渋沢栄一氏(1840~1931)は、明治・大正期の指導的実業家として有名です。
しかし、実業にたずさわるまでの生涯は、幕末の動乱の只中、波乱万丈だったようです。
武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の富裕な農家に生まれた渋沢氏は、若きころ、江戸で尊王攘夷運動に参加しました。その後、一橋家用人の推挙で1864年(元治元)一橋家に仕えましたが、当主の一橋(徳川)慶喜の将軍就任とともに図らずも幕臣となりました。幕末の京都で新撰組の近藤勇・土方歳三とも面識があったと言います。
1867年(慶応3)、渋沢氏は、慶喜の弟の昭武にしたがってヨーロッパ諸国を歴訪したのですが、このときの経験が後に財務・財政の巨人となる礎となりました。
渋沢氏が大蔵省幹部の大蔵大丞となったのは31歳の時。その2年後、1873年(明治6)に、渋沢氏は大蔵大輔井上馨と同時に大蔵省を辞し、実業界に転身しました。そして、今のみずほ銀行の前身である第一国立銀行の創始者として総監役に就いたのです。
実業界の巨人の第一歩です。
その後、渋沢氏は多くの事業に関わることになります。
(p128より引用) どんな仕事を始めるときにも、栄一は、まず有為な人材を集めようとする。栄一には「事業は人なり」という信念があった。そして、人材を探して、適材適所に活躍の場を提供していくことに心をくだいた。
そうでなければ生涯で五〇〇社ともいわれる企業の設立にかかわることなどなしえるはずがない。
渋沢氏は、終生「論語」を事業哲学の指針とし続けました。
自ら「論語講義」「論語と算盤」等の書物も著しています。
(p183より引用) 「論語の千言万語も、つまる所は忠恕の二字の外に出でぬ」と栄一は力説している。
忠恕はすなわち「真心と思いやり」という意味です。
渋沢氏が最も重きをおいたといわれる姿勢です。
本書は、渋沢氏所縁の場所を辿った軽めの評伝です。
渋沢氏は、第一国立銀行(現みずほ銀行)をはじめとし、秩父セメント(現太平洋セメント)・王子製紙・清水建設など今につながる基幹産業の創設に関わりました。氏の活躍のフィールドは、実業界のみならず広く教育・医療等社会公益事業に及びます。東京女学館・日本女子大・日本赤十字社・東京都老人医療センタ・・・。
渋沢氏は、「財」を活かす方法を知っていました。また、渋沢栄一という「人」を活かす方法も知っていました。そして、それを生涯かけて実践し通した稀有な人物でした。
現在、唯一「渋沢」の名を冠している会社は「澁澤倉庫」です。私が20数年前、社会人になって2年目、システム営業のOJTで訪問した最初の会社でした。
公益を実践した実業界の巨人 渋沢栄一を歩く 価格:¥ 1,995(税込) 発売日:2006-08-25 |
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