雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

2024-11-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子
前回までのあらすじ
 
〇 岸壁の母・端野いせ 
    いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。
   東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
   体にも負担だったに違いない。
   いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。
    昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、
   幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。
   いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていた
   い。…(略)…待つことのこの辛さ。
   この苦しみから早く逃れたい」と。

 〇 2通の死亡通知 
    昭和29年9月、
   一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。
   『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。
   力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
    昭和31年には死亡通知書が、東京都知事の名で届いた。
   『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
   お知らせします』と。
   しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなるまで、
   新二の生存を信じていた。

③生きていた息子

 (息子の生存を伝える記事)

 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 生存を確認したのは、
シベリア強制抑留経験者らで結成した慰霊墓参団のメンバーだった。

 新二は、妻子とともに中国人名で暮らしていた。
中国政府発行の<端野新二>名の身分証明書を持っていた。
新二の口は終始重く、慰霊墓参団との記念写真も拒んだ。
 慰霊墓参団の代表は、「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る。
 
 2000年(平成12)8月10日付の新聞記事(写真)のリード記事は
 次のように伝えている。
  「岸壁の母」が待ち続けた息子は、中国で生きていた。
  終戦後、引揚船が 着く京都・舞鶴港に通いつめ、
  演歌「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの一人息子、
  新二さん(七五)が上海で生存していたことを日本の慰霊墓参団が
  九日までに確認した。
   帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、
 「死んだことになっている自分が帰れば、
  有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念した新二さん。
  日本中の涙を誘った。
  "岸壁の母伝説"が、
  逆に母子の再開を永遠に引き裂く皮肉な結果になった。
 記事は平凡な記者の思い込みで、「母のイメージ」壊れてしまうという極めて単純な理由で記事を締めくくっている。

 終戦から55年が経ち、
新二の母は19年前の1981年(昭和56)7月に他界している。
帰らぬ息子の生存を信じて亡くなった母・いせのことを思えば、
この記事が報道されたとき新二は75歳になっていた。
母への思いは人一倍強かったに違いない。
母と暮らした日本への望郷の思いがないわけはない。
 「岸壁の母」のイメージを損なうという理由で、
 帰郷をあきらめなければならないという新二の言葉には、
 信憑性がないように思われる。
 
「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る慰霊墓参団の代表の言葉の裏に隠された真実があるのではないか。
                           (つづく)   

(語り継ぐ戦争の証言№41)         (2024.11.20記)

 

 

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「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

2024-11-12 22:55:01 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

前回の要点
  〇 歌謡曲「岸壁の母」 
     息子の帰還を舞鶴港で待ちわびる端野いせがモデル。
    昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子が歌い、
    いずれも大ヒットをした。
    特に後者の歌はセリフ入りで、300枚の大ヒットとなる。
    二葉百合子はモデルとなった端野いせにも何度もあって、
    その臨終にも立ち会った。
    戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待つ母の愛情が、
    戦後27年を経てなお、人々の感情を掻き立てたのでしょう。
  〇 京都府舞鶴港への引揚船  
     終戦直後の昭和20年10月7日、
    朝鮮釜山から陸軍・軍人を乗せた雲仙丸の入港を皮切りに、
    昭和33年9月サハリン(樺太)のホルムスク (真岡)から472人を乗せた白山丸の入港まで、
    13年間続いた。
     
その13年間で、66万2982人の引揚者と1万6269柱の遺骨が京都府舞鶴市平引揚桟橋
    に祖国への第一歩を記した。

  〇 舞鶴港桟橋の由緒書き 
    『幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした桟橋。
    桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。
    そして温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、
    歴史の語り部として(この桟橋を)復元した』
とある。
      〇 岸壁の母のモデルになった【端野いせ】
    
引揚船が舞鶴港に着くたびに、いせは岸壁に立ち、
   帰らぬ息子・新二の名を呼び、桟橋に立ち続けた。

 

歌謡曲岸壁の母二番 (作詞 藤田まさと)
 呼んで下さい おがみます
 ああ おっ母さんよく来たと
 海山千里と言うけれど
 なんで遠かろ なんで遠かろ
 母と子に

  (セリフ)
  「あの子は今頃どうしているでしょう。
  雪と風のシベリアは寒かろう……
  つらかっただろうと命の限り抱きしめて……
  温めてやりたい……。」
                                                               (二葉百合子が歌う絶唱「岸壁の母」)

母の思いは届かなかった
  
(端野いせ)

