「正義」といえば、日本ではマイケル・サンデル氏の講義・著作が大きなブームとなりました。
本書は、古代から現代までの西洋哲学における「正義」の思想のエッセンスを概説したものです。正直なところ、私の理解度は20%ぐらいでしょうか。その中でも、いくつか私の興味をひいた部分を覚えとして書き留めておきます。
まずは、古代ギリシャ、プラトンとアリストテレスの思想に触れているところです。
(p28より引用) プラトンの正義の理論は、何よりも正義を人間の魂の内的な調和の問題として考察するというところがユニークである。・・・
これに対して・・・公共善としての正義の概念を確立したのがアリストテレスである。
「公共」という概念を意識したことにより、アリストテレスの「正義」は政治的な性格を備えることになりました。
(p31より引用) 正しい行為とは、たしかに個人の倫理的な資質であるが、その目的は魂の調和を維持することではなく、「国という共同体にとっての幸福またはその諸条件を創出し守護すべき行為」という政治的な目的を兼ねそなえているのである。「善き人間であるということと、ある任意の国の良き市民であるということは、必ずしも同じではない」のである。
この考え方は「共同体の法律の遵守」という普遍的な「法における正義」ですが、もうひとつアリストテレスは特殊な正義として「均等性における正義」も議論していました。そして、こういったアリストテレスのポリス的正義論は、その後の西洋の正義論の思想的基軸となりました。
この「ポリス的」思想をより普遍的に人類全体に適用されるよう拡大させたのが、ヘレニズム時代のストア派の学者でした。彼らの考え方は、共和政ローマ期の政治家であり哲学者でもあったキケロの著作においてみることができます。
(p42より引用) キケロは「同胞市民に対しては配慮すべきだが、他国人についてはその必要がない、と言う人々は、全人類に共通の社会を破壊している。この社会が消失すれば、親切、篤志、善良性、正義も根こそぎ失われてしまう」と明言している。ここにはギリシアの狭さを超越した人類のための正義の思想がはっきりと語られている。
このようなオープンマインドは、征服民に対しても市民権を与えたローマ帝国の政治にも通底している思想ですね。
その後、ローマ帝国ではキリスト教が国教となり、それに伴い「公共善としての正義」の概念も変容していきました。
(p47より引用) キリスト教の信仰においては、「正しい人」はもはや社会的な正義を行う人ではない。「神を愛し、また隣人を、人間にしたがってではなく、神にしたがって、自己自身のように愛することを志す人」こそが、善き意志をもった人と呼ばれ、「正しい人」と呼ばれるのである。
アウグスティヌスは「身体も魂も神に服属する」ことを正義といい、「神学大全」で有名なトマス・アクィナスは、このキリスト教的正義とアリストテレス的正義との理論的調和を目指したのでした。
正義論の名著 (ちくま新書) 価格:¥ 861(税込) 発売日:2011-06-08 |
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