(17番) ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
から紅に 水くくるとは
<訳> 不思議で奇跡的なことが多かったという神代にも、こんなことは聞いたことがありません。この龍田川で、鮮やかな紅色に水を括り染めにするなどということは。(板野博行)
紅葉の名所、奈良・竜田川の晩秋を描いた屏風絵を見て詠った。川面が、真っ赤な落葉で敷き詰められて道をなしているような情景から、絞り染めの布へと想像を膨らませている。水に絞り染めを施すなんて、かつて聞いたことがないことだ と。
色鮮やかな屏風絵に対する感嘆の情を詠っているようではある。さりながら実は、遂げることの叶わなかった今に蘇る昔の熱い胸の内を訴えているのであろう と読む人もおり、後述するように、肯けるように思える。
七言絶句にしてみました。以下ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> [去声七遇韻]
・看屏風上龍田河楓画詠 屏風上龍田河楓(モミジ)の画を看(ミ)て詠む
一片絶佳奇眺望。 一片の絶佳 奇(マレ)な眺望、
龍田河面血紅路, 龍田河の面(カワモ) 血紅(マッカ)な路,
激捷神世誰聴见, 激捷(チハヤブル)神世(カミノヨ) 誰か聴见(チョウケン)せしか,
把水絞染成錦布。 水を把(トッ)て絞染(シボリゾメ)して錦布(キンプ)と成すを。
註]
・ 龍田河:奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田川。紅葉の名所。和歌に多く読み込まれる名所の一つで歌枕。
一片:あたり一面。 血紅:真っ赤な。
激捷:“ちはやぶる”に相当する枕詞。“ちはやぶる”の成り立ち「“ち(いち)”=激しい勢いで、“はや”=敏捷に、“ぶる”=ふるまう」を考慮した筆者の造語。
絞染:絞り染め、括り染め。
<現代語訳>
龍田川楓の屏風絵を見て詠む
辺り一面、すばらしく稀にみる眺めで、
龍田川の川面は真っ赤に染まった道のようだ。
様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえ誰が耳にしたであろうか、
水を絞り染めにして錦の布に仕立てるとは。
<簡体字およびピンイン>
看屏风上龙田河枫画咏 Kàn píngfēng shàng Lóngtián hé fēng huà yǒng
一片绝佳奇眺望。Yīpiàn jué jiā qí tiàowàng,
龙田河面血红路,Lóngtián hé miàn xuèhóng lù.
激捷神世谁听见,Jī jié shén shì shéi tīngjiàn,
把水绞染成锦布。bǎ shuǐ jiǎo rǎn chéng jǐn bù.
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作者・在原業平(825~880)は、父方を辿れば平城天皇(51代、在位806~809)の孫・桓武天皇(50代、同781~806)の曾孫、母方を辿れば桓武天皇の孫と、高貴な血筋の人である。しかし高尊の生まれながら、役職の面でやや不遇な生涯であったと言えようか。
当時の政治状況が災いしたのでしょうか。皇統は、平城天皇から嵯峨天皇(52代、809~823)に移り(809)、また平城・嵯峨両帝の争い(通称・薬子の変、810)があり、平城帝の側にいた業平は臣籍降下して、在原朝臣を名乗るようになった。
美男子の代名詞としての在原業平は、しっかりと歴史書に記されているようである。当時編纂された歴史書『日本三代実録』(後注参照)中、“容貌は雅やかで麗しいが、物事に囚われず奔放。基礎的学力は乏しいが、和歌はすばらしい”と。
掲題の和歌は、『古今和歌集』に収められた在原業平の代表的な一首である。『古今和歌集』の30首を含めて、勅撰和歌集に87首入撰している と。ただ自撰の私家集はないようである。
紀貫之は、在原業平を“その心余りて言葉足らず(感情ばかりが溢れて、言葉で表現しきれていない)”と『古今和歌集仮名序』で評している由である。が目にした限りの歌について言えば、心惹かれる歌ばかりである。六歌仙・三十六歌仙の一人である。
在原業平と言えば、その奔放なプレイボーイぶり、中でも二条后(藤原高子)との恋愛は、避けて通れない話題である。高子がまだ宮中に上がる前に、二人は密かに逢瀬を重ねる関係にあった。
恐らく高子は、(筆者の勘繰りだが)藤原家にとっては外戚関係を築くための貴重なコマであった筈である。業平如き身分の低い者と想いが遂げられることはあり得ない。悟った二人は駆け落ちを決行した。が露呈して、高子は兄に連れ戻された。
後に高子は清和天皇(57代、同858~876)の后となり、次代の陽成天皇(同876~884)の母となる。ある時、二条后のサロンで催しがあり、文屋康秀(閑話休題127参照、百人一首22番)、素性法師(同21番)らに交じって、業平も招かれて后に和歌を献上した。
后のサロンには、竜田川に紅葉の落葉が流れる様子を描いた屏風があった。その屏風絵を見て、在原業平が詠ったのが掲題の歌である。“神世にも見たことがない麗しいあなたへ、真っ赤に燃える我が思いを” と、后に訴えていると読めそうである。
作者・成立年は不詳であるが、『古今和歌集』と同じ頃に成立したとされている読み物に『伊勢物語』がある。在原業平の和歌をふんだんに用い、業平と思しき男の生涯を、恋愛を中心に描いた“歌物語”である と。
注]
『日本三代実録』:平安時代に編纂された歴史書。清和・陽成・光孝天皇の3代、858年8月~887年8月の30年間を扱う。編年体、漢文、全30巻。901年成立。編者:藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
