「日本人とは何ものか」という問いに対して、今日の人気論客内田樹氏が「ビッグピクチャー」を描いて大胆に論じます。
絵を描く際には、「対象」を捉える「視野」の設定が重要です。
(p18より引用) 私が驚いたのは、私がどんな質問をしても、トーブさんが、そのつどその論点はどういう時間的な幅の中で考察すべきかというスケールの吟味から入ったことです。「どういうスケールで対象を見るか」という問いは、本来あらゆる知的活動の始点に立てられなければならないはずのものです。
内田氏自身、「はじめに」でも述べていますが、過去にも数々の「日本文化論」が論じ重ねられてきました。が、これほど多くの「日本文化論」が存在していること自体、極めて「日本人的」であると内田氏は言います。
ただ、この点はすでに梅棹忠夫が指摘しているところでもあるとのこと。
(p23より引用) 私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。・・・すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。
この回帰性を政治学者丸山眞男は「執拗低音」と表しました。「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度です。
これが「日本人の振る舞いの基本パターン」であり、繰り返し表れる「回帰パターン」なのです。
(p26より引用) 丸山が言っているのは・・・日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しないということなのです。
「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。・・・よその国の変化に対応する変り身の早さ自体が『伝統』化しているのです」
こういう「変り身の早さ」が伝統化するには、もちろん必然の経緯があります。
(p29より引用) もっぱら外来の思想や方法の影響を一方的に受容することしかできない集団が、その集団の同一性を保持しようとしたら、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるしかない。・・・世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古人の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たちは日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。
「きょろきょろするナショナル・アイデンティティ」は、辺境に住む日本人にとって、外からの力に抗するための自己防衛的態度だったのです。
こういう辺境人たる日本人の特性は、つい最近まではいくつもの局面で効果的に働いていました。
(p186より引用) 辺境人は「遅れてゲームに参加した」という歴史的ハンディを逆手にとって、「遅れている」という自覚を持つことは「道」を究める上でも、師に仕える上でも、宗教的成熟を果たすためにも「善いこと」なのであるという独特のローカル・ルールを採用しました。これは辺境人の生存戦略としてはきわめて効果的なソリューションですし、現にそこから十分なベネフィットを私たちは引き出してきました。
しかしながら、今はというと
(p186より引用) 問題は「その手」が使えない局面があるということです。
日本辺境論 (新潮新書) 価格:¥ 777(税込) 発売日:2009-11 |
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
TREviewブログランキング
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます