途中の「戦車」
著者の落合陽一さんは学問・アート・ビジネス等様々なジャンルでその多彩な才能を発揮している“旬な俊才”です。(私の年代だと、今でも書棚に並んでいるお父様の著作のインパクトが真っ先に頭に浮かびますが)
こういった感じのタイトルの本はこのところできるだけ読まないようにしていたのですが、この歳になってもどうにもミーハー気分が抜けないので、流行りものに負けて手に取ってみました。
が、内容は全く予想していたものとは違っていました。単純な“HowTo本”とは全く正反対といっていいでしょう。
落合さんがここ数年 “日々の思索のプロセスやアウトプット”を綴ったnoteへの投稿記事をベースに編集されたもので、そこに表出しているコンテンツは「ただ真似をすればいい」といった普遍的方法論の紹介ではありませんし、思索そのものですから、そもそも誰でもが簡単に「真似ができるもの」でもないんですね。
ということで、本書を読んで、私自身、同時代・リアルタイムの先端思考について行けたかというと、ほとんど無理だったような気がします。
それでもその中で、印象に残ったくだりをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、博士課程を振り返っての落合さんの述懐。
(p84より引用) 博士課程の訓練はずっと考え続けること、興味を持ち続けること、自分の世界観と世界の間の距離を埋め続けること、そういった知的活動を愛し続けること、今この現実で価値があるという価値基準に支配され切らないこと、ミクロとマクロ、主観と文脈の間をいったりきたりしながら、常に思い込みの力を忘れない訓練だったようにも思う。
「今この現実で価値があるという価値基準に支配され切らないこと」というフレーズは私でも腹に落ちます。
そして、落合さんの「チームビルディング」について語ったくだり。
(p252より引用) 結局人と人とのコミュニケーションはミームが最強だし、人を見る目と信頼性によって成り立つ関係性を活かしていかないと伝達速度に限界が来るから信頼と現場力と場数を組み合わせながらやっていくしかないと思って人生を生きている。イマジネーションの共有がもっとも重要。脳が直列するような並列するような場づくりが一番大切。同じものをイメージできるか。
この部分は普通の日本語?なので、私が読んでもよく分かりますし首肯できる考えです。
さて、本書を読み終わってですが、(繰り返しになりますが、)正直なところ落合さんからのメッセージは1割も理解できなかったというのが実感ですね。
現代哲学的表現なのだと思いますが、たとえば落合さんは、自身の“作品作り”についてこんなふうに切り出します。
(p131より引用) Uberみたいないわゆるギグエコノミーで働く人たちのポートレートを集めて、アマゾンの倉庫で働く人々のDNAをサンプルして、ギグエコノミーの低賃金さ、AIシステムと代替可能な人の関係性を語るために彼らの肖像をGANで生成画像を作って、人と機械が融合したディストピアの不完全なイメージのためにDNAのデータからシミュレーションした生物と機械の融合した姿の悲哀についてバイオ系立体造形で語る現代アートみたいなものを作ることで、資本家が牛耳るカリフォルニアスタートアップのお祭り騒ぎの中の人間性の危険な状態をAIやバイオアートの最新テクノロジーを用いて表現する・・・
私にはあまりにも難解でした。
落合さんの著作を何か1冊でもしっかりと読み込まないと、本書で紹介されている彼の思索のフラグメンツを理解するスタートラインにすら着けないということのようです。
いつも聞いているpodcastの番組に著者の福岡伸一さんがゲスト出演していて、本書の内容を紹介されていたので気になっていました。
福岡さんの著作は、いままでも代表作「生物と無生物のあいだ」や「動的平衡」をはじめ何冊か読んでいます。
本書は、福岡さんがダーウィンの足跡をたどりガラパゴス諸島を訪問したときの紀行文です。
本書で紹介されているような“ガラパゴス諸島の生態系”が今日でも観察できるのは、ガラパゴス諸島が欧米列強の支配下に置かれなかったことが大きな要因でした。
(p107より引用) 1832年、エクアドルは、ガラパゴス諸島の領有権を主張し、これを国土として確保した。独立してまもない、まだ国内外に混乱が残っていたエクアドルが、欧米諸国がその触手を伸ばしてくるまえに、この機敏な行動をとったおかげで、ガラパゴスの生態系と自然環境が今日まで保全されたことは間違いない。現に、ビーグル号が到達したのは、ほんの数年とのことだ。自然調査や海図測量を表向きの目的としていたが、ビーグル号は立派な軍艦である。もし、彼らがガラパゴスに着いたとき、ガラパゴスがまだどの国にも属していない島であったなら、彼らはまずユニオンジャックの旗を海岸に立てたはずだ。
エクアドル政府がどういう意図で領有権を主張したのか、その理由は明確に伝わってはいませんが、ともかく「生物学」にとってはこの上ない幸いでした。
そして、それから190年ほど時が経って、福岡さんが出会ったのはガラパゴスの島々の自然とそこに生きる生物たち。
本書は、“ピュシス(本来の自然)”と遭遇した福岡さんの喜びがそのまま溢れ出したエッセイです。
読む前は、ガラパゴスの自然を材料にした福岡さんならではの「生物や生命に関する論考」が紹介されていることを予想していたのですが、そういった“ロゴス”的な話題はほとんど語られていません。せいぜい、「ガラパゴスに棲む生物の人を恐れない性質」の理由を考察したくだりぐらいです。
(p231より引用) 人間を恐れること(あるいは天敵を恐れること)は、ほんとうに本能=獲得形質ではない遺伝的性質だろうか。
人間を恐れるためには、人間を他の生物と識別し、その存在や接近を察知し、そこから隠れたり、逃避したり、場合によっては威嚇したりする行動に結びつく必要がある。ここには認識や判断や選択と実際の反応が臨機応変に必要となる。このような複雑な行動様式は、単一もしくは少数の特別な遺伝子の作用だけでは到底、説明できない。つまり「人間を恐れる遺伝子」といったものを想定することは無意味だし、その有無だけで、人を恐れるか、人を恐れないかを説明することも無意味である。第一、1億年以上前から存在していた鳥たちの遺伝子に、ごくごく最近、鳥たちを捕るようになった人間の恐怖がどのように埋め込まれるというのだろう。
人間を恐れないガラパゴスの生物たちの不思議な行動様式は、もう少し多面的な考察が必要だと思う。
ということで、ここでも原因解明の結論にまでは至っていません。
やはり、ガラパゴスで感じるべきは、根源的な“生命”そのものなのでしょう。
本書の最後に福岡さんはこう語っています。
(p238より引用) 新世界たるガラパゴスに出現したがら空きのニッチでは、生物が本来的にもっている別の側面がのびのびと姿を表すことができた。それがガラパゴスの生物たちが示す、ある種の余裕、遊びの源泉なのではないか。生命は本質的には自由なのだ。生命は自発的に利他的なのだ。生命体は、同じ起源を持つ他の生命体といつも何らかの相互作用を求めている。互いに益を及ぼしたがっているし、相補的な共存を目指している。
ガラパゴスから贈られたメッセージ、まさに “生命の啓示” のようですね。
いつもの図書館の新着書リストの中で目に留まりました。
本書の著者青木直己さんは和菓子の老舗虎屋に入社し、虎屋文庫研究主幹として和菓子の歴史と文化に関する調査・研究に従事してきた方です。
まず、冒頭の「和菓子の楽しみ」と銘打った前書きで、和菓子の歴史を簡単にこうまとめています。
(p3より引用) 和菓子の世界は、菓子が木の実や果物であった古代から、徐々に餅や団子ほか加工食品としての菓子が登場し発達してきた現在までの和菓子の歴史を背景にしています。そこには古代に中国から伝わった唐菓子、鎌倉〜室町時代に同じく中国から伝わった饅頭や羊羹などの点心、戦国~安土桃山時代にポルトガルから伝わったカステラ、金平糖、ボーロをはじめとする南蛮菓子の影響がありました。そして十七世紀後期の京都で雅な上菓子(白砂糖を用いた上等な菓子)が大成し、国産砂糖の生産が広がった江戸時代後期には、大福などの庶民的な菓子が多くの人々を楽しませました。明治から現代にかけて洋菓子の影響を受けつつも、和菓子は発展を続けています。
神社仏閣のお膝元で生まれた門前菓子、信仰の旅の流行に伴う街道の名物菓子、茶の湯の隆盛の中で洗練された茶会の菓子等々、様々な源が今の和菓子に連なっています。そういった多彩な和菓子は、今はその地を訪れなくても「全国の銘菓」として百貨店でもとめることができます。
たとえば、「大福」といってもかなりの種類のものが手に入ります。
有名どころでは、東京で言えば“岡埜栄泉”や“松島屋”、京都では“出町ふたば”等々。大福は江戸時代に今のような姿に至ったそうです。
(p155より引用) 江戸時代、餅菓子のなかでも、とくに人気だったのが餡入りの大福だ。当初はふっくらとした形状から「うずら餅」、ひとつ食べると満腹になることから「腹太餅」とも呼ばれたが、餡は赤小豆に塩を入れたもので甘みはなく、「ただ大きくつくっただけのもの」であったという(『嬉遊笑覧』1830年)。
それが寛政年間(1789~1801年)ごろになると、腹太餅よりも回り小さく、こし餡に砂糖を加えた「大福餅」が登場。「1個が4文で、形が大きくて安い」 (『江戸繁昌記』1831年) ことから江戸っ子の人気を集めた。
本書では、「季節」「人生の節目」「神仏との関わり」など様々な切り口で日本全国の和菓子が紹介されています。
この歳になってくると、生クリームたっぷりのショートケーキはもちろん、チーズケーキやムース系のデザートでもかなりHeavyになってきました。“和菓子”が気になり始めたのは必然ですね。
このところ劇場版の「機動戦士ガンダム」シリーズ、「機動戦士Zガンダム」シリーズを立て続けに観て正直かなり “ガッカリモード” だったので、これはどうだろうということでトライした作品です。
「宇宙戦艦ヤマト」シリーズの劇場版のひとつですが、オリジナルストーリーです。
