―――――
この一句!:
飲如長鯨吸百川
飲みっぷりは大クジラが百もの川の水を一口に吸い込むようなものだ
盛唐時の愛飲家を紹介する、杜甫の「飲中八仙歌」の中の一句です。愛飲家八人衆の一人、左丞相の李適之の飲むさまを詠っています。
―――――
“飲中”とは、今様に言えば“アル中”でしょうか? 社会派の‘詩聖’と言われる杜甫にしては珍しく、ダジャレに近い、非常に愉快な詩を残しています。「飲中八仙歌」のうち酒豪四人を取り上げます。下の詩参照。
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飲中八仙歌
知章騎馬似乗船、 知章(チショウ)が馬に騎(ノ)るは船に乗るに似たり、
眼花落井水底眠。 眼花(ガンカ) 井に落ちて水底に眠る。
汝陽三斗始朝天、 汝陽(ジョヨウ)は三斗にして始めて天に朝し、
道逢麹車口流涎、 道に麹車(キクシャ)に逢えば口に涎(ヨダレ)を流す、
恨不移封向酒泉。 恨(ウラ)むらくは封(ホウ)を移して酒泉に向わざるを。
左相日興費万銭、 左相(サショウ)の日興(ニッキョウ) 万銭を費やす、
飲如長鯨吸百川、 飲むこと長鯨(チョウゲイ)の百川(ヒャクセン)を吸うが如し、
銜杯楽聖称避賢。 杯を銜(フク)み聖(セイ)を楽しみ賢(ケン)を避(サ)くと称す。
………(省略)
李白一斗詩百篇、 李白一斗 詩 百篇、
長安市上酒家眠、 長安市上 酒家(シュカ)に眠る、
天子呼来不上船、 天子 呼び来たれども船に上(ノボ)らず、
自称臣是酒中仙。 自(ミズカ)ら称す 臣(シン)は是(コレ)酒中(シュチュウ)の仙と。
………(省略)
註]
眼花:目がかすむこと、目がまわる
麹車:酒の原料である麹(コウジ)を積んだ車
聖と賢:それぞれ、清酒と濁酒;お酒の隠語、魏の曹操が禁酒令を出したときに密かに使われていたらしい
<現代語訳>
愛飲家八人衆の歌
賀知章が酔って馬に乗ると、ゆらゆらと揺れていて舟に乗っているようだ、
目はかすんでいて、井戸に落ちてもそのまま水中で眠り込みそう。
汝陽王は、三斗のお酒を飲んでから出仕する、
途中麹(コウジ)を運ぶ車に出会うと口から涎を流して、
酒泉に封じられなかったことを恨んでいる。
左丞相の李適之(リ セキシ)は、日々の遊興に万銭を使い、
飲みっぷりは大きなクジラが百もの川の水を吸い込むようなものだ。
飲むにあたって清酒は頂くが、濁り酒は避けているという。
……(省略)
李白は、一斗の酒を飲むと、詩百編ができる。
都長安の酒場で眠りこけて、
帝のお呼びが掛かっても応えず、
「私は酒浸りの仙人なのだ」と嘯いている。
…… (省略)
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陶淵明から離れて、まず杜甫が挙げた愛飲家たちを「飲中八仙歌」で見ます。作者の杜甫については改めて触れるとして、今回は「飲中八仙歌」中、四人の酒豪について見て行きます。
賀知章(ガ チショウ、659-744)については、本シリーズの初期に触れました(閑話休題12 & 13、参照)。簡単に振り返っておきます。
李白が初めて宮中で玄宗皇帝にお目に掛かった際、偶然に賀知章も居合わせていた。そこで李白の詩文を見て即座に「謫仙人也」と評して、皇帝に紹介し、李白が宮廷詩人となる機会を得たという逸話がある。
賀知章は、紹興酒で名高い紹興の出です。李白は、後に紹興を訪ね、“昔、長安で自分を‘謫仙人’と評した。貴重な持ち物を酒代に変えてはご馳走してくれたが、今は草葉の陰に眠る。酒を飲むと思い出し、涙がこぼれる“と述懐する詩を残しています(「対酒憶賀監」)。
賀知章は、無類の酒好きで‘四明狂客’と号した(四明:紹興に近い四明山の略)。酔うと目はかすんできて、馬に乗る姿は舟に乗っているかのようである。手綱もしっかりと持っている風には見えない。井戸に落ちてそのまま寝込むのではないか と。
汝陽王・李璡 (リ シン、? ~750) は、玄宗皇帝の兄・寧王・李憲の子。三斗の酒を飲んでやっとこさ腰を上げて出仕する。道で酒の原料である麹を積んだ車に出くわすと、その香りに刺激されて、涎を流し、恨みを込めて言う、どうして酒泉(現甘粛省)に封じてくれないのだ と。
“ダジャレのおじさん”とよく耳にします。杜甫が宮廷に出入りしていた40歳台のころ、まさに‘おじさん’の頃の作品かと想像しています。“硬い社会派”とレッテルを張りがちですが、人間杜甫の奥行きが感じられて、楽しくなります。