から紅に 水くくるとは
<訳> 不思議で奇跡的なことが多かったという神代にも、こんなことは聞いたことがありません。この龍田川で、鮮やかな紅色に水を括り染めにするなどということは。(板野博行)
紅葉の名所、奈良・竜田川の晩秋を描いた屏風絵を見て詠った。川面が、真っ赤な落葉で敷き詰められて道をなしているような情景から、絞り染めの布へと想像を膨らませている。水に絞り染めを施すなんて、かつて聞いたことがないことだ と。
色鮮やかな屏風絵に対する感嘆の情を詠っているようではある。さりながら実は、遂げることの叶わなかった今に蘇る昔の熱い胸の内を訴えているのであろう と読む人もおり、後述するように、肯けるように思える。
七言絶句にしてみました。以下ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> [去声七遇韻]
・看屏風上龍田河楓画詠 屏風上龍田河楓(モミジ)の画を看(ミ)て詠む
一片絶佳奇眺望。 一片の絶佳 奇(マレ)な眺望、
龍田河面血紅路, 龍田河の面(カワモ) 血紅(マッカ)な路,
激捷神世誰聴见, 激捷(チハヤブル)神世(カミノヨ) 誰か聴见(チョウケン)せしか,
把水絞染成錦布。 水を把(トッ)て絞染(シボリゾメ)して錦布(キンプ)と成すを。
註]
・ 龍田河:奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある竜田川。紅葉の名所。和歌に多く読み込まれる名所の一つで歌枕。
一片:あたり一面。 血紅:真っ赤な。
激捷:“ちはやぶる”に相当する枕詞。“ちはやぶる”の成り立ち「“ち(いち)”=激しい勢いで、“はや”=敏捷に、“ぶる”=ふるまう」を考慮した筆者の造語。
絞染:絞り染め、括り染め。
<現代語訳>
龍田川楓の屏風絵を見て詠む
辺り一面、すばらしく稀にみる眺めで、
龍田川の川面は真っ赤に染まった道のようだ。
様々な不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえ誰が耳にしたであろうか、
水を絞り染めにして錦の布に仕立てるとは。
<簡体字およびピンイン>
看屏风上龙田河枫画咏 Kàn píngfēng shàng Lóngtián hé fēng huà yǒng
一片绝佳奇眺望。Yīpiàn jué jiā qí tiàowàng,
龙田河面血红路,Lóngtián hé miàn xuèhóng lù.
激捷神世谁听见,Jī jié shén shì shéi tīngjiàn,
把水绞染成锦布。bǎ shuǐ jiǎo rǎn chéng jǐn bù.
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作者・在原業平(825~880)は、父方を辿れば平城天皇(51代、在位806~809)の孫・桓武天皇(50代、同781~806)の曾孫、母方を辿れば桓武天皇の孫と、高貴な血筋の人である。しかし高尊の生まれながら、役職の面でやや不遇な生涯であったと言えようか。
当時の政治状況が災いしたのでしょうか。皇統は、平城天皇から嵯峨天皇(52代、809~823)に移り(809)、また平城・嵯峨両帝の争い(通称・薬子の変、810)があり、平城帝の側にいた業平は臣籍降下して、在原朝臣を名乗るようになった。
美男子の代名詞としての在原業平は、しっかりと歴史書に記されているようである。当時編纂された歴史書『日本三代実録』(後注参照)中、“容貌は雅やかで麗しいが、物事に囚われず奔放。基礎的学力は乏しいが、和歌はすばらしい”と。
掲題の和歌は、『古今和歌集』に収められた在原業平の代表的な一首である。『古今和歌集』の30首を含めて、勅撰和歌集に87首入撰している と。ただ自撰の私家集はないようである。
紀貫之は、在原業平を“その心余りて言葉足らず(感情ばかりが溢れて、言葉で表現しきれていない)”と『古今和歌集仮名序』で評している由である。が目にした限りの歌について言えば、心惹かれる歌ばかりである。六歌仙・三十六歌仙の一人である。
在原業平と言えば、その奔放なプレイボーイぶり、中でも二条后(藤原高子)との恋愛は、避けて通れない話題である。高子がまだ宮中に上がる前に、二人は密かに逢瀬を重ねる関係にあった。
恐らく高子は、(筆者の勘繰りだが)藤原家にとっては外戚関係を築くための貴重なコマであった筈である。業平如き身分の低い者と想いが遂げられることはあり得ない。悟った二人は駆け落ちを決行した。が露呈して、高子は兄に連れ戻された。
後に高子は清和天皇(57代、同858~876)の后となり、次代の陽成天皇(同876~884)の母となる。ある時、二条后のサロンで催しがあり、文屋康秀(閑話休題127参照、百人一首22番)、素性法師(同21番)らに交じって、業平も招かれて后に和歌を献上した。
后のサロンには、竜田川に紅葉の落葉が流れる様子を描いた屏風があった。その屏風絵を見て、在原業平が詠ったのが掲題の歌である。“神世にも見たことがない麗しいあなたへ、真っ赤に燃える我が思いを” と、后に訴えていると読めそうである。
作者・成立年は不詳であるが、『古今和歌集』と同じ頃に成立したとされている読み物に『伊勢物語』がある。在原業平の和歌をふんだんに用い、業平と思しき男の生涯を、恋愛を中心に描いた“歌物語”である と。
注]
『日本三代実録』:平安時代に編纂された歴史書。清和・陽成・光孝天皇の3代、858年8月~887年8月の30年間を扱う。編年体、漢文、全30巻。901年成立。編者:藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
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