 針仕事で生活を支えていた端野いせにとって、
住まいの東京から京都の舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
体にも負担だったに違いない。
 それまで、東京大田区に住むいせは復員列車の着く品川駅に日参し、
復員者に新二の消息を尋ねたが、情報は入らない。
 焦燥感に背中を押されるようにして、
いせが舞鶴港に出向いたのは、
昭和25年1月だった。
 「新二は居ませんか。新二、新二」と引揚者の列に声をかけたが、
いせの声は、引揚者と迎えに来た大勢の人の雑踏の中に、
空しく消えていった。 
 昭和29年3月20日、端野(はしの)いせは再び桟橋に立ち涙ながらに「新二を知りませんか」と幾度も我が子の名を呼んだ。
敗戦から9年の時間が流れようとしているのに、
端野いせにはまだ戦争は終わっていなかった。
「新二よ、どこにいるのか。
生きてはおらぬのか。
『母さん』と呼んでもらえないのか」
と母はノートに記す。
「金があったらここに小屋を建てて待っていたい。
いま少し待つのだと自分の心に言い聞かせ、涙を拭いた」
「新二なぜこのように泣かせるのだ。
あきらめようと思うが命をかけて育てた子です。
生きていると信じるのです。
けれど待つことのこの辛さ。
この苦しみから早く逃れたい」。
 ノートに記された無念の言葉だった。

 同年9月。厚生省から新二の死亡認定理由書を受け取る。
《昭和20年8月15日未明、前方約300㍍の地点付近より突然ロ軍の射撃を受けたので、ただちに分散してこれに応戦したが数多いロ軍の一斉攻撃によって戦友は次々と倒れ、本人は最後まで抵抗していたが、ついに力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した》。
理由書に添えられた戦友の証言である。

 また、31年9月には次のような新二の死亡通知書が東京都知事、
安井誠一郎の名でいせに届いた。
《昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたのでお知らせします》
 しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなる最期まで、
新二の生存を信じていた。
                         (つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№40)                (2024.11.11記) 

 

 

 

 

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「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 

2024-11-06 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

(セリフ)
「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……
帰れないなら大きな声で……。」
                                                  (作詞 藤田まさと)

 歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、 
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
 戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。

 終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
 終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。

 平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした
桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
 
 (舞鶴港 平引揚桟橋)                                                       (帰らぬ夫を待つ母と子)
 この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。

 一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
端野(はしの)いせは、戦地から戻らぬ一人息子を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。

(語り継ぐ戦争の証言№39)

 
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『訪問介護』(2)広がる空白地帯

2024-10-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

『訪問介護』(2)広がる空白地帯
   前回(8月18日記事「訪問介護が危ない」)の記事では、
   訪問介護の危機的状況を以下のように書きました。

訪問介護の現実 (前回の記事より引用) 
 在宅の高齢者が、自宅で生活できなくなる危機的状況が、
 地方の過疎化と共に進行しています。
 高齢者の生活を支える訪問介護事業所が休止や廃止に追い込まれ、
 サービスの空白地帯が広がっています。
 厚生労働省が公表した事業所一覧を参照すれば、
 事業所ゼロの自治体は97町村
 事業所が1つしかない自治体は277市町村
 これは訪問介護の危機的状況を示しています。
 大手事業所や都市部の事業所は比較的安定した運営を
 続けることができますが、
 山間部や過疎地などは介護者が点在する家を一軒一軒まわなければならず、
 非効率であり、訪問介護は距離換算方式を認めていないので、
 どんなに離れた過疎化を廻っても介護報酬は同じになり、
 赤字事業になってしまう。
 事業所の撤退などの増加は、人手不足、非効率、など小規模事業所などが、
 撤退や倒産に追い込まれています。
 さらに2024年4月から介護報酬が約2%値下げになっていることも、大きな要因です。
 
「訪問介護事業」が危機的状況になっているということは、
施設や病院等に介護を求めるのではなく、
住み慣れた自宅で老後の生活を送りたいというのは、
介護を必要とする多くの願いです。

訪問介護事業所の減少を数字で見る
             減少の推移(2020年12月末→2024年6月末) 
   訪問介護事業所ゼロの自治体 ……  83町村→97町村  
                残り1事業所の自治体 ……   265市町村→277市町村 
      (全1741市区町村) 危機的状況に陥っている自治体は全体の22%に達しています。
    これだけの情報では
どれだけの事業所が消えていった(廃業)のか分かりません。
    8648事業所。
    