左丞相の李適之 (リ セキシ、694~747) は、大酒豪で一斗のお酒を飲んでも酔わなかった と。まさに大きなクジラが幾本もの川の水を一口で吸い込むという表現がぴったりと来るように思える。
李適之は、時の宰相・李林逋との権力争いに敗れて相(ショウ)を退いています(746)。李林逋は、玄宗皇帝の下、長年宰相の座にあって、名だたる腐敗政治の元凶とされています。政敵に対しては容赦することはなかった と。
李適之は、相を退くに当たって、“賢(ケン)を避けて初めて相(ショウ)を罷(ヤ)め、聖(セイ)を楽しんで且(シバ)らく杯を銜(フク)む。”で始まる五言絶句「罷相作、相を罷 (ヤ)めて作る」という詩を作っています。
その心は、“腐敗して濁った世界(賢=濁り酒)を避けて、清らかな世界(聖=清酒)に行き、一杯頂くとしよう”と、自らの身の振り方とお酒を掛けた表現です。この掛言葉は、杜甫の発想ではなく、李適之の発想でした。
なお、李適之は、丞相を辞した翌年(747)、毒薬を飲んで自害しています。権力闘争の結末であったのではないでしょうか。
李白は、“一斗詩百篇”と評されています。常時お酒を頂くのと詩作が同時進行であったことを言っているのでしょう。
杜甫と李白は、李白が長安を追われた744年に洛陽において逢っています。二人が知己を得た最初の機会だったのではないでしょうか。翌745年には斉の国で再会し、飲み回っていたようですが、またそれが最後の会合であったようです。
杜甫は、李白をはじめ詩中の人々の行状を直接目撃しているわけではなさそうです。この詩は、杜甫が長安に出たころ、多分に750年代、長安での風聞を基にして書かれたものと思われます。
八仙中、李白以外の諸人については2~3句ですが、李白については4句を当てています。李白-杜甫の関係の深さ、あるいは李白に対する杜甫の尊敬の念の強さを示しているのでしょう。
「飲中八仙歌」のその他四人については:張旭(書家)及び焦遂(詳細不明)はそれぞれ酒量3杯及び5斗、また崔宗之(垢ぬけた美少年)及び蘇晋(禅僧?)については飲みっぷりを窺わせる表現はありません。
この詩は、作られた直後に公にされたのでしょうか?歌に詠まれた当人の感想を聞きたいものです。750年代の作とすれば、多くの方々が已に亡くなっておられますが。
この一句!:
飲如長鯨吸百川
飲みっぷりは大クジラが百もの川の水を一口に吸い込むようなものだ
盛唐時の愛飲家を紹介する、杜甫の「飲中八仙歌」の中の一句です。愛飲家八人衆の一人、左丞相の李適之の飲むさまを詠っています。
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“飲中”とは、今様に言えば“アル中”でしょうか? 社会派の‘詩聖’と言われる杜甫にしては珍しく、ダジャレに近い、非常に愉快な詩を残しています。「飲中八仙歌」のうち酒豪四人を取り上げます。下の詩参照。
xxxxxxxxxxxx
飲中八仙歌
知章騎馬似乗船、 知章(チショウ)が馬に騎(ノ)るは船に乗るに似たり、
眼花落井水底眠。 眼花(ガンカ) 井に落ちて水底に眠る。
汝陽三斗始朝天、 汝陽(ジョヨウ)は三斗にして始めて天に朝し、
道逢麹車口流涎、 道に麹車(キクシャ)に逢えば口に涎(ヨダレ)を流す、
恨不移封向酒泉。 恨(ウラ)むらくは封(ホウ)を移して酒泉に向わざるを。
左相日興費万銭、 左相(サショウ)の日興(ニッキョウ) 万銭を費やす、
飲如長鯨吸百川、 飲むこと長鯨(チョウゲイ)の百川(ヒャクセン)を吸うが如し、
銜杯楽聖称避賢。 杯を銜(フク)み聖(セイ)を楽しみ賢(ケン)を避(サ)くと称す。
………(省略)
李白一斗詩百篇、 李白一斗 詩 百篇、
長安市上酒家眠、 長安市上 酒家(シュカ)に眠る、
天子呼来不上船、 天子 呼び来たれども船に上(ノボ)らず、
自称臣是酒中仙。 自(ミズカ)ら称す 臣(シン)は是(コレ)酒中(シュチュウ)の仙と。
………(省略)
註]
眼花:目がかすむこと、目がまわる
麹車:酒の原料である麹(コウジ)を積んだ車
聖と賢:それぞれ、清酒と濁酒;お酒の隠語、魏の曹操が禁酒令を出したときに密かに使われていたらしい
<現代語訳>
愛飲家八人衆の歌
賀知章が酔って馬に乗ると、ゆらゆらと揺れていて舟に乗っているようだ、
目はかすんでいて、井戸に落ちてもそのまま水中で眠り込みそう。
汝陽王は、三斗のお酒を飲んでから出仕する、
途中麹(コウジ)を運ぶ車に出会うと口から涎を流して、
酒泉に封じられなかったことを恨んでいる。
左丞相の李適之(リ セキシ)は、日々の遊興に万銭を使い、
飲みっぷりは大きなクジラが百もの川の水を吸い込むようなものだ。
飲むにあたって清酒は頂くが、濁り酒は避けているという。
……(省略)
李白は、一斗の酒を飲むと、詩百編ができる。
都長安の酒場で眠りこけて、
帝のお呼びが掛かっても応えず、
「私は酒浸りの仙人なのだ」と嘯いている。
…… (省略)
xxxxxxxxx
陶淵明から離れて、まず杜甫が挙げた愛飲家たちを「飲中八仙歌」で見ます。作者の杜甫については改めて触れるとして、今回は「飲中八仙歌」中、四人の酒豪について見て行きます。
賀知章(ガ チショウ、659-744)については、本シリーズの初期に触れました(閑話休題12 & 13、参照)。簡単に振り返っておきます。
李白が初めて宮中で玄宗皇帝にお目に掛かった際、偶然に賀知章も居合わせていた。そこで李白の詩文を見て即座に「謫仙人也」と評して、皇帝に紹介し、李白が宮廷詩人となる機会を得たという逸話がある。
賀知章は、紹興酒で名高い紹興の出です。李白は、後に紹興を訪ね、“昔、長安で自分を‘謫仙人’と評した。貴重な持ち物を酒代に変えてはご馳走してくれたが、今は草葉の陰に眠る。酒を飲むと思い出し、涙がこぼれる“と述懐する詩を残しています(「対酒憶賀監」)。
賀知章は、無類の酒好きで‘四明狂客’と号した(四明:紹興に近い四明山の略)。酔うと目はかすんできて、馬に乗る姿は舟に乗っているかのようである。手綱もしっかりと持っている風には見えない。井戸に落ちてそのまま寝込むのではないか と。
汝陽王・李璡 (リ シン、? ~750) は、玄宗皇帝の兄・寧王・李憲の子。三斗の酒を飲んでやっとこさ腰を上げて出仕する。道で酒の原料である麹を積んだ車に出くわすと、その香りに刺激されて、涎を流し、恨みを込めて言う、どうして酒泉(現甘粛省)に封じてくれないのだ と。
“ダジャレのおじさん”とよく耳にします。杜甫が宮廷に出入りしていた40歳台のころ、まさに‘おじさん’の頃の作品かと想像しています。“硬い社会派”とレッテルを張りがちですが、人間杜甫の奥行きが感じられて、楽しくなります。
左丞相の李適之 (リ セキシ、694~747) は、大酒豪で一斗のお酒を飲んでも酔わなかった と。まさに大きなクジラが幾本もの川の水を一口で吸い込むという表現がぴったりと来るように思える。
李適之は、時の宰相・李林逋との権力争いに敗れて相(ショウ)を退いています(746)。李林逋は、玄宗皇帝の下、長年宰相の座にあって、名だたる腐敗政治の元凶とされています。政敵に対しては容赦することはなかった と。
李適之は、相を退くに当たって、“賢(ケン)を避けて初めて相(ショウ)を罷(ヤ)め、聖(セイ)を楽しんで且(シバ)らく杯を銜(フク)む。”で始まる五言絶句「罷相作、相を罷 (ヤ)めて作る」という詩を作っています。
その心は、“腐敗して濁った世界(賢=濁り酒)を避けて、清らかな世界(聖=清酒)に行き、一杯頂くとしよう”と、自らの身の振り方とお酒を掛けた表現です。この掛言葉は、杜甫の発想ではなく、李適之の発想でした。
なお、李適之は、丞相を辞した翌年(747)、毒薬を飲んで自害しています。権力闘争の結末であったのではないでしょうか。
李白は、“一斗詩百篇”と評されています。常時お酒を頂くのと詩作が同時進行であったことを言っているのでしょう。
杜甫と李白は、李白が長安を追われた744年に洛陽において逢っています。二人が知己を得た最初の機会だったのではないでしょうか。翌745年には斉の国で再会し、飲み回っていたようですが、またそれが最後の会合であったようです。
杜甫は、李白をはじめ詩中の人々の行状を直接目撃しているわけではなさそうです。この詩は、杜甫が長安に出たころ、多分に750年代、長安での風聞を基にして書かれたものと思われます。
八仙中、李白以外の諸人については2~3句ですが、李白については4句を当てています。李白-杜甫の関係の深さ、あるいは李白に対する杜甫の尊敬の念の強さを示しているのでしょう。
「飲中八仙歌」のその他四人については:張旭(書家)及び焦遂(詳細不明)はそれぞれ酒量3杯及び5斗、また崔宗之(垢ぬけた美少年)及び蘇晋(禅僧?)については飲みっぷりを窺わせる表現はありません。
この詩は、作られた直後に公にされたのでしょうか?歌に詠まれた当人の感想を聞きたいものです。750年代の作とすれば、多くの方々が已に亡くなっておられますが。
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