“同調圧力”、とりわけ昨今の世の風潮の中、よく耳にするフレーズです。
本書は、その“同調圧力”をキーワードにした、作家の鴻上尚史さんと評論家の佐藤直樹さんとの対談集です。
お二人の議論の共通の起点は“日本における『同調圧力』は「世間」が生み出している”との認識です。「世間」は、「社会」とは異なるものです。このあたり、佐藤さんはこう解説しています。
(p35より引用) 社会は、当然ながら江戸時代にはなく、一八七七年ごろにソサエティ (society)を翻訳してつくった言葉です。これを「世間」と訳さなかったのは、社会が個人や人間の尊厳と一体となった言葉であることが分かったからではないでしょうか。問題なのは、日本人は「世間」にがんじがらめに縛られてきたために、「世間」がホンネで社会がタテマエという二重構造ができあがったことです。おそらく現在の日本の社会問題のほとんどは、この二重構造に発していると言ってもいい。
さらに佐藤さんは「『世間』を構成するルール」を4つ挙げています。
① お返しのルール
② 身分制のルール
③ 人間平等主義のルール
④ 呪術性のルール
同じように鴻上さんが整理した「『世間』の特徴」は5つです。
① 贈り物は大切
② 年上が偉い
③ 「同じ時間を生きること」が大切
④ 神秘性
⑤ 仲間外れをつくる
こういった「世間」は、その中で生きていくには“息苦しい”ものです。とはいえ、現実的には「世間」自体の存在を否定することは難しいでしょう。
鴻上さんの勧める処方箋はこうでした。
(p169より引用) まず、「世間」という強力な敵をよく知ったうえで、「社会」とつながる言葉を獲得してもらえたら、ということ。同時に、弱い「世間」をできれば複数見つけて、そこに参加してもらう。あなたが幸せになる方向はそれしかないんじゃないかなと僕は思っているんです。
また、佐藤さんも自分の言葉でこう伝えています。ここでもスタートは「『世間』を知る」ことです。
(p170より引用) 「世間」というのはこの先もなくならないと考えています。この状況は続くでしょう。その前提のもとで、「世間」をよく知る。「世間のルール」とかも含めて、よく見てよく知るということが非常に大事なことだと思います。知ったうえでどうするかというのは、・・・いろんな「世間」とつながるということ。 〈世間-間-存在〉を意識して、少しでも「世間」に風穴をあけてほしい。そうなれば、もう少し自由闊達に生きることができるんじゃないかと思います。
このお二方のアドバイス、ともに“「世間」の存在”を前提としています。そして、「知った上での『世間』とのつながり」を勧めています。現実的な判断ではありますが、これはとても興味深いですね。
さて、本書、鴻上さん、佐藤さんお二人の対話を通して、今の時世における“日本社会”の特質を「世間」をいうキーワードで読み解いている内容ですが、正直、私としては取り立てて新たな気づきは得られませんでした。
これは、決してお二方の論旨を否定するものではありません。
私ぐらいの年代の人間の場合、ちょうど学生時代に“日本人論”が一世を風靡していました。ルース・ベネディクトの「菊と刀」、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」、山本七平の「「空気」の研究」、中根千枝の「タテ社会の人間関係」等々といった著作は必読書のような“空気”だったのです。そこでは、「世間」「空気」「ホンネとタテマエ」といった概念は、日本人論を語るに必須のトピックでした。
その意味では、当時と相も変わらぬ「世間」が、実社会のみならずさらにネットという「仮想社会」においても世代を超えて引き継がれているということですね。
これは決して「進化」とは言えません。
先に読んだ「経済学を味わう」の中で著者自らが紹介していたので手に取ってみました。
「ゲーム理論」の入門書です。
まず、冒頭、著者は「ゲーム理論」をこう位置づけています。
(p18より引用) 人はひとりでは生きられない。友人、同僚、恋人、取引相手、さまざまな人間関係の上に人は生きている。どのような関係であれ、人と人とが出会う場では相手を読む相手の立場や気持ちを考えるということが大切であることは言うまでもない。
そのような人間関係を分析する学問がゲーム理論である。