この数字を見ると愕然とします。
    直近の5年間で廃業した訪問介護事業所の数です。

全都道府県に蔓延している介護事業所危機
 今年の6月時点で、訪問介護事業所ゼロの自治体は、97町村。
 廃業や休業の訪問介護事業所が増え、残り1事業所の自治体は277市町村となります。
 これを、47都道府県に当てはめるとどのくらいの自治体が当てはまるのでしょう。
 意外な結果に愕然となります。
 なんと事業所ゼロ及び1事業所しか残っていないをかかえる自治体は、47都道府県中静岡県を
 除く、46都道府県に蔓延しています。
 
北海道中頓別(なかとんべつ)町の例
 町保健福祉課によればによれば、「民間では耐えられない額の赤字だ。町が事業を救うしかなかった」と言う。
 
同町は23年4月、町内の社会福祉法人から訪問介護とデイサービスの2事業を引き受けて「町営化」しなければ、この町の訪問介護事業所はゼロになってしまうからだ。
 「23年度は2事業あわせて3480万円の赤字で、これを町の一般会計から出した。国の交付金などはなく、町の持ち出しだ」と、苦しい胸の内を明かす。

 要介護状態になっても住み慣れた地域で暮らせるように、
「地域包括ケアシステム」を推進し、医療、介護、生活支援する介護事業所を積極的に取り入れてきました。
 だが、今その活動の中心を担う訪問介護が地方で成り立たず、
「地域包括システム」が崩壊しつつあります。

介護報酬の具体的な単位数

 2024年1月23日、4月に介護報酬の具体的な単位数が発表になりました。
これによると報酬全体では1.59%のプラスとなり、業界には明るい見通しが立ちました。
しかし、実際には介護報酬全体では1.59%プラスになったが、
訪問介護の基本報酬が引き下げられました。
 介護の最前線で活躍する訪問介護の報酬が引き下げられてしまいました。

訪問介護の報酬を新旧比較
 身体介護(20分未満)      167単位➡163単位
 生活援助(20分以上45分未満)  183単位➡179単位
 通院等乗降介助          99単位➡97単位
   新報酬は約2%強の引き下げになっています。
   訪問介護は、引き下げ率は2%強で引き下げ率は低いが、事業所数、
   そこで働くスタッフの数は圧倒的に多く、
   地方の訪問介護事業所は経営そのものを圧迫しかねない状況が出現した原因になります。
    また、在宅介護を支える定期巡回随時対応型訪問介護看護(約4.5%引き下げ)、
   夜間対応型訪問介護(約3.5%引き下げ)があります。

 危機的状況にある上位5道県
  (訪問介護事業所がゼロ及び1事業所しか残っていな地域をかかえる自治体)
      北海道 179市町村中 事業所ゼロの自治体12 事業所1の自治体70 全自治体の46%
   長野県      77 〃       〃                9                 〃    25       〃     44%
   福島県      59    〃                        〃                 8                〃             21       〃           49%
   山形県   35    〃                        〃                 4                〃              12      〃            46% 
   高知県      34    〃                        〃                 5                〃              11      〃            47%  

     静岡県    35市町中      〃      0                〃                0         該当なし

    
     本日は国政を担う衆議院選挙です。
     314人の女性が立候補し、過去最多。
     過半数(233議席)を自民党と公明党で維持できるのか。
     野党はここぞとばかりに、「裏金問題」をはやし立て自民党を追い立てる
     材料としているようですが、大衆的な争点だけでは国政は維持できません。
     政治倫理として「裏金問題」は大衆にわかりやすく説明できる争点ではあるが、
     国政の大きな柱は、「経済政策」や「医療・福祉」「介護福祉」の政策であり、
     「外交問題」も外すことのできない大切な施策の柱です。

     政治的無関心は、国を滅ぼします。
     一票一票の積み重ねが国の力を大きく動かす原動力になる事を
     私たちは忘れてはならない。
     政治的無関心の裏に潜む、自己責任の放棄を容認してはいけない。

     今日は投票所に行こう。

     訪問介護の危機を脱却できる政策立案のできる政党を
     私は選びます。

(昨日の風 今日の風№143)

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パンダが帰った

2024-10-05 08:23:14 | 昨日の風 今日の風

パンダが帰った
リリーとシンシンが生まれた国に帰っていった
長い間立ち尽くしても見られるのはほんの数分だけだ。
早い人は、前日の夜から並んだ人も少なくない。上野動物園には開園前から長蛇の列ができていた。この時日本に来たのはリリーとシンシンだった。2011年のことだった。来てすぐに東日本大震災があった。2017年にはシャンシャンが生まれたが、2023に生まれ故郷に返還された。2021年には双子のシャオシャォとレイレイが生まれた。パンダの人気はまた過熱した。「コロコロとしたぬいぐるみのようなわんぱく、おてんばをあやす姿には、眼を細くさせられた」と朝日新聞・天声人語氏は当時を懐かしむ。
そのリリーとシンシンが中国へ帰っていった。19歳という高齢になり健康を考慮しての故郷帰り(返還)だった。
別れを惜しむ人たちが、
空港に押し寄せ、2頭の乗った飛行機を見送り、別れを惜しみ涙する人もいた。13年間の家族の小さな歴史を思い、手を振り望遠レンズで離陸するパンダの乗った飛行機を連射する人の姿もあった。

ドキュメント 「リリー」と「シンシン」
 29日早朝4時、上野動物園を出発した2頭は、8時ごろ成田空港を離陸し、日本時間12時40分ごろ成都双流国際航空に到着。上野動物園から飼育係や獣医師がリーリーとシンシンとともに中国に渡り
日本時間18時00分、リーリーとシンシンは四川省雅安市にある中国ジャイアントパンダ保護研究センターに無事到着し、検疫施設に入りました。2頭は落ち着いているとのことです。
                     (上野動物園ホームページより要点)

最初のパンダ 「ランラン」と「カンカン」
最初にパンダが来たのは1972年、今から52前だった。
 当時の首相である田中角栄が周恩来首相と日中共同声明を交わした奇しくもその52年前の9月29日、リリーとシンシンは生まれた国へ帰っていった。
1972年9月29日、北京を訪問した田中角栄首相(当時)は、日中共同声明に調印。中華人民共和国との間に国交正常化を実現させた。(それまで、中国は台湾寄りの佐藤栄作政権を軍国主義と猛烈に批判していた)
田中角栄は、首相就任わずか85日で日中国交回復という偉業をなし
遂げた。
 (田中角栄と周恩来)

パンダのレンタル料金
 この日中国交正常化を記念して中国から贈られてきたのが「ランラン」と「カンカン」だった。この2頭のパンダは無償提供だったが、以後のパンダはレンタル料金がかかっている。
年間レンタル料は2頭で95万ドル(約1億円)になり、この費用は東京都が支払っている。

日中国交回復声明文に託された未来
 「両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である」と声明で謳いあげ、日中間に明るい光がさしかかる未来への希望であった。
 だが最近の日中関係はぎくしゃくして、友好関係から徐々に遠ざかっていく様子が気になります。
パンダ外交が、見せかけだけの外交に終わらないことを祈りつつ母国に帰ったパンダの健康を祈ります。

(昨日の風 今日の風№142)  (2024.10.3記)

 

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訪問介護が危ない

2024-08-18 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

訪問介護が危ない
 公的介護保険について
 
介護が必要な高齢者が少ない自己負担で介護サービスを得けられるよう、
 社会全体で高齢者の介護を支える制度のこと。
 40歳から加入が義務づけられ、その支払いは一生涯続きます。
 65人を歳以上の人を「第一号被保険者」、
 40歳~64歳の人を「2号被保険者」と区分しています。

介護保険の徴収方法と保険料
 「2号被保険者」の場合、会社員の場合は健康保険料と併せて給与から介護
 保険料を天引き、国民健康保険加入者は保険料と併せて徴収される。
 「1号被保険者」の場合 年金から天引きされる。
 保険料は「1号被保険者」の場合13段階の収入に応じて異なるが、
 平均保険料は年額74,115円になります。
 これだけの保険料を私たちは収入から生涯にわたって払い続けます。

訪問介護について
 上記のように介護保険制度のサービスは、
    国民からの介護保険料や公費を財源として、
 在宅介護の必要な人たちの生活を支えることになり、
 訪問介護は在宅介護に欠かせないサービスのひとつになります。


訪問介護の3つのサービス

生活援助 調理や洗濯、掃除などの家事援助
身体介護 要介護者の身体に直接触れて行う入浴や排泄、食事、更衣などの介助
通院等乗降介助 通院等を目的とした車両への乗車・降車の介助、移動介助、受診の手続きなど

