老荘思想関係では、ちょっと前に「タオ・マネジメント―老荘思想的経営論」という本を読みましたが、本書はストレートな思想の概説です。
道家の思想は、無為自然、無欲などの虚無を道の基としました。
ただ、この基本的コンセプトである「道」に関して、老子と荘子での考え方の相違が見られます。
(p179より引用) 天地万物が生ずる以前、そこには宇宙の母たる何ものかが存在していた。・・・
そして、老子は、この道の姿を理想として、処世のあり方を説く。・・・俗世の中におけるさまざまな智慧を説くのである。
一方、荘子は、相対的な価値観に彩られたこの世のすべてを受け入れるという超俗的な態度をとる。自らは価値判断を下さず、世界の実相をそのまま認めていくというのである。だから、荘子にとって、「道」とは、この世のすべてである。
老子と荘子では「道」の意味づけが異なるのです。
ただ、いずれにしても、そこには儒家的な世俗の価値基準は存在しません。「世俗的な価値観」は否定されています。
世俗的な価値観を否定するにしても、老子と荘子では否定・批判する際の姿勢は異なっていました。
(p175より引用) 『老子』も、世俗の人間の価値観が世界の実相から外れていると批判した。しかし、批判する自分自身には批判の矢は向けられなかった。一方『荘子』は、自分自身を含む人間全体に批判の網をかぶせてしまったのである。これを脱出する手段は、言葉によらない超越的な方法、つまり「明」という悟りの境地である。のちに中国に伝来した仏教、とりわけ禅宗が、『荘子』の思想を助けとして受容されたのは、こうした点にも一因がある。『荘子』における「明」と禅宗における無言の悟り、この両者は強い共通性を持つ。
荘子においては、「胡蝶の夢」で語られているように、「判断の相対化」が説かれるのです。
さて、漢の武帝によって儒教が国教化された後、諸子の思想は次第に廃れてしまいますが、道家思想だけは、ある意味儒教のアンチテーゼとして後年に渡り生き残りました。
(p182より引用) 儒家の思想は、きわめて人間的である。どんなに歴史をさかのぼっても、せいぜい、古代聖王の堯・舜までであり、しかもそれら古代聖王によって築かれた文明を高く評価する。
しかし、道家の思想は、人間の誕生や活動が、むしろ宇宙の根源的状態を乱してしまったのではないか、という文明批判的側面を持っている。その思想は、他の諸子百家に比べてはるかに巨視的であるといえよう。
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