愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題338 飛蓬-191  散残る 岸の山ぶき 鎌倉右大臣 源実朝 

2023-06-12 09:05:55 | 漢詩を読む

晩春から初夏にかけて、枝に黄色い花を連ねてつける山吹、特に八重咲の花は印象的である。金槐集では山吹に関わる歌12首が収められている。この歌は、人に贈ろうと、花の散り残っている一枝を手折っているところを詠っています。

 

実朝は、ピラミッドの頂に居ながら、農漁民や亡くなった親を求める子供等の庶民、また四方の獣など、世の底辺にある人や物に目を向ける心根の持ち主であるように思える。この歌についても、散り残った山吹の花に対して、同様の態度で臨んでいると言えようか。

 

ooooooooo 

  [詞書] 山ふきの花を折らせて人のもとにつかわすとて 

散残る 岸の山ぶき 春ふかみ  

  このひと枝を あはれといはなむ  (金槐集 春・104) 

 (大意) 春が深まって 岸辺の散り残った山吹の花 手折ったひと枝 いとおしいと言ってもらいたいものだ。 

  註] 〇春ふかみ:春がたけた故; 〇あはれといはなむ:あわれと言っていただきたい、“あはれ”は感深く心ひかれること。 

xxxxxxxxxx

<漢詩> 

  棣棠余花   棣棠(ヤマブキ)の余花(ヨカ)     [下平声一先韻] 

臨岸棣棠花, 岸に臨んで棣棠(ヤマブキ)の花あり, 

春深後凋娟。 春深(フコウ)して後凋(コウチョウ)娟(エン)なり。 

一条攀折採,  一条(エダ)攀(ヒ)きて折(オ)り採(ト)る,  

乃願説可憐。  乃(スナワ)ち 願わくは 可憐(アハレ)と説(イウ)を。  

 註] 〇棣棠:山吹の花; 〇余花:散り残った花; 〇後凋:「萎むことなく残っている」意、論語「歳寒松柏」(歳寒くして、松柏の凋(シボ)む)に後(オク)るるを知る)に拠る; 〇娟:美しい; 〇乃:すばわち、文のリズムを整える助詞。

<現代語訳> 

 散り残った山吹の花 

岸辺にある山吹の花、 

春が深まって散り残っている花が麗しい。

人に差し上げようと、ひと枝を引いて手折った、

何ともいとおしい と言ってほしいものであるよ。

<簡体字およびピンイン> 

  棣棠余花     Dìtáng yú huā  

临岸棣棠花, Lín àn dìtáng huā,  

春深後凋娟。 chūn shēn hòu diāo juān.    

一条攀折采, Yī tiáo pān zhé cǎi,  

乃愿说可怜。 nǎi yuàn shuō kělián.    

ooooooooo 

 

“ピラミッドの底辺に思い遣る心根”を詠っている。しかし実朝は、その他の歌をも含めて、特に底辺のみに目を向けているわけではなく、また大上段に構えて、主義主張を訴え、どうしようと言うわけでもない。現実の世の中の姿を六感で率直に感じ取り、心の動くまゝに淡々と歌にしているように思える。

 

小林秀雄は、『モオツアルト・無常という事』中『源実朝』で、この歌を取り上げている。其の中で、「……、奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持って生まれた精妙な音楽のうちに、すばやく捕らえられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたう。」と述べている。

 

恥ずかしながら、筆者は同書を充分に理解できる文的才を持ち合わせていない。したがって此処でこのフレーズを取り上げた理由を問われても、満足な説明はできないのであるが、実朝の作歌態度を想像すると、妙にこのフレーズが気になるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題337 飛蓬-190  秋3首-1 鎌倉右大臣 源実朝

2023-06-08 14:30:42 | 漢詩を読む

zzzzzzzzzzzzzzzz -1

 