以上のサービスがあり、それぞれのサービスにはヘルパーさんなどができることとできないことがあり、規定外のサービスはできません。
それぞれのサービスに細かいサービスの規定がありますが、
それを述べることは、この記事の本意ではないので割愛します。

ここからが本題です。

訪問介護の現実 
 在宅の高齢者が、自宅で生活できなくなる危機的状況が、
 地方の過疎化と共に進行しています。

 高齢者の生活を支える訪問介護事業所が休止や廃止に追い込まれ、
 サービスの空白地帯が広がっています。
 厚生労働省が公表した事業所一覧を参照すれば、

 事業所ゼロの自治体は97町村
 事業所が1つしかない自治体は277市町村
 これは訪問介護の危機的状況を示しています。
 大手事業所や都市部の事業所は比較的安定した運営を
 続けることができますが、
 山間部や過疎地などは介護者が点在する家を一軒一軒まわなければならず、
 非効率であり、訪問介護は距離換算方式を認めていないので、
 どんなに離れた過疎化を廻っても介護報酬は同じになり、
 赤字事業になってしまう。
 事業所の撤退などの増加は、人手不足、非効率、など小規模事業所などが、
 撤退や倒産に追い込まれています。
 さらに2024年4月から介護報酬が約2%値下げになっていることも、
 大きな要因です。

 要介護状態になっても住み慣れた地域で暮らせるように国は
 「地域包括ケアシステム」政策の一環として介護や医療、
  生活支援をバックアップしてきました。
 しかし、その中心を担う訪問介護が地方で成り立たず、
 システムが崩壊しつつあると専門家は告発しています。

村で唯一の訪問介護事業所が3年前から営業中止
 山形県○○村で、高齢者約1千二百人の暮らす村。
 雪深い村内の一部地域では冬になると隣接自治体の事業所も入れず、
 訪問介護の提供ができない。

高齢者7千人に事業所ゼロ
 茨城県○○町は高齢者人口7千人に対して訪問介護事業所がゼロです。
 全国平均はおおむね高齢者1千人に対して1事業所ですから、
 圧倒的に不足しいます。

長時間移動でも報酬増えず事業所が廃止に
 北海道○○町 昨年3月、たった一つあった訪問介護事業所が廃止した。
 この町は高齢者人口が3400人弱ですから、3事業所が必要なのですが、
 たった一つあった事業所が廃止してしまいました。
 訪問の移動時間が長く1日に何軒も回れず、
 どれだけ移動に時間がかかっても報酬は同じです。
 厚生労働省は介護職の待遇改善として、
 報酬の加算を増やしてきたと言いますが、
 単に報酬の加算だけでは解決できません。
 職場環境の改善や報酬の加算は抜本的な改善でしかない。
 大切な「やりがい感」があるかどうかが、
 キーポイントになるのではないだろうか。

参考資料: しんぶん赤旗日曜版(8/18号)
      厚生労働省 訪問介護資料
訪問介護に関するWEBニュース
 (昨日の風 今日の風№141)          (2024.08.17記)

 

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能登半島災害を謳う (2)

2024-07-29 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う (2)
   能登半島地震災害から7カ月が経とうとしている。
    新聞やテレビなどのニュースの能登関連記事も最近では見られなくなってしまった。
   パリオリンピックや大谷選手のニュースが毎日のように報道され、
   復旧半ばの被災地の人々はままにならない生活環境の不便さを続けながら、
   ときには、取り残されていく淋しさにくじけそうになる時がある。
   人口流出は能登半島地域の震災以前からの課題だったが、
   震災がそれに拍車をかけ、多くの業種が人手不足に苦しんでいる。
   人口流出と経済復興の停滞する中で、地元の建設会社のK氏は
   「復旧工事は10年以上続くだろう。全く先が見通せない」と将来の不安を述べる。

   以下の歌は、能登地震から2~3カ月過ぎた頃の歌で、朝日歌壇、俳壇に掲載された歌である。
   震災の記憶が時間の経過とともに薄れていく現在、
   震災被害のなまなましい風景がよみがえってくる。
 

  「はがやしい」朝市あつた焼け跡に両手を合はすひとりの女性   大熊佳世子

    「はがやしい」とは、石川県金沢あたりの方言で、「思い通りにいかない心のありよう」を
    表現する。ここでは「誰にもわかってもらえない悔しい思い」という意味を含んでいる。
    標準語では表現することが難しい、その土地で培われた素晴らしい言葉。
     被災5カ月を経てやっと6月4日に公費解体が始まった。
    公費解体には、建物の所有権を持つ全員の同意が必要で、復旧の遅れの原因になっていた。
    
