最近の著者が好んで使っている「あこがれにあこがれる」「心の不良債権」「私淑」「技化」といったフレーズを駆使して、現代日本の「教養崩壊状況」に警鐘を鳴らすことを試みた著作です。
(p204より引用) かつて三木清やその周辺を読んで自己形成した旧制高校の学生たちが、Jポップばかりを聞き、「ガンダム」やマンガを読んで世界観を形成している今の三十歳代を見たら、おそらく絶句することでしょう。
それほど、今の日本は思想的なバックボーンを失っています。
著者は、いろいろな側面から課題を抽出しては自説を展開していますが、その大きな部分は学校教育に関するものです。
その中では、旧制高等学校の学生スタイルをひとつの理想モデルとし、それと比較した現在の大学生の学びに対する姿勢の変貌を語ったり、昨今のゆとり教育の問題点を昨今の小学校の現状から指摘したりしています。
(p72より引用) 努力することが苦にならない人、向上心を当たり前のように持つ人をつくるのは、まさに小学校の役割です。
江戸時代から昭和初期にかけて、日本には、読書を中心とした「学び」の系譜が脈々と受け継がれていました。
この点に関し、著者は、唐木順三氏の説として、夏目漱石や森鷗外に代表される「素読世代」と芥川龍之介から始まる「教養世代」に大別されるとの考え方を紹介しています。
(p122より引用) 武士は身体的な学びを非常に重視します。・・・頭でっかちではなく、身体そのものを通して学ぶことが当たり前という考え方です。それを踏まえているのが素読世代というわけです。
それに対し、知識の量や幅の広さを誇るようになったのが教養世代です。両者の間には、学ぶことの身体性という点で、大きな溝があるといえるでしょう。素読時代を音読世代と言い換えれば、教養世代は黙読世代ということになります。
また、著者は、日本の「学ぶ力」の低下の主原因のひとつとして、1960年代以降顕著になった「悪いとこ取りのアメリカ文化の導入」を挙げています。
(p101より引用) アメリカ的な「どこまでも行くぞ」というフロンティアスピリット、チャレンジを続ける強い気持ち、恐れのなさ、勇気、あるいは民主主義に対する強い意志などは、日本の若者文化には根づいていません。そのかわり、大人社会に反抗しつつ、結局大きな制度にはぶら下がるという生き方を選択した。つまり、日本的な「甘え」が消えない中での若者文化だったわけです。アメリカ文化の導入は、この点できわめて中途半端だったといえるでしょう。
ロックンロールに代表される当時のアメリカ文化は、苦もなく得られる気持ちよさとい引き換えに、日本の若者から「学びの意欲」を消し去っていきました。
最後に、著者は「あとがき」で、今の若者に対してこう訴えます。
(p219より引用) 自分は探すものではなく、学びにより形成するものだ。空気は読むものでなく、つくるものだ。
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