これに続いて各論に入っていくのですが、ちょっと想像していた内容とは違っていました。
第一章の「ゼロサム・ゲーム」「チキン・ゲーム」「囚人のジレンマ」の解説といったゲーム理論の基礎知識の解説的な部分は想定どおりでしたし、第二章で登場する「戦略形」「展開形」といったゲームの「表現形式」の紹介は私の頭の整理に有益でした。
ただ、それ以降の章の内容については、読む側の本書に期待するところによって評価が分かれるでしょう。
著者の意図としては、身近な事象を「ゲーム理論」のスキームを適用して解説する、そしてそれにより“ゲーム理論の実践的理解を深める”ということを目指したトライなのだと思いますが、それにより関心が高まる人もいれば、少々我田引水的な議論だと感じる人もいるのではないでしょうか。
もちろん勉強にはなりましたが、私の場合はそもそもの理解力が不足していて、思惑通りに著者の解説についていくには至りませんでした。残念です。
初期のベンチャー起業家の代表的人物である西和彦さんの著作です。
ご自身が語る「反省記(半世記)」ということで興味を持ったので手に取ってみました。
読んでみて感じるところですが、こういった自叙伝的な著作にありがちの「過度な自己礼賛」はまったくありませんね。もちろん成功譚も紹介されていますが決して華美な虚飾ではなく、その時々の西さんのありのままの姿や気持ちが書き連ねられています。まさに期待どおり、エネルギッシュでドラマチックな西さんの半生(反省?)を彩る様々なエピソードが満載です。
それらの中から私が気になったところです。
数々の型破りなエピソードも興味深いものがありましたが、その中で時折見せる西さんの“謙虚な姿”や“オーソドックスな考え方”も大いに勉強になりました。
(p140より引用) 大物経営者に限らず、仕事で人と会うときはいつも緊張していた。毎回毎回が真剣勝負だと思っていた。大事だと思うのは、相手のことを尊敬して謙虚にぶつかっていくという姿勢だ。貴重な時間を割いて会ってくださるんだから、感謝の気持ちを忘れたらいけないと思う。
ただ、緊張してたら交渉なんてできない。だから、「失敗したらどうしよう」なんて思わないようにする。というか、そんな心配が消えるまで準備する。自分がプレゼンする内容を考えるときに、「相手はどう思うか?」「何を疑問に思うか?」という想定問答を何時間もかけて徹底的にやっていた。されると予想できる質問の答えを100通りは考えた。その答えを全部用意してから、訪問していたのだ。
リアルな場面が浮かんできますね、とても大切な考え方だと思います。
そしてもうひとつ、まるでジェットコースターに乗り続けていたような激動の半生を経た西さんが考え続けてきたこと、「幸せとは?」
西さんが至った答えはこうでした。
(p455より引用) 感謝している時が「幸せ」なのだ――。
この気づきこそが、これまでさんざん経験をしてきた失敗から学んだ最大の知恵だと思う。
確かにそうですね。これだけの波乱万丈の人生を経ての結論には心底深く重いものがあると思います。
本書には、西さんと深い関わりがあった人物が数々登場します。その関わり様はさまざまですが、結局のところ最後はそういった方々への“感謝の気持ち”に行き着いたようです。
その中でも、西さんの生き方に特に大きな影響を与えたのがCSKの創業者大川功さんと「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ銀行家中山素平さんでした。このお二人に対する西さんの感謝の念は言葉では言い尽くせないものがありました。
確かに、西さんに接したこのお二人の姿はとても魅力的ですね。機会を見つけて、今度はこの方々を描いた本を読んでみましょう。
タイトルに惹かれて手に取ってみました。
著者の池内了さんは宇宙物理学者、いままでも科学・物理学の「入門書」を何冊も著しているようです。
私は、こういった“入門書”はつい中身を覗いてみたくなるタイプなのですが、ほとんどの場合“手に負えなかった”という結果に終わっています。
さて、今回はというと・・・、やはりかなり手こずりました。
まず、本書での議論の前段として、「まえがき」で著者は物理学の特性をこう整理しています。
