(24番) このたびは 幣も取り合えず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
訳)今回の旅は急なことだったので、捧げものの準備もできませんでした。そこでこの手向け山で手向ける幣としましては、美しい紅葉の錦を御心のままにお受け取りください。(板野博行)
宇多上皇が名所の吉野・宮瀧に行幸した折(898年秋)、同行した菅原道真(845~903)が詠った歌です。吉野に向かう途上、山城(京都)から大和(奈良)に入る峠道の手向山で旅の安寧を祈る場面です。
急な出立だったので道祖神にお供えする幣の準備もできなかった。「ここには素晴らしい“紅葉の錦”がありますので代わりに供えます」と。旅に出るのに「不届きな」という気がしないでもないが、“紅葉の錦”に免じて、神も心を和ませてくれたように思われる。
和歌の中の“掛詞(カケコトバ)”に触れます。“掛詞”は、言葉遊戯の一種で、ある意味“ダジャレ”(後述参照)なのだが、翻訳に際しては難題の一つです。今回は上掲の歌を例にしてその対応を考えます。上掲の歌は七言絶句の漢詩にしました。下記ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> (上平声十四寒韻)
陪上皇御駕 上皇の御駕(ギョガ)に陪(オトモ)する
此度赶忙無幣紈、 此度(コノタビ)は赶忙(イソギ)のため幣紈(ヘイガン)なく、
到手向山祈旅安。 手向山(タムケヤマ)に到り旅の安(ヤスラケキ)を祈る。
折楓柯供石菩薩、 楓(カエデ)の柯(エダ)を折り石地蔵に供え、
随着神意天地寛。 神意に随い天地(アメツチ)の寛(カン)ならんことを。
註]
上皇:天皇が位を退いてからの尊称。ここでは宇多上皇。
此度:掛詞の一つで、「今度、今回」という意味と、“度”は“渡”に通じることから“旅”の意を込めて「この旅」の意とし,承句の中に訳出した。
赶忙:急いで、大急ぎで。
幣紈:幣帛(ヘイハク)、しろぎぬの弊(ヌサ)。神に祈るときに捧げるもの。布や紙で作った。今日見る玉串もその一つ。昔、旅の途中で道祖神に捧げて旅の安全を祈った。
手向山:京都から奈良に行くのに通る峠を指す固有名詞となっているが、かつては、“幣を手向ける山”という一般的な意味であった由。
供:捧げる、手向ける。手向山との掛詞の訳。
<簡体字およびピンイン>
陪上皇御驾 Péi Shànghuáng yùjià
此度赶忙无币纨、 Cǐ dù gǎnmáng wú bì wán,
到手向山祈旅安。 dào Shǒuxiàngshān qí lǚ ān。
折枫柯供石菩萨、 Zhé fēng kē gòng shí púsà,
随着神意天地宽。 suízhe shényì tiāndì kuān。
<現代語訳>
宇多上皇の行幸にお供する
今回の旅は、幣を用意することもできないほどに急いで出発したが、
手向山に至って旅の安全をお祈りすることになった。
彩鮮やかな楓の枝を手折って、幣に代えて道祖神の石地蔵に手向け、
神の御心のままに、この先 天地の神々が寛容でありますようにと祈った。
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歌の作者が“掛詞”の技法を用いたとき、作者の頭脳の中では両方の意味を考えていたはずである。したがって翻訳に当たっては、読者が両方の意味を理解できるように翻訳すべきである との基本姿勢で翻訳に臨むことにした。
その解決策は、同音(同訓)にこだわらない単語や熟語などを用いて両方の意味を直接的に訳出しすること以外、本質的に方法はないと思える。上の例は、次のようにその意味を、異音(異訓)語を用いて直接訳出しする方式に随っています。
上の和歌中、“掛詞”は、「このたびの」の“たび”で、その意味は「回数」と「旅行」、また「手向山」では、固有名詞の「手向山」と“供える”の意と。漢詩では、それぞれ、「此度」と「旅」、「手向山」と「供」に訳出しました。
和歌で“掛詞”の技法が広く利用されるようになった原因あるいは切っ掛けはなんだろう?興味深いことではある。中国から文字が伝わる以前に遡った日本の生活状況を想像し、“掛詞”の起源を愚考してみます。
日本語は、中国語や朝鮮語とは全く異なり、本来的に五・七調の韻律を持っていたとする日本語起源論を読んだことがある(*後注)。農作業中や恋の告白等々に、五・七調の“歌”の掛け合いが行われていたことは十分に想像できます。
時代を経るにつれて“五七五七七調”に収斂して、現代の和歌の形が整ってきた。ただ音声による掛け合いでは、同音(訓)異義の言葉については、相手は、話者の意図した意味とは異なった意味に理解または誤解することは十分に有り得る。
この現象を逆に利用すると一種の“言葉の遊技”、今様の“ダジャレ”となります。一方、より洗練された“掛詞”として“短い歌”の中で,より多くの物語を語るのに活用されていくようにもなった と考えられないであろうか。
作者の菅原道真について、簡単に触れます。学者の家系の家に生まれ、32歳で文章博士となり、右大臣にまで昇進します。この昇進が妬みを買い、讒言されて大宰府へ左遷され、2年後に病没します。ただし没後に復権し、今日、学問の神様“天神様”として祀られるようになった。
歌人として複数の家集や歴史書の編著があり、また漢詩の作者でもある。特記したいのは、和歌とその翻案の漢詩を対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者とされている点です。ぜひ手に取って参照してみたい書物です。
*注) 大野晋著『日本語の起源』(文庫本であったが、随分昔のことで出版の詳細は不明である。)
紅葉の錦 神のまにまに