物語としてはそれほどドラマティックでもなく、冗長なところもありましたが、テーマははっきりしていましたし、その点では結構まとまった作品だと思います。
登場キャラクタも、初期作品の主要登場人物を無難に配置しつつ、新しい人物もうまく溶け込ませていました。
「宇宙戦艦ヤマト」の場合、基本的なストーリーラインが明確なので、そこからスピンアウトした作品も私にとっては受け入れやすく感じますね。
マイケル・サンデル教授の代表的著作である「これからの「正義」の話をしよう」には大きなショックを受けました。
あれからもう10年経ったのですね。私にとって本書は、それ以来、間に「サンデル教授の対話術」を挟んで3冊目のマイケル・サンデル教授の著作になります。
メインテーマは「能力主義」のようですが、かなり私の頭は退化しているので、どこまで議論について行けるかチャレンジです。
以下、私なりに興味を惹いたところを書き留めておきます。
まずは「能力主義とは」という概念整理です。
この能力主義と和訳されている言葉ですが、原語では「meritocracy」。“merit”は「能力」とか「功績」といった意味で、“meritocracy”は、“merit”に基づいて、人々の職業や収入などの社会経済的地位が決まるしくみをもつ社会のことを意味します。ちなみに、対語は「属性主義」「貴族制(aristocracy)」。家柄など本人が変えることができない属性により生涯が決まってしまう前近代的なしくみです。
(p63より引用) われわれは自由な人間主体であり、自分自身の努力によって出世も成功もできるという考え方は、能力主義の一面にすぎない。同じく重要なのは、成功を収める人びとはその成功に値するという信念である。 能力主義のこうした勝利主義的側面は、勝者のあいだにおごりを、敗者のあいだに屈辱を生み出す。
さらに、もう少し具体的に「能力主義」が導く行く末を説明するとこうなります。
(p89より引用) 成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。・・・だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。私の成功が私の手柄だとすれば、彼らの失敗は彼らの落ち度に違いない。こうした論理によって、能力主義は共感性をむしばむ。運命に対する個人の責任という概念が強くなりすぎると、他人の立場で考えることが難しくなってしまう。
これが、能力主義が生み出す「分断(新たな階級社会)」の主成因です。
能力主義をより公平にしようとする方法のひとつが「機会の平等」の実現ですが、この「機会の平等」が“曲者”です。
すべての人々が同じ条件で「機会」を活かせるか、競い合えるかといえば、現実はそうではないからです。すなわち人種・階級・民族・性別等々、人には「違い」があり、その違いによって既に機会の平等は、理想的な機能を果たしていないというのが実態なのです。
そして、この能力主義の世界は、結果については“自己責任”とするという考え方につながっていきます。そこで成功を得られなかった人々は、自らの「労働の意義」を否定されたような心情に陥ってしまうのです。
しかし、どんな労働であっても、そこには厳とした「尊厳」があるのです。“職業に貴賎なし”です。
(p298より引用) 市民的概念の視点からは、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割だ。なぜなら、われわれは生産者として同胞の市民の必要を満たす財とサービスを供給する能力を培い発揮して、社会的評価を得るからだ。貢献の真の価値は、受け取る賃金では計れない。
マーティン・ルーサー・キング牧師も「労働の尊厳」を「共通善への貢献」に結び付けてこう語ったと言います。
(p299より引用) 私たちの社会がもし存続できるなら、いずれ、清掃作業員に敬意を払うようになるでしょう。考えてみれば、私たちが出すごみを集める人は、医者と同じくらい大切です。なぜなら、彼が仕事をしなければ、病気が蔓延するからです。どんな労働にも尊厳があります。
さて、本書を読み終わっての感想ですが、やはり大いに刺激を受ける内容でしたね。
「能力主義」とそれが生み出す「労働の尊厳の否定」、そして「社会の分断」、「成果の平等」ともいうべき能力主義を是正する方法としての「機会の平等」、その機能不全から求められる「条件の平等」。などなど多彩な論考が詰め込まれた労作です。
ただ、予想どおりなかなかサンデル教授の議論にはついていけませんでした。特に、第五章のフリードリヒ・A・ハイエクやジョン・ロールズらによる政治哲学的論考の解説のあたりでは、私の脳味噌は完全に固まってしまいました。情けない限りです。
とはいえ、またサンデル教授の著作が出版されると気になるでしょうね。“返り討ち覚悟”で手に取る可能性大ですが。
あと、最後にに蛇足ですが、もう一言。
この日本版のタイトル「実力も運のうち」は如何なものでしょう?確かによく考えると “言いえて妙” ではありますが、マイケル・サンデル氏の著作ですから、無理やり捻ることはなかったようにも思います。