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曽て、後朝(ゴチョウ又はコウチョウ)という習慣があった。男女が共寝した翌朝、男性は直ちに帰宅して、後に女性は独り取り残されるのである。この折の女性の想いを、実朝は、女性に“なりすまし”て詠っています。
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暁の恋
さ筵に 露のはかなく おきて去なば
暁ごとに 消えやわたらむ (金槐集 恋・454; 新勅撰集 巻二 801)
(大意) 君が起きて帰ってしまうと さむしろに涙をはかなく置いて 暁ごとに
わたしは恋の悲しさのために死にそうな思いを続けるのです。
註] 〇さ筵:“さ”は調子を整える接頭辞、“筵”は 今でいう上敷き;
〇おきて:「露置きて」と「朝起きて」との掛詞; 〇消えわたる:“露の
消える”と“命の消える”とを掛ける、”わたる” は、動詞の連用形
について補助動詞として、“ずっと…しつづける、絶えず…する”の意。
※ “露”、“おく”、“消え” は みな縁語。
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<漢詩>
暁時憂愁 暁時(アカツキ)の憂愁 [上平声十灰-上平声四支通韻]
君臨晨忽起帰回, 君 晨(アサ)に臨(ノゾ)んで忽(コツ)として起き 帰回(カエ)る,
我床単上降露滋。 我 床単(ウワジキ)上に露を降(オ)くこと滋(シゲ)し。
猶如朝露就消尽, 朝露 就(スグ)に消尽(ショウジン)するが猶如(ゴトク)に,
悲痛欲絶每暁時。 暁時(アカツキ)每に 悲痛(カナシミ)に(身を)絶たんと欲す。
註] 〇床単:上敷き、筵。
<現代語訳>
暁の憂鬱
あなたは 朝に起きるとすぐに帰られる、
わたしは 上敷きの上に涙を流して耐えている。
あたかも朝の露がすぐに消えてしまうように、
暁にいつも身を亡ぼしたくなるほどに 悲しい思いに駆られるのです。
<簡体字およびピンイン>
暁時憂愁 Xiǎo shí yōuchóu
君临晨忽起归回, Jūn lín chén hū qǐ guī huí,
我床单上降露滋。 wǒ chuángdān shàng jiàng lù zī.
犹如朝露就消尽, Yóu rú zhāo lù jiù xiāo jǐn,
悲痛欲绝每晓时。 bēi tòng yù jué měi xiǎo shí.
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実朝の掲歌は、次の歌の本歌取りの歌であろうとされている。
身をつめば 露をあわれと 思ふかな
暁ごとに いかでおくらむ (よみ人しらず 拾遺集 巻十二 730 )
(大意) 露は哀れなことよと、身に抓まされる思いがする、暁ごとにどの
ように過ごしたものかと 思い悩んでいるのである。
註] ○身をつむ:わが身に照らして思い遣られて、わが身を抓って人の
痛さを知ることから。
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人の来訪の少ない宿、積もった雪のため なおも人の足が遠のき、一日一日と空しく過ごす。本歌は、“恋”の部に収められていることから、この歌中の待ち人は恋人であると言えよう。
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[詞書] 雪中待人
けふもまた ひとりながめて 暮れにけり
たのめぬ宿の 庭の白雪 (金塊集 恋・489)
(大意) 来ると言う約束をしている人はいないが、万一にも誰かきてくれ
ないかと心待ちして庭の白雪をながめて一日を暮らしている。
註] ○けふもまた:昨日も一昨日もひとりながめて暮らしたことを意味
している; 〇ながめて:物思いながら、じっと物を見ていること;
〇たのめぬ宿:来るという約束はしていないわが宿。
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<漢詩>
雪中待人 雪中 人を待つ [上平声十灰韻]
吾宿平生無人訪, 吾宿には平生(ヘイゼイ) 訪ねてくる人はいない、
心中盼望孰能来。 心中 孰(タレ)か来てくれるのを盼望(マチノゾンデ)いるのだが。
抱膝眺望庭中雪, 膝を抱(ダ)いて 庭中の雪を眺望(ナガメテ)いるうちに,
今一天亦暮鍾催。 今(キョウ)一天(イチニチ) 亦(マ)た暮の鍾が催(ヒビイテ)きた。
註] 〇心中盼望:心待ちにしている; 〇孰:誰か不特定の人;
〇抱膝:独り静かに思いにしずむこと。
<現代語訳>
雪を眺めつつ人を待つ
兼ねて我が住まいに人が訪れることはなく、
万一にも誰か訪ねて来るのではないかと心待ちにしているのだが。
独り静かに庭の白雪を眺めているうちに、
暮れの鐘の音が響き、今日も又一日が暮れていくよ。
<簡体字およびピンイン>
雪中待人 Xuě zhōng dài rén
吾宿平生无人访, Wú sù píng shēng wú rén fǎng,
心中盼望孰能来。 xīn zhōng pànwàng shú néng lái.
