して非常な尊敬の念を抱いており、また和歌に関しても大きな影響を受けたことが伺い知れるようである。実朝の歌の大きな特徴に“本歌取り”の歌の多いことが通説となっている。

 

斎藤茂吉は、諸“歌集”や京都から寄せられた歌合(ウタアワセ)の記録等の“歌書”を対象にして、後鳥羽上皇の歌を本歌とした実朝の“本歌取り”の歌を調査している。それによると、実朝の歌57首が該当するとして挙げられている。

 

茂吉は、『……御製歌に実朝が接触し、当代の歌人にましました後鳥羽院の御作歌態度を実朝が尊仰し奉ったと看做(ミナ)すことは敢えて不条理ではなかろうとおもうのである』としている。(斎藤茂吉選集 『歌論 源実朝』岩波書店)

 

『後鳥羽院および実朝の歌の風格には類似があるとされる。第一:何らの屈託もなく他人の歌を模倣すること、第二:引き締まった長高の趣きを有し、一種の気品のようなものが漂っていること。』

 

『この両者の類似は、恐らくは両者の風格の類似であろうと思う。……風雅の道に遊ぶ数寄の精神の保持者である非職業歌人的性格が後鳥羽上皇にも実朝にもあり、そして、両者相似た境遇が自ずから王者的気品をもたらし、それが、両者の作歌態度や作風に類似あらしめた一番大きな理由であろうと思うのである』(小島吉雄校注 『金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店)。

 

歌人・実朝の誕生」はここで締めとします。現今、“歌人”としてだけでなく、各方面から“源実朝”に関する研究成果が報告されています。以後、実朝の歌の漢詩化を進めつつ、折に触れ、現今の話題を取り上げていくつもりです。以後もご後援 よろしくお願いします。

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