そこで、法務省は5月末、輪島朝市の264棟が建物としての価値がなくなったとして、
    「減失登記」をして、建物の解体を進めやすいようにした。
    しかし、崩壊建物の中に放置された物品の破壊や撤去には、物品の所有者の同意が必要になり、
    その同意も得られたとして解体に着手した。
    
     「はがしい」と輪島朝市の焼失した現場に立ち、両手を合わせる女性の姿が目に浮かぶ。

    

 

  珠洲原発を造らせなかった闘いは正しかったといま胸を刺す     十亀弘史

   珠洲原発は1975年に計画された。その計画は住民の反対運動と、
   それを切り崩す電力会社との28年に及ぶ闘争になった。原発設置は珠洲の高屋地区だったが、
   当初住民のほとんどが反対していた。
   関電側の住民の切り崩し運動はえげつない懐柔策だった。
   「原発視察名目の視察旅行」、「芸能人のコンサート」など、
   いずれも無料の大盤振る舞いだったという。
   数え上げたらきりのない寄付ゃ接待というカネの力に、
   一人二人と反対派の住民が切り崩され、地域は分断されて行った。
   説明会はいいことずくめの話で、住民の心を揺さぶり続けた28年間であったという。
   激しい原発反対運動に電力会社は2003年12月計画凍結を発表し、計画は頓挫した。

    今回の能登半島地震で、珠洲原発予定地の高屋地区の海岸線は数メートルも隆起した。
   「もし、あの時珠洲原発が高屋地域に建設されていたら」と隆起した海岸線を眺めながら、
   当時を振り返る。
   

臓物のはみ出すごとく家具吐きし家屋の呻くこゑする通り      北野みや子

    慣れ親しんだ住まいが倒壊し、雨ざらしになっている思い出のある品々が散乱している。
    色あせ、汚れ破壊された大切な品々が、倒壊現場の哀しさがこみ上げ、
    家屋の呻き声が生き物の叫びのように聞こえてくる。臨場感に溢れた被災者の叫びだ。

 

無事だった船四隻で水揚げす甚大被害の蛸島漁港      瀧上裕幸

  一体何隻の船が被害に遭ったのかニュースからはわからない。漁港岸壁には隆起や地割れがあり、
 被害に遭わなかった船は片手にも足りない。漁師にとっては手足を奪われたような甚大な被災だ。
 海に生きる漁師たちは、代々船を受け継ぎ家業として続ける人が多い。

 東日本大震災で被害を受けた漁師の言葉を思い出す。
 愛する者を津波に奪われ、船も無くなった。だが「俺は海を恨まない」。
 代々海で暮らしを立ててきた漁師の意地が、
 くじけそうになる自分を鼓舞するようにつぶやいた言葉が耳に残っている。

 1月21日深夜定置網漁が再開された。自宅も事務所も漁港も損壊したが、
 残った船を操業し、年末に仕掛けた定置網漁を再開した。水揚げは寒ブリ約600匹。
 タイ、フクラギなど15トンを揚げた。(参考:北国新聞)
                              蛸島漁港=石川県輪島市にある漁港。

海が好き漁はやめぬと若者の見つめる先に隆起せし浜    阿久津利江
  
漁師の仕事は過酷な仕事だ。親から子へと家業として受け継ぐ人が多い。
  海にどんな仕打ちを受けようと、海は母の懐のように優しい。
  浜が隆起しようが、地割れしようが海への希望と感謝を忘れない。
  その心意気が上の瀧上さん歌にも通じるものがある。


 能登の
地震(ナイ)海苔(のり)(か)く岩場隆起して     内田幸子
   能登の岩のリは、長い海岸線を持つ能登半島の外浦が産地として知られている。
   毎年12月から3月にかけて、自然が育てた海の幸である岩ノリ採りが行われる。
   能登では収穫したばかりの収穫したばかりの岩ノリが海水を含み「ぼたぼた」した状態なので
   「ぼたのり」ともいわれている。生産地であるだけに、多種多様あるようだが、
   珠洲や輪島では、正月の雑煮に香ばしく焼いた岩ノリを入れた「ぼたのり雑煮」を食べるのが習わし
   で、初春を彩る具材として用いられます。
    磯の香りのする「ぼたのり雑煮」を食べてみたい能登の正月です。
   過疎化が進む能登では、半島を離れ、金沢や都市圏で生活する人も多いが、
   暮れから正月にかけて里帰りをし、家族が一堂に会して「郷土料理」を食べ、
   正月を祝う習慣があります。その一家だんらんの日を地震と津波と火事が襲った。


