(95番) おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧正慈円
<訳> 身の程もわきまえないことだが、このつらい憂き世を生きる民たちを包み込んでやろう。この比叡の山に住み始めた私の墨染の袖で。(小倉山荘氏)
ooooooooooooo
激動の時代にあって、若くして比叡山に入った慈円は“民を救う”という強い使命感をもって修行に励んでいたことが伺われます。エリートの出自でありながら“身のほど知らず”と謙虚さを持つお坊さんです。
流刑、左遷、失恋、孤独等々、人生の“陰”の面を詠う歌が多い百人一首の中で、僧侶とは言え、寛い心で世に対している風で、明るい気持ちにしてくれる歌である。翻訳も気分よく進んだように思う。七言絶句にしてみました。
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<漢字原文および読み下し文>
乱世決意救衆 乱世に衆を救う決意す [上平声十三元韻、十四寒韻]
方袍始住叡山樊, 方袍(ホウホウ)着て叡山の樊(フトコロ)に住み始める,
今日惆悵人世難。 今日 惆悵(チュウチョウ)す人世(ジンセイ)の難(ナン)。
雖我自知無量力, 我 自(オノ)ずから量力(リョウリキ)無しを知ると雖(イエド)も,
把袖罩衆祷平安。 袖を把(トッ)て衆を罩(オオ)い 平安を祷(イノ)らん。
註]
方袍:袈裟、法衣。 叡山:比叡山。
樊:領域、山樊=山ふところ。 惆悵:嘆き悲しむ。
量力:分相応、身の程。 罩:覆う、かぶせる。
※ “方袍”[歌中;墨染(スミゾメ)]と“住み始め”は掛詞の関係。
<現代語訳>
乱世にあって民衆を救う決意をする
袈裟をまとい比叡山の山懐に住み始めた、
今日 世が乱れ、争いが絶えないことを歎き悲しむ。
自ら身の程知らずとは承知の上だが、
墨染の袖を以て民衆を包み込んで、安寧を祈ることにする。
<簡体字およびピンイン>
乱世决意救众 Luànshì juéyì jiù zhòng
方袍始住睿山樊, Fāng páo shǐ zhù Ruìshān fán,
今日惆怅人世难。 jīnrì chóuchàng rénshì nán.
虽我自知无量力, Suī wǒ zì zhī wú liànglì,
把袖罩众祷平安。 bǎ xiù zhào zhòng dǎo píng'ān.
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作者・慈円(1155~1225)は、平安末から鎌倉初期にかけての天台宗の僧侶、歌人。彼の活躍した時代は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、鎌倉幕府の開府(1192)続いて承久の変(1221)と、貴族の世から武家の世へと移る激動の時代である。
父は藤原忠通、百人一首では法性寺入道前関白太政大臣(76番)と紹介されている。その11男とのことである。同母の兄に摂政関白九条兼実がいる。2歳時に母を、10歳で父を亡くしており、幼くして無常感を知って仏の道を選んだのでしょうか。
11歳に比叡山に入り、13歳に出家、38歳で天台座主(僧職の最高位)となっています。若いころの歌に、「山里で庵を結び、たまに人の来訪を受ける」、このような静かな暮らしをしたいものだとの趣旨の歌を残している。掲題の歌は、慈円の2、30歳の頃の作とされています。
一方、叡山では天台座主として伽藍の整備や内政、さらに対外的な面にも活躍を見せていたようで、天台座主を四度務めている。兄・摂政関白九条兼実の援護もあったであろうが、本来秀才で、人望、力量を持ち合わせていたからであろう。
心の寛容さを示す一面として、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧には否定的で法然やその弟子の親鸞を庇護したという。実際に親鸞は9歳時の得度(1181)は慈円から受けた と。
今日大歌人とされる慈円には面白い伝説があるようです。若き慈円が、37歳年上の西行(百人一首86番、閑話休題114)に「天台の真言を伝授してほしい」と乞うたところ、「歌の道に通じていない者には教えても無駄だ」と一蹴された。そこで和歌の修練を積み、再び西行を訪れた と。
『新古今和歌集』には、西行の94首に次いで慈円92首、勅撰和歌集に255首収められている と。また家集『拾玉集』には4600首収められている と。西行と並び称される大歌人と言えるようである。歴史論集『愚管抄』の作者でもある。
前回、寂蓮法師が、嵯峨野の庵の屋根が台風で吹き飛ばされ、その旨歌に託して慈円に報せたことに触れました。その歌を再掲すると:
わが庵は 都の戌亥(イヌイ) 住みわびぬ
憂き世のさがと おもいなせども(拾玉集 巻第五)
それに対して慈円は高僧らしくしっかりと次の返歌を送っています。寂蓮法師を六歌仙の一人である喜撰法師の後継者と言っているのです(小倉山荘氏)。“ニコリ”としつつ、チョッピリ“遊び心”をもって詠っているようにも思えますが(?)