訳)今回の旅は急なことだったので、捧げものの準備もできませんでした。そこでこの手向け山で手向ける幣としましては、美しい紅葉の錦を御心のままにお受け取りください。(板野博行)
宇多上皇が名所の吉野・宮瀧に行幸した折(898年秋)、同行した菅原道真(845~903)が詠った歌です。吉野に向かう途上、山城(京都)から大和(奈良)に入る峠道の手向山で旅の安寧を祈る場面です。
急な出立だったので道祖神にお供えする幣の準備もできなかった。「ここには素晴らしい“紅葉の錦”がありますので代わりに供えます」と。旅に出るのに「不届きな」という気がしないでもないが、“紅葉の錦”に免じて、神も心を和ませてくれたように思われる。
和歌の中の“掛詞(カケコトバ)”に触れます。“掛詞”は、言葉遊戯の一種で、ある意味“ダジャレ”(後述参照)なのだが、翻訳に際しては難題の一つです。今回は上掲の歌を例にしてその対応を考えます。上掲の歌は七言絶句の漢詩にしました。下記ご参照ください。
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<漢字原文および読み下し文> (上平声十四寒韻)
陪上皇御駕 上皇の御駕(ギョガ)に陪(オトモ)する
此度赶忙無幣紈、 此度(コノタビ)は赶忙(イソギ)のため幣紈(ヘイガン)なく、
到手向山祈旅安。 手向山(タムケヤマ)に到り旅の安(ヤスラケキ)を祈る。
折楓柯供石菩薩、 楓(カエデ)の柯(エダ)を折り石地蔵に供え、
随着神意天地寛。 神意に随い天地(アメツチ)の寛(カン)ならんことを。
註]
上皇:天皇が位を退いてからの尊称。ここでは宇多上皇。
此度:掛詞の一つで、「今度、今回」という意味と、“度”は“渡”に通じることから“旅”の意を込めて「この旅」の意とし,承句の中に訳出した。
赶忙:急いで、大急ぎで。
幣紈:幣帛(ヘイハク)、しろぎぬの弊(ヌサ)。神に祈るときに捧げるもの。布や紙で作った。今日見る玉串もその一つ。昔、旅の途中で道祖神に捧げて旅の安全を祈った。
手向山:京都から奈良に行くのに通る峠を指す固有名詞となっているが、かつては、“幣を手向ける山”という一般的な意味であった由。
供:捧げる、手向ける。手向山との掛詞の訳。
<簡体字およびピンイン>
陪上皇御驾 Péi Shànghuáng yùjià
此度赶忙无币纨、 Cǐ dù gǎnmáng wú bì wán,
到手向山祈旅安。 dào Shǒuxiàngshān qí lǚ ān。
折枫柯供石菩萨、 Zhé fēng kē gòng shí púsà,
随着神意天地宽。 suízhe shényì tiāndì kuān。
<現代語訳>
宇多上皇の行幸にお供する
今回の旅は、幣を用意することもできないほどに急いで出発したが、
手向山に至って旅の安全をお祈りすることになった。
彩鮮やかな楓の枝を手折って、幣に代えて道祖神の石地蔵に手向け、
神の御心のままに、この先 天地の神々が寛容でありますようにと祈った。
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歌の作者が“掛詞”の技法を用いたとき、作者の頭脳の中では両方の意味を考えていたはずである。したがって翻訳に当たっては、読者が両方の意味を理解できるように翻訳すべきである との基本姿勢で翻訳に臨むことにした。
その解決策は、同音(同訓)にこだわらない単語や熟語などを用いて両方の意味を直接的に訳出しすること以外、本質的に方法はないと思える。上の例は、次のようにその意味を、異音(異訓)語を用いて直接訳出しする方式に随っています。
上の和歌中、“掛詞”は、「このたびの」の“たび”で、その意味は「回数」と「旅行」、また「手向山」では、固有名詞の「手向山」と“供える”の意と。漢詩では、それぞれ、「此度」と「旅」、「手向山」と「供」に訳出しました。
和歌で“掛詞”の技法が広く利用されるようになった原因あるいは切っ掛けはなんだろう?興味深いことではある。中国から文字が伝わる以前に遡った日本の生活状況を想像し、“掛詞”の起源を愚考してみます。
日本語は、中国語や朝鮮語とは全く異なり、本来的に五・七調の韻律を持っていたとする日本語起源論を読んだことがある(*後注)。農作業中や恋の告白等々に、五・七調の“歌”の掛け合いが行われていたことは十分に想像できます。
時代を経るにつれて“五七五七七調”に収斂して、現代の和歌の形が整ってきた。ただ音声による掛け合いでは、同音(訓)異義の言葉については、相手は、話者の意図した意味とは異なった意味に理解または誤解することは十分に有り得る。
この現象を逆に利用すると一種の“言葉の遊技”、今様の“ダジャレ”となります。一方、より洗練された“掛詞”として“短い歌”の中で,より多くの物語を語るのに活用されていくようにもなった と考えられないであろうか。
作者の菅原道真について、簡単に触れます。学者の家系の家に生まれ、32歳で文章博士となり、右大臣にまで昇進します。この昇進が妬みを買い、讒言されて大宰府へ左遷され、2年後に病没します。ただし没後に復権し、今日、学問の神様“天神様”として祀られるようになった。
歌人として複数の家集や歴史書の編著があり、また漢詩の作者でもある。特記したいのは、和歌とその翻案の漢詩を対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者とされている点です。ぜひ手に取って参照してみたい書物です。
*注) 大野晋著『日本語の起源』(文庫本であったが、随分昔のことで出版の詳細は不明である。)
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