本書は、西洋における「正義」の思想を古代から現代に至る流れの中で概説したものです。
基本は、進歩史観的な変遷ですが、ところどころにその流れを堰き止める節目になるような興味深い思想家が登場します。
その代表例は、やはりニーチェです。
ニーチェの思想における代表的な概念「ルサンチマン」と正義について言及したくだりです。「ルサンチマン」は、支配される人々、「抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者」のうちに生じる怨恨の念です。
(p195より引用) 暴力は悪である。抑圧は悪である。・・・と、この受動的な人々は考える。だから優越する人々は悪しき者たちである。悪しき者たちに暴力を加えられるのは、善き人々である。だからわれわれこそが、善き者である
ルサンチマンはこう考えます。ここにおいて、善とは、暴力を加えないこと、他人を攻撃しないこと、結局「何もしない」=行動の欠如と定義されるようになりました。ルサンチマンとして被害を受けた者が加害者を赦すことが正義であるとの考え方です。
(p196より引用) 優越した者がなすことは悪であり、不正である。・・・
これは共同体の約束に違反する者に処罰を加える現世の権力者が不正であると考えることであり、正義の概念をまったく逆転させることになった。
そして、被害を受けた者すなわちルサンチマンは「赦し」により正義の概念を弁証法的に止揚し、「恩赦」を与える神に等しい地位に昇るとされたのです。
(p197より引用) 「正義とは根本では、傷つけられた者の感情を発展させたものにすぎない・・・」
公共善でもなく社会契約でもない、ニーチェのいうルサンチマンの正義です。
さて、以降には、現代の「正義論」の中で私の印象に残った議論を覚えとして書き留めておきます。
まずは、アメリカの政治学者マイケル・ウォルツァーの「財が異なると正義も異なる」という主張。
ウォルツァーは「配分的正義」においては配分の対象となる「財の多様性」が「正義の多元性」を生じさせると考えます。
(p235より引用) ウォルツァーは、この多元的な正義で必要とされるのは複合的な平等の議論であり、これは「20世紀の最も恐るべき経験」である全体主義の経験から生まれたものであると語っている。全体主義の社会は、「画一化、すなわち分離しているのが当然である社会的な財と生活の諸領域の体系的な同等化」を目指してしたからである。これにたいして「複合的な平等は全体主義の対立物である。最大限の同等化に対立するものとしての最大限の分化」を目指しているのである。
次に、日本でも大ブームになったハーバード大学のマイケル・サンデルの「善と正義」の議論。
サンデルは、価値観が多様化する現代社会においてリベラルな公共的理性の意義を認めます。しかしながら、その公共的理性が「中立」を守れるかといえばそこには疑問をいだいていており、なんらかの対応の必要性を主張しています。
(p243より引用) 「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは達成できない。公正な社会を達成するためには、善き生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致をうけいれられる公共の文化を作りださねばならない」と考えるからである。
こういった論者の考え方は、地勢的にも世代的にも多様な社会状況を反映したものですし、私の実感覚としてもとても馴染みやすい思想ですね。
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