以前このBlogで新聞記事についてコメントしましたが、同じような話です。
(p130より引用) 「歴史観」は歴史上の事件や人物に対する評価という形を取るとは限らず、年号のような暗記物にまで、深く関わっている。どの出来事を重要視するかという選択自体、歴史観に影響されている。
歴史の勉強は、ひとつには「史実」を学ぶということですが、もうひとつはその「史実」にまつわる「歴史観」を理解することです。
「ここでのこの史実の解釈はこういう歴史観によるものだ」といった感じで理解することが大事だと思います。こういう考え方によると「別の歴史観によると同じ史実でも異なる解釈になりうる」ということが当たり前のこととして受け止められるのです。
「理解する」ことと「信じる」ことは異なります。
(p176より引用) 最新の量子力学などについて「哲学への接近」がいわれるのは、それが一般人の感覚では理解不能な、何やら神秘的な「信じる」領域に見えてしまうからにほかならない。ずばり言ってしまうと、よく分からないから、理性でなく感性で、「信じる」ことでそれを受けとめようとしているのである。
このようにして「分かる」を諦めて「信じる」に移行するラインが、すべての人間に存在する。誰でもすべてを「分かる」ことができない以上、理解力の限界の先は、他人の説明なり、何らかの世界観なりを「信じて」納得するより仕方ない。
「信じる」ことは、良い悪いは別にして、ある種の思考停止状態です。「自分の頭で考える」ことではなくなっています。
「『自分の頭で考える』範囲を拡げること」が勉強することだと思います。「他人の思考」を辿るのは、自分の頭で考えることの手助けとするためです。