“萩”と“荻”、よく似た漢字である。“萩”は、クサカンムリに禾(ノギ)偏の“秋”、“荻”は、クサカンムリに獣(ケモノ)偏の“狄(テキ)”である。“萩”は、秋の七草のひとつ、紅紫色の蝶型の多数の花をつけた種類を、公園などでよく見かけます。

 

“荻”は、ススキに似た植物で、河川敷などの湿地に自生し、やはり秋に穂状花をつける。ススキが生える乾燥した場所では生育しないという。歌によく詠われ、沼や川岸など湿地を好む芦(アシ/ヨシ)よりは乾燥した場所を好む という。

 

下の歌では、季節感を表す花として“荻”が詠われています。秋の七草のひとつとして万葉の頃から親しまれてきた“萩”ではなく、秋風に揺れ・そよぐ情況は、やはり“荻”が相応しいと言えようか。しかし、“我が宿の”が気に掛かります。漢詩では“荻”を活かし、“我が宿”ではなく“垣牆”とした。

 

ooooooooooooo 

  夕べの心を詠める 

たそがれに 物思ひをれば 我が宿の

     荻の葉そよぎ 秋風ぞ吹く (金槐集 秋・186;玉葉集 486)

  (大意) 黄昏、物思いに耽っていると、屋敷の庭の荻の葉をそよがして秋風

     が吹く。

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  孟秋黄昏心情        孟秋黄昏の心情  [下平声十一尤韻]

黃昏時分暮雲收, 黃昏の時分 暮雲收(オサ)まり,

陷入沈思自休休。 沈思(チンシ)に陷入(オチ)いり自(オノズ)から休休(キュウキュウ)。

瑟瑟秋風撫摩面, 瑟瑟(シツシツ)たる 秋風 面(オモテ)を撫摩(ブマ)し,

垣牆荻葉搖様悠。 垣牆(エンショウ)の荻葉 搖様(ヨウヨウ)悠(ユウ)なり。

 註] 〇休休:心の安らかなさま; 〇瑟瑟:風が寂しく吹くさま; 〇撫摩:

   撫でる; ○垣牆:垣根; 〇搖様:揺れるようす; 〇悠:のどかである。

<現代語訳> 

  初秋夕暮れの気分 

夕暮れ時分 暮雲が収まり、

物思いに耽って心穏やかである。

そっと秋風が吹き抜け 頬を撫でる、

垣根の荻の葉が緩やかに揺れて、長閑である。

<簡体字およびピンイン> 

  孟秋黄昏心情   Mèngqiū huánghūn xīnqíng 

黄昏时分暮云收, Huánghūn shífēn mù yún shōu

陷入沉思自休休。 xiànrù chénsī zì xiū xiū

瑟瑟秋风抚摩面, Sè sè qiūfēng fǔmó miàn,,  

垣墙荻叶摇样悠。 yuán qiáng dí yè yáo yàng yōu

oooooooooooooo

 

製本技術の未発達の時代、文書の複製は人手による書写である。書写を繰り返すうちに、書き間違い、読み違い等々、起こり得ることである。一見、紛らわしい文字、“萩”と“荻”については、特にそうで、やむを得ない事情と言えよう。掲歌において、伝本により“萩”と“荻”が混同されているようである。

 

定家本では、平仮名の“おき”また玉葉集では“をぎ”、貞享本を底本とした斎藤茂吉『金槐和歌集』においては漢字“荻”である。一方、群書類聚本(後注)、および貞享本を底本としながら定家本および群書類聚本を比校した『金槐和歌集』(小島吉雄 校注)では“萩”となっている。

 

しかし小島吉雄 校注書では、脚注に、[「荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなべに」と万葉にも新古今にもあるから、“萩”よりも“荻”がよいであろう]としている。下に示した2首が該当する本歌であろう。掲歌は、両歌の本歌取りの歌と解されます。

 