(p4より引用) 物理学の精神は、単純、簡明、統一、原理主義、などの言葉に集約されるだろうか。物理学者は、多様で複雑に見える自然だが、真理は意外に単純明快であり、論理を忠実にたどっていけば必ず真理に到達できると信じている。アインシュタインが述べたように、「神は老獪だが、意地悪ではない」のである。そのための自然を解剖していく手法は、本書に書いたような原理・法則・原則に則っている。どのような建築物もレンガ一つひとつの積み重ねから成り立っているように、壮大な物理学の成果も、最も基本的な原理の上に構築されているのである。
そして、この「まえがき」に続いて「物理学の原理」「物理学の法則」「物理学の原則」の解説がなされていくのですが、この肝心の“本論”部分が私には全く理解できませんでした。書評の中には、“「基本の基本」をわかりやすく伝授”とか“文系のための物理学入門”とかうたっているものもあったのですが、私の正直な印象としては全くそんなレベルの内容だとは思えませんでした。本当に情けない限りです。
なんとか著者の立論にある程度ついていけたのは最終章の「人間の思考」とタイトルされた項ぐらいでした。
ともかく、今回のトライではその程度の理解レベルなので、本書での学びで書き留めておくくだりは、せいぜいこういった内容になります。
(p203より引用) 科学とは、一方で「自然が見せる多様な現象」があり、他方で「現象を過不足無く説明できる原理や法則」があって、この二つをいかに整合的に結び付けるかについての人間の知的営みと言えるだろう。端的に言えば、「自然現象」と「説明原理」との関係のことで、それを明快に結び付けた言説のことを便宜上「真実」と呼んでいるのである。
それでも、この整理はとてもクリアで、私にとっては有益な気づきになりました。
とても話題になった本です。いつもの図書館に予約して、ようやく1年経って手に取ることができました。
本書に登場するメインキャストは、イギリス在住の著者みかこさんと息子さん。
その息子さんの中学校生活を舞台に、様々なエピソードや今のイギリス社会の実情がリアルに描き出されていきます。
たとえば、保守党政権下の緊縮財政の影響をストレートに被った低所得者層の学校生活の実態。
(p106より引用) 教育機関が市の福祉課の仕事を兼任しなくてはならない状況はおかしい。「小さな政府」という言葉を政治について議論する人々はよく使う。が、現実問題として政府があまりに小さくなると、「恵まれない人に同情するならあなたがお金を出しなさい。そうしないのなら見捨てて、そのことに対する罪悪感とともに生きていきなさい」みたいな、福祉までもが自己責任で各自それぞれやりなさいという状況になるのだ。
そういった厳しい現実の中で、悩みながらも自分の頭で懸命に考えて成長していく著者の息子さんの姿は、とても好ましく素直に応援したくなりますね。
評判どおり、刺激的で考えさせられる興味深い内容の良書だと思います。
さて、本書の舞台はみかこさんたちが日頃暮らしているイギリスが中心ですが、時折の里帰りで顔を出す日本での経験も紹介されています。
福岡の実家そばの料理屋さんでのエピソードです。
(p160より引用) 「あの人、何て言ってたの?」
座敷に戻ってきて座った息子がわたしに聞いた。
「息子さんには、訳して聞かせんほうがよかですよ」
と大将が言った。
「あげなことが日本の嫌な思い出になるのはいかん」
大将の言葉に親父も黙って頷いている。
「母ちゃんたちにもあの人が何を言ってるかわからなかったよ。酔って呂律が回ってなかったから」
わたしは微笑んで息子に言った。
PM2.5が飛んでいることより、日本経済が中国に抜かれることより、自分が生まれた国の人が言った言葉を息子に訳してあげられないことのほうが、わたしにはよっぽど悲しかった。
謂れのない差別意識は、いまだに残っているのです。とても情けなく残念ですが、何とかして拭い去らねばなりません。“当たり前”と感じるものがそもそも違うんですね。“(何かが)同じであること” は、そんなに大切なことなのでしょうか。背丈も体重も声も癖も、まったく同じ人などいないのに・・・。
“当たり前”という「意識」はどんなプロセスで作られるのか、そこが変わらないと、いったん染みついた“当たり前”を変えるのはなかなか大変です。