「珠洲の塩使っています」とメモのあるバゲット一本トレーにのせる    平野野里子

    能登の塩づくりは、能登の伝統産業です。昔ながらの製法で「能登塩」には人気があります。
    地方への出店があり、震災地の店があれば必ず被災地の名産を購入する。
    夏東日本大震災時には宮城県・女川市の出店などで少しばかりの援助をしていました。
    「珠洲の塩」を使ってバゲットを作る。それを客が買っていく。小さな支援の輪が広がっていく。

 

(人生を謳う№120)         (2024.07.28記)

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松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 

2024-07-20 06:30:00 | つれづれに……

 ①で紹介した随筆「松のある風景」を再掲します。
 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。
   (随筆に添えられた絵)
   画面左奥に江ノ電の車両が描かれていますが、
   随筆の内容から推しておそらく終点「小町」駅ではなかろうか。

そこで、江ノ電の歴史を調べてみた。
 江ノ電の最初の路線は、1902(明治35)年9月1日に、藤沢ー片瀬(現江の島)間の約3㎞
開業時には、湘南随一の商工都市藤沢を起点に片瀬までの3㎞の区間でした。
この時点で江の島駅はまだ認知されておらず、片瀬駅として表示されています。
 片瀬駅から江の島駅に名称変更があったのは、昭和4(1929)年3月になってからで、
開業から27年の時間を要しました。

 明治43(1910)年、全線開通した時の駅名です。

 図で示したように

開業以来存続している駅もほとんどが移転や改称を経ており、
100年の歴史の中で変化が見られないのは、「鵠沼」「稲村ヶ崎」「極楽寺」「長谷」の4駅に限られます。ちなみに、もっとも知られている駅名の改称は、
昭和4年3月に「片瀬」を「江ノ島」に変更した
ことでしょう。
主眼は観光客の誘致に置かれていました。
こうした中で、「七里ヶ浜」が現在の位置に落ち着くまでに数次の移転を繰り返したほか、
昭和初期には、海水浴客やバンガローの宿泊客の利便を図るために臨時駅「西浜」「七里ヶ浜キャンプ村前」が開設されるなど、
短距離路線ながら駅の変遷には複雑な経過が見られます。
町の発展と共に
 江ノ電の歴史が地方の町から町へ乗客を運ぶ生活路線鉄道から観光鉄道として、
観光客の移動手段としてその目的へ変遷していったことが理解できます。

「小町駅」から「鎌倉駅へ」 
明治43(1910)年には、図で示したように全線が開通されました。
全線が開通され、随筆に書かれた終点「小町駅」は登場しましたが、
現在の駅名に終点の「小町駅」は存在しません。
手掛かりは二つある。
 「町役場前の小町終点」とある。
そこで、現在の地図を検索してみるとあった。
鎌倉駅のそばには、鎌倉市庁舎があり、その近くには「小町商店街」が存在する。
おそらくここが終点「小町」駅で間違いないだろう。

 現在の江ノ電は始発「藤沢」駅から終点「鎌倉」駅まで上図のように、
全線10㎞で時代の流れと共に駅名変更があったり、廃駅になった駅が多くあり、
前述したように全線開通した時に39駅あった駅名は、15駅に淘汰された。

小町駅開業と駅名変更「鎌倉駅」へ
 江ノ電の歴史を見ると、全線開業したのは1910(明治43)年11月4日で、
この時終点「小町駅」が開業しています。
 その5年後、1915(大正4)年には「小町駅」は「鎌倉駅」に改称され、
歴史の時の中に消えていきました。

随筆に書かれた時代はいつ頃
随筆の最後の行には次のような記述があります。

江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

鎌倉町役場前の終点「小町駅」は、
前述のように1910(明治43)からたった5年間の1915(大正4)の短い期間の駅名でした。
 「松のある風景」は、小町終点駅を実際にながめ、
「陰影がたくさんあった時代」がなつかしくなると述べてこの随筆を結んでいます。