抱膝眺望庭中雪, Bào xī tiàowàng tíng zhōng xuě,
今一天亦暮锺催。 jīn yī tiān yì mù zhōng cuī.
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本歌のモチーフは、“冬”を詠う常套の情景描写と言えるのではないでしょうか。定家本では、“恋”部に収められていますが、貞享本では、“冬”の部に入っている。[詞書]で、“待ち人”が対象であることを考慮して、やはり定家本に従った。
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非常に難しい歌である。ある思い人に対する恋心、打ち明け、思いを遂げることが出来ず、常緑の松の葉のごとくに長しえに悶々として悩んでいる、と理解して翻訳に臨みました。“思春期の頃”の初々しい実朝の姿を想像しつゝ。如何?
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[詞書] 久しき恋の心を
しらま弓 磯辺のやまの 松の葉に
常盤にものを 思うころかな
(『金塊集』 恋・500; 『新勅撰集』 巻第十三)
(大意) 磯辺山に生える松の葉の如くに 長しえに物思いに耽っている。
註] 〇しらま弓:「射(い)」の枕詞; ○磯辺:海辺、浜辺; 〇上3句:「ときわ」の序; 〇「常盤にものを 思う」はいつも変わらず物を思うこと; 〇「ときはに」と「おもふころ」の「ころ」とが意味の上で緊密性を欠いている(後註参照)。
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<漢詩>
沈湎 沈湎(チンメン) [上平声十五刪‐上平声十三元通韻]
檀弓海辺山, 檀弓 (シラマユミ)海辺の山,
万古綠松繁。 万古(バンコ)に綠の松 繁(シゲ)る。
憂慮纏綿繞, 憂慮(ユウリョ) 纏綿(テンメン)として繞(メグ)り,
沈沈自無言。 沈沈(チンチン)として 自ずから言(ゲン)無し。
註] ○沈湎:物思いに耽る; 〇檀弓:造語で、和歌の枕詞「しらま弓」
の当て字、語調を整えるため用いた。; 〇海辺山:磯辺山、海辺の山;
〇纏綿:心にまつわりついて離れないさま; 〇沈沈:静まり返っている
さま。
<現代語訳>
物思いに耽る
磯の辺にある山には
長しえに緑を保つ松の木が生い茂っている。
この松葉の如くに、思い煩うことが心に纏わりつき、
静かに無言のまゝ 何時までも物思いに耽っているのである。
<簡体字およびピンイン>
沉湎 Chénmiǎn
檀弓海边山, Tán gōng hǎi biān shān,
万古绿松繁。 wàn gǔ lǜ sōng fán.
忧虑缠绵绕, Yōu lǜ chán mián rào,
沉沉自无言。 Chén chén zì wú yán.
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実朝の掲歌は、『万葉集』の次の歌を参考にしたであろうとされている。
しらま弓 いそべの山の ときはなる
命なれやも こひつつをらむ (柿本人麻呂? 『万葉集』巻十一・244)
(大意) 石辺の山が永遠であるように、永久に変わらぬ命であろうか、そうで
はない、どうして恋しく思っているまゝで永久に過ごすことができようか。
註] 〇滋賀県湖南市の石部(イシベ)か? 磯部(イソベ)とも呼ばれた。東海道
五十三次の一駅。
掲歌の[註]に指摘された「ときはに」と「思うころ」について: これは、[『金槐和歌集』小島吉雄 校注]で指摘されている点である。
『デジタル大辞泉』に拠れば、「ころ(頃)」は、「あるきまった時期の前後を含めて大まかに指す語。ある期間」とある。確かに「常盤に(永久に変わらないこと、また そのさま)」の概念と相いれないようである。歌の第五句・「思う頃かな」を、例えば、“思春期の頃”と解するなら、やゝ疑問は解けそうに思える。