道を得て 世をうぢ山と いひし人の
跡に跡そふ 君とこそみれ (拾玉集 巻第五)
[得道(=悟りを開くこと)して「世をうぢ山」と詠んだ人(=喜撰)の
足跡にさらに新たな足跡を継いでいくのがあなたなのだと思います]
わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧正慈円
<訳> 身の程もわきまえないことだが、このつらい憂き世を生きる民たちを包み込んでやろう。この比叡の山に住み始めた私の墨染の袖で。(小倉山荘氏)
ooooooooooooo
激動の時代にあって、若くして比叡山に入った慈円は“民を救う”という強い使命感をもって修行に励んでいたことが伺われます。エリートの出自でありながら“身のほど知らず”と謙虚さを持つお坊さんです。
流刑、左遷、失恋、孤独等々、人生の“陰”の面を詠う歌が多い百人一首の中で、僧侶とは言え、寛い心で世に対している風で、明るい気持ちにしてくれる歌である。翻訳も気分よく進んだように思う。七言絶句にしてみました。
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<漢字原文および読み下し文>
乱世決意救衆 乱世に衆を救う決意す [上平声十三元韻、十四寒韻]
方袍始住叡山樊, 方袍(ホウホウ)着て叡山の樊(フトコロ)に住み始める,
今日惆悵人世難。 今日 惆悵(チュウチョウ)す人世(ジンセイ)の難(ナン)。
雖我自知無量力, 我 自(オノ)ずから量力(リョウリキ)無しを知ると雖(イエド)も,
把袖罩衆祷平安。 袖を把(トッ)て衆を罩(オオ)い 平安を祷(イノ)らん。
註]
方袍:袈裟、法衣。 叡山:比叡山。
樊:領域、山樊=山ふところ。 惆悵:嘆き悲しむ。
量力:分相応、身の程。 罩:覆う、かぶせる。
※ “方袍”[歌中;墨染(スミゾメ)]と“住み始め”は掛詞の関係。
<現代語訳>
乱世にあって民衆を救う決意をする
袈裟をまとい比叡山の山懐に住み始めた、
今日 世が乱れ、争いが絶えないことを歎き悲しむ。
自ら身の程知らずとは承知の上だが、
墨染の袖を以て民衆を包み込んで、安寧を祈ることにする。
<簡体字およびピンイン>
乱世决意救众 Luànshì juéyì jiù zhòng
方袍始住睿山樊, Fāng páo shǐ zhù Ruìshān fán,
今日惆怅人世难。 jīnrì chóuchàng rénshì nán.
虽我自知无量力, Suī wǒ zì zhī wú liànglì,
把袖罩众祷平安。 bǎ xiù zhào zhòng dǎo píng'ān.
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作者・慈円(1155~1225)は、平安末から鎌倉初期にかけての天台宗の僧侶、歌人。彼の活躍した時代は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、鎌倉幕府の開府(1192)続いて承久の変(1221)と、貴族の世から武家の世へと移る激動の時代である。
父は藤原忠通、百人一首では法性寺入道前関白太政大臣(76番)と紹介されている。その11男とのことである。同母の兄に摂政関白九条兼実がいる。2歳時に母を、10歳で父を亡くしており、幼くして無常感を知って仏の道を選んだのでしょうか。
11歳に比叡山に入り、13歳に出家、38歳で天台座主(僧職の最高位)となっています。若いころの歌に、「山里で庵を結び、たまに人の来訪を受ける」、このような静かな暮らしをしたいものだとの趣旨の歌を残している。掲題の歌は、慈円の2、30歳の頃の作とされています。
一方、叡山では天台座主として伽藍の整備や内政、さらに対外的な面にも活躍を見せていたようで、天台座主を四度務めている。兄・摂政関白九条兼実の援護もあったであろうが、本来秀才で、人望、力量を持ち合わせていたからであろう。
心の寛容さを示す一面として、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧には否定的で法然やその弟子の親鸞を庇護したという。実際に親鸞は9歳時の得度(1181)は慈円から受けた と。
今日大歌人とされる慈円には面白い伝説があるようです。若き慈円が、37歳年上の西行(百人一首86番、閑話休題114)に「天台の真言を伝授してほしい」と乞うたところ、「歌の道に通じていない者には教えても無駄だ」と一蹴された。そこで和歌の修練を積み、再び西行を訪れた と。
『新古今和歌集』には、西行の94首に次いで慈円92首、勅撰和歌集に255首収められている と。また家集『拾玉集』には4600首収められている と。西行と並び称される大歌人と言えるようである。歴史論集『愚管抄』の作者でもある。
前回、寂蓮法師が、嵯峨野の庵の屋根が台風で吹き飛ばされ、その旨歌に託して慈円に報せたことに触れました。その歌を再掲すると:
わが庵は 都の戌亥(イヌイ) 住みわびぬ
憂き世のさがと おもいなせども(拾玉集 巻第五)
それに対して慈円は高僧らしくしっかりと次の返歌を送っています。寂蓮法師を六歌仙の一人である喜撰法師の後継者と言っているのです(小倉山荘氏)。“ニコリ”としつつ、チョッピリ“遊び心”をもって詠っているようにも思えますが(?)
道を得て 世をうぢ山と いひし人の
跡に跡そふ 君とこそみれ (拾玉集 巻第五)
[得道(=悟りを開くこと)して「世をうぢ山」と詠んだ人(=喜撰)の
足跡にさらに新たな足跡を継いでいくのがあなたなのだと思います]