 随筆の作者は小町駅が存在したたった5年間のときに、何歳であったのか、
更に時を経て「松のある風景」の随筆を当時のことを懐かしく思い出し、
古き良き時代の鎌倉描いたのは何歳のときだったのか。
 随筆に添えられた墨絵を書いた画家は誰なのか。
 厚紙に印刷された箱、(と言っても私の手元にあるのは手でむしり取ったような一枚の厚紙)は、
 何の箱(?)だったのか。
                                        (つづく)

(つれづれに…№118)  (2024.7.19記)

 

 

 

 

 

 



 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

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松のある風景 ① 随筆に描写された古き鎌倉

2024-07-13 06:30:00 | つれづれに……

松のある風景 ①随筆に描写された古き鎌倉

 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

 一カ月もブログ投稿を休んでしまった。
特に理由があったわけではないが、畑作業がいそがしく、
午前に3~4時間作業をすると、暑さと疲労とでぐったり、
記事を作成する気力がなくなり、本を読んでもすぐに眠くなってしまう。
書きかけ記事の日付は6月14日の日付で止まっている。


 再開しようと気力を奮い立たせて投稿記事をスタートさせる。

本棚を整理していたら、お菓子の箱を引き裂いたようなB5判ぐらいの厚紙がはらりと落ちてきた。
エッセイらしいが、作者名がわからない。
厚紙に書かれたエッセイが、何時、どんな目的で何時頃書かれたのかわからない。

松のある風景と
エッセイの上の欄には松林の風景が描かれている。
道路に沿って植えられている松並木は太い松で、結構長い並木道になっている。
左下には『良』と読めるサインがあるが、この人物がエッセイの作者でもあるのかどうかはわからない。
タイトルは「松のある風景」としている。
橙色の彩色文字で示したものが、エッセイの全文だ。

 エッセイの内容から在りし日の「若宮大路」の風景が
昔日の面影をすっかり失くしてしまった「若宮大路」を懐かしんでいるようだ。
 「若宮大路」は源頼朝が妻政子の安産を願い築いた鶴岡八幡宮の参道で、由比ガ浜から八幡宮まで1.8㌖の参道です。墨絵で示す通りかつての若宮大路には、松並木があったらしい。


 
 「昔から老松が多く」あり、それぞれに「ゆるぎの松、六本松、琴弾松、諏訪の松、弓立松」などの
成り立ちに言われや、伝説を持つ松がたくさんあったらしい。ちなみにネットで調べてみると確かにそのような老松があったようだが、枯死したり、何らかの理由で現代に生き残っているものはないようである。


かなり詳しい松並木の続く往時の風景がつづられた後、
「それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい」と嘆いていることを思えば、かなり古い時代の鎌倉を知っている人が作者であると類推することができる。
 
 更に、町の松林の景観だけでなく、「町の背後を囲う山なみの尾根にも松が目立つ」と、
具体的な松林の風景描写が続き、
「細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、ともすれば足を取られる」
という具体的表現は、古くからこの町に住む住民でなければ書けない風景だ。

 手掛かりはもうひとつある。
エッセイの最後に登場する
「(江ノ電が)若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、『町役場前の小町終点』までごとごとと走っていた頃の、どこかどっしりとした陰影がたくさんあった時代がふとなつかしくなる」

 往時の「松のある風景」は最後に、「町役場前の小町終点」という貴重な時代を象徴する証を残して
見事に幕を下ろす。
 現在の江ノ電の路線図を見ても、小松商店街は現在でも残っているが、
「小町」という江ノ電終点の駅はない。
江ノ電終点の「小町駅」はどこにあったのか。
この駅の存在がわかれば、随筆に描写されたおおよその時代もわかるのではないか。
                                                                                                                           (つづく)
(つれづれに…№117)    (2024.07.12 記)

 

 

 

 

 

 

 

 



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三島由紀夫の言葉 「明日死んでも……」

2024-05-28 06:30:00 | ことばのちから

                

三島由紀夫の言葉
 「明日死んでも……」1968年茨城大討論会

  「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
 1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
 2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
 学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
 暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
  新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
 青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
  文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
 三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
 「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
 三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
  年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。

楯の会設立

茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
 設立目的: 日本の伝統と文化の死守
 活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
  日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
                              (ウィキペディア参照)
 当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
  (eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
 小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
 三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月
25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
 小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……
 最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
                               (朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

 生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。

「世界滅亡」の危機に晒されても、

希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。

いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、

私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。

それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が

この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。

      (ことばのちから№15)                    (2024.05.07記)

 

 

 

 


 


 

 

 

 

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