本歌である両首の“荻”は、それぞれ、“葦辺”および場所不特定の“垣(根)”であり、詠われている情景が自然に理解できます。実朝の歌では、“我が宿の”と設定されています。すなわち、湿地帯にある“我が宿”が想起されて、“気掛り”なのである。

 

“我が宿の”の“我”の身は、“隠遁”の身か?ならば、山の麓で川辺に近い所に構えた“庵”が想像でき、歌の情景が率直に目に浮かびますが。

 

実朝が参考にされたと思われる2首:

 

葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の

    吹き来るなへに 雁鳴き渡る (作者不詳 万葉集 巻十・2134)  

 (大意) 葦辺に生える荻の葉がざわつき、秋風が吹き寄せてきた。折しも雁

    が鳴きながら空を渡っていった。

 

かきほなる 荻の葉そよぎ 秋風の  

    吹くなるなへに 雁ぞ鳴くなる  (柿本人麻呂 『新古今集』 秋・497)

  (大意) 垣の所に生えている荻の葉がそよぎ 秋風が吹く音と共に雁の鳴き声

     も聞こえる。   

 

注:群書類聚本:『群書類聚』とは江戸後期の叢書。塙保己一編で、古代から

  近世初期までの国書を25の部門に分けて収めたもので、その中の『金槐

  和歌集』。定家本、貞享本については閑話休題-311参照。 

 

zzzzzzzzzzzzzzzz -2  

 

次の歌は、“実朝らしさを表す歌”として、諸家が評価する歌である。“萩”が詠われていますが、“我が宿”にある“萩”であろう。夕暮れ時、一人でいて庭の萩が気になり、月が出でて、改めて目を遣るに、花が見えない、散ってしまったのかと。

 

“言振(イイブ)りが余程雅(オサナ)くできている。……はかなさ、寂しさを感じている作者の心が、無技巧なほどごく自然に表れている”と、斎藤茂吉の評が紹介されています(渡部泰明「実朝像の由来」)。

 

ooooooooooooooo 

  [詞書] 庭の萩 わずかに残れるを 月さし出でてのち見るに 散りにたるや

     花のみえざりしかば    

萩の花 暮れぐれまでも ありつるが 

  月出でて見るに なきがはかなさ (金槐和歌集 秋・188) 

 (大意) 萩の花は つい先ほどの日暮れ時までは あったのだが、月だ出てから

    見てみるとなくなっていた、 何と儚いことだ。

 (註) 〇暮れぐれ:日のくれぎわ; 〇ありつるが:あったが。

xxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

   花生命短暫啊      花の生命の短暫(ハカナ)きことよ  [下平声六麻韻]

庭前僅剩胡枝花、 庭前 僅(ワズカ)に剩(ノコ)る胡枝(ハギ)の花、

直到黃昏映彩霞。 直(ジキ) 黃昏(クレ)到(マデ) 彩霞(ユウヤケクモ)に映(ハ)えていた。

月亮上昇来看見、 月亮(ツキ)上昇(ノボ)りて 来て看見(ミル)に、

応憐露水絕紛華。 応(マサ)に憐(アワレ)むべし 露水(ロスイ)に紛華(フンカ)絕(タ)えたり。

 註] 〇短暫:時間がみじかい、儚い; 〇胡枝花:萩の花; 〇月亮:月;

    〇露水:露、かりそめの、儚い; 〇紛華:華やかで美しい、此処では、

    萩の花を指す。

<現代語訳> 

  花のいのちの儚いことよ 

庭先にわずかに残る萩の花、

つい暮れまでは、夕焼けに映えていて、美しかった。

月が昇って、月下に見るに、

まさに憐れむべし、儚く、美しい花はなくなっている、散ってしまったか。

<簡体字およびピンイン> 

 花生命短暂啊      Huā shēngmìng duǎnzàn a 

庭前仅剩胡枝花, Tíng qián jǐn shèng húzhī huā, 

直到黄昏映彩霞。  Zhí dào huánghūn yìng cǎi xiá.  

