シンプルなタイトルであるが故に、一体どんな議論がなされているのか気になって手に取ってみました。
著者の大野晋氏は、丸谷才一氏とも親交の深かった日本を代表する国語学者です。その日本語・日本語文法の大家が、日本語にまつわる素朴な質問に答えていくという形態の本です。
その一問一答の中から私の興味を惹いた箇所を、覚えとして書き留めておきます。
まずは、古典文法の「係り結び」に関すると問いから、現代日本語の「ハ」と「ガ」の違いについて解説している部分です。
(p102より引用) 現在日本語では、文の主の下にガを使うか、ハを使うかのどちらかだが、それには次の原則がある。
①ガの上には、疑問のこと、未知のこと、新発見と扱うことを据えて構文の主とする。
②ハの上には、話題としてすでに知っている、知られていると扱うことを据えて構文の主とする。ハの上を分っているものと扱う。・・・
このルールの例示として著者が挙げている例文は、次のようなものです。
- 「本が部屋の隅にあった」、この場合は、「(未知の)気付かなかった本というものを部屋の隅に発見した」ということ。
- 「本は部屋の隅にあった」と言えば、「前から探していた(既知の)本が部屋の隅で発見された」というニュアンスになるというのです。
そして、この新・旧情報をつなぐ構文は、古文の時代から受け継がれた日本語の基本構造だと、著者は説いています。
本書で印象に残ったところをもうひとつ。日本語における「漢語の効用」を語っているくだりです。
(p133より引用) 漱石や鴎外だけでなく、明治時代、大正時代の人々は、漢文ができた。漢語を多数駆使できた。それが彼らの日本語に豊富さを与え、事態の精細な理解把握に役立っていた。彼らは漢文を学んだ上でヨーロッパ語を習得し、そこで簡潔とか的確とか明晰を獲得し、その頭脳で物事を考えていた。
「かな」では前後関係からしか判別し得ない「同音異義語」も、漢字の単語・熟語を使うと明瞭に区別し表現することができます。
この「漢文」を通しての表現力の拡大・論理的思考能力の醸成が、明治期以降の先進諸外国からの知識吸収に大いに貢献したとの考えです。
そして、この「漢文」は、古来からの「和文」と併存することにより、日本独特のハイブリッドな文化的潮流も作っていきました。
(p141より引用) 日本人は漢文そのもの、その訓読系の文章によって明晰、簡明、論理的な組織化の重要さを学び、和文系の表現によって優しい心、自然を感受する心、情意のはたらきを受けとる能力を養ってきた。その二つが日本人の心をはたらかせる車の両輪だった。
さて、本書において著者は、「日本語」という切り口から日本文化・日本社会の現状や将来についても語っています。
(p180より引用) 最近の社会現象に現われた、文明の正確な、精しい理解、把握力に欠けた日本人の行動は、私の見るところでは、実は日本語を正確に、的確に読み取り、表現する力の一般的な低下と相応じていると思うのです。
戦後の当用漢字・教育漢字の制定等に見られる「漢字教育」の弱体化が、著者がいう「日本人の言語能力の劣化」をもたらし、ひいては「事実・真実に対する誠意の欠如」や「虚偽や隠蔽の優先」にまで結びつくかといえば、少々我田引水的な立論のようにも感じますが、確かに、演繹的ではないにせよ、少なからぬ影響はあるだろうとは思いますね。
(p207より引用) 漢文訓読体という文章は文明に向き合おうとする意志によって維持されて来ました。それが敗戦後の言語政策によって壊されて行き、人間の理と情という両輪の一方が国民として脆弱になり崩れて来たと私は見ています。
“カナモジカイ”“ROMAJIKAI”の主張はあまりに極端ですし、「当用漢字」「常用漢字」の制定における国語審議会(現在は「文化審議会国語分科会」)の答申内容も納得性には乏しいものがあります。
それに対する、著者の主張は明確です。
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