月亮上升来看见  Yuèliàng shàng shēng lái kàn jiàn, 

应怜露水绝纷华。 yīng lián lùshuǐ jué fēn huá. 

ooooooooooooooo 

 

庭の萩が萎れだしてきたので、気に留めていたのでしょうか。月明かりの下、覗いて見ると、さっきまであった数少なくなっている花がもう見えなくなった。黄昏の頃は、そうでなくとも気の滅入る思いのあるもの。

 

その思いが、率直に詠われているようである。この歌について、参考にしたと思しき「本歌」は挙げられていない。「心に浮かぶ言葉がそのまゝ和歌になっているだけのようで、……」という評言(三木麻子 『源実朝』)に納得します。

 

先述の歌で“萩”と“荻”が話題となりましたが、この歌を参照するなら、やはり先の歌においても“萩”が妥当であるように思える。しかし“秋風にそよぐ”のは、“荻”が相応しく思える。

 

zzzzzzzzzzzzzzzz -3

 

20歳前後の若者の歌である。現代の18歳成人という時代と直接比較はできないが、12歳に元服、征夷大将軍宣下を受けた実朝である。戦の絶えぬ時代とは言え、“世のはかなさ”を歌に詠む心根には、驚きを禁じ得ない。

 

oooooooooo 

  [歌題] 槿(アサガオ)

風を待つ 草の葉におく 露よりも 

  あだなるものは 朝顔の花  (金塊集 秋190) 

 (大意) 風が吹けば露が散る。その風前の露よりもなお儚いものは 咲くかと

    見れば直に萎れる朝顔の花である。

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

    短暂命花      命の短暂(ミジカ)い花   [下平声一先韻] 

草葉露華鮮, 草葉の露華(ロカ) 鮮なるも,

待風起寒煙。 風を待ちて 寒煙起る。

牽牛花更憫, 牽牛の花 更に憫(アワレ)なり,

剛開就萎蔫。 開いた剛(バカリ)で 就(ス)ぐに萎蔫(シオレ)る。

 註] 〇待風:風を待っていたように風が吹くと直ちに; ○寒煙:寒々とし

    たもや・けむり、露が飛び散っているさま; 〇牽牛花:朝顔の花; 

    〇萎蔫:(草花が)しおれる。

<現代語訳>

 短命の花 

草葉に置いた露は鮮やかであるが、 

風に遭うと忽ちに煙のように散ってしまう。 

朝顔の花は 露よりも一層哀れなものだ、 

咲いたかと思うとすぐに萎れてしまうのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 短暂命花   Duǎnzàn mìng huā 

草叶露华鲜, Cǎo yè lù huā xiān,  

待风起寒烟。 dài fēng qǐ hán yān.

牵牛花更悯, Qiān niú huā gèng mǐn,

刚开就萎蔫。 gāng kāi jiù wěiniān.

oooooooooo 

 

掲歌の歌題“槿”は、まず低木“ムクゲ”を想像する。木性の“ムクゲ”は、庭木として植生され、夏から秋にかけて白または紅紫色の花をつける。その花は朝に開き、夕方にはしぼみ、次々と咲き続ける。“あさがお”とも読まれるようである。

 

歌では、“草の葉”に降りた露が比較の対象であることから、日常に呼ばれる蔓性の“アサガオ”と理解し、牽牛花とした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題336 飛蓬-189  夕されば 潮風寒し 鎌倉右大臣 源実朝

2023-06-05 09:10:17 | 漢詩を読む

実朝の歌は、「冬の海」を詠った“叙景歌”と言えそうですが、どこの海であろうか?直感的に、肌で潮風の寒さが感じられる海辺、例えば由比が浜や、この歌に続いて詠われた319番の“塩釜の浦”が思い浮かばれます。

 

しかし、波間に見え隠れする小島は、やはり箱根路から伊豆の海上、遥かに見降ろせる“小島”が相応しいように思える。正月の行事・二所詣の折に、目に止め、胸に焼き付けられていた情景(閑話休題-284)を思い浮かべて詠ったように思える。

 

どんよりと薄曇りの雪空の下、夕暮れ時、雪に埋もれつゝある小島が、遥か波間に見え隠れする情景は、作者の胸の奥底に鬱として何物かが淀んだ心象風景であるように読め、むしろ“叙情の歌”であるように思える。

 

oooooooooo 

  [歌題] 雪 

夕されば 潮風寒し 波間より 

  見ゆる小島に 雪は降りつつ 

         (金槐集 冬・318; 続後撰集 冬・520) 

 (大意) 夕方になると 海の潮風が一段と寒く感じられる、波の間に見え隠れ

  する沖の小島には雪が降り続いている。 

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  海上小島雪    海上小島に雪     [上平声十一真-上平声十二文通韻]

行以傍黑辰, 行(ユキ)ゆきて以(モッ)て 傍黑(ユウグレ)の辰(トキ),

淒淒海風氛。 淒淒(セイセイ)たり海風(シオカゼ)の氛(キ)。

波間出複沒, 波間に出(イデ)て複た沒(ボッ)する,

小島雪紛紛。 小島 雪紛紛(フンフン)たり。

 註] 〇傍黑:夕暮れ; 〇淒淒:風が冷たく吹くさま; 〇氛:気、気象、

  気分; 〇紛紛:次々に続くさま、雪がしきりに降るさま。  

<現代語訳> 

 沖の小島の雪 

夕暮れ時になって、

潮風が一段と寒く感じられるようになった。

波間に見え隠れする、

沖の小島ではしんしんと雪が降っているよ。

<簡体字およびピンイン> 

 海上小岛雪

行以傍黑辰, Xíng yǐ bàng hēi chén

凄凄海风氛。 qī qī hǎi fēng fēn

波间出复没, Bō jiān chū fù mò,

小岛雪纷纷。 xiǎo dǎo xuě fēn fēn

oooooooooo 

 

“作者の胸の奥底に鬱として何物かが淀んだ心象風景”と推測したが、実朝が数奇な運命を辿った人であった という歴史的事実を知ったことに依る偏った見方やも知れない。

 

眼下、大海原が広がる遥か彼方、微かに見える小島に雪が降りつつあり、手前、岡の岩角は、薄ぼんやりとその輪郭を浮き上がらせている。墨絵の世界である。このような情景を想像しつつ、詠ったようにも読める。因みに、賀茂真淵は、この歌に○しるしを付している。

 

“波間より見ゆる小島”ついては『万葉集』に下記“読人知らず”の歌があり、それを本歌として、藤原実定の詠んだ歌が『新古今集』中の歌であるとされている。さらに実朝の掲歌は、藤原実定の歌を本歌としたものであろうとされている(小島吉雄 校注 『金槐和歌集』)。

 

浪間より 見ゆる小島の 浜久木(ハマヒサギ)

  ひさしくなりぬ 君に逢わずして (読人知らず 万葉集 巻十一・2753) 

 (大意) 波の間に見える小島の浜の 久木(ひさぎ) のように、久しくなりまし

  た。あなた様に逢わぬまゝに。 

  註] 〇ひさげ:キササゲ(楸)、アカメガシワ(赤芽柏) - 楸に比定する説

    がある。

 

夕なぎに 門(ト)渡る千鳥 波間より 

  見ゆる小島の 雲にきえぬる (藤原実定 新古今集 巻六・冬・645) 

 (大意) 夕暮れ 風の止んだころに海峡を渡ってゆく千鳥 波間に見える小島 

  にかかっている雲の中に消えてしまった。 

  註] 〇藤原実定:通称 後徳大寺左大臣。百人一首(81番)歌人である(閑話

    休題-221; 『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む百人一首』)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする