雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

過ぎ去りし昭和を詠う ①我が街にはたくさんの店があった

2025-03-18 06:30:00 | 人生を謳う

過ぎ去りし昭和を詠う 
      ①我が街にはたくさんの店があった
  
 
映画館、銭湯、駄菓子屋、鶏舎消え虚しき言葉「地方創生」
                               ……朝日歌壇 篠原俊則
          私の棲んでいた田舎町は、
   大きな川が東の端と、西の恥を流れ更に北から南に流れる自然豊かな町だった。
   その町の外れに私が育った町があった。
   小さい街だったが、県道を100㍍ほど行くと国鉄の線路があり、
   この踏切を超えると田んぼが一面に広がる純然たる農村地帯に入る。
   町の外れであり、農村地帯に入る入り口でもあった。
    映画館や銭湯は隣の町まで行かなければなかったが、
   小さな町だったが生活に必要な店は何でもあった。
   魚屋、米屋、乾物屋、酒屋、材木屋、篩(ふるい)屋、材木屋、自転屋、下駄屋、馬車屋、駄
   菓子屋、自転車屋、洋品店、床屋などが軒を並べて小さな共同体を形づくっていた。
    八百屋がなかったのは、隣の農村部から毎日、
   自家栽培した野 菜を引き売りに来る人がいたからだった。
   つまり、新鮮なとれたて野菜が毎日運ばれてきたから、
   店を構える八百屋の必要性がなかったのである。
    自前の鶏小屋を持つ家も珍しくなく、
   家族用の卵や、物々交換の品として利用されていた。
   靴屋がなかったのは、まだ靴が一般に普及するちょっと前の時代だったので、
   下駄屋さんが繁盛していた。
   小さいながら、パチンコ屋もあった。パチンコは最初子供用のゲーム機だった。
   現在のように大人の遊びではなく、景品にアメやお菓子がもらえた。
   それがいつの間にか大人の遊びに替わってしまったことを知っている人は少ない。
    パチンコの歴史を調べてみると昭和11年ごろには、
   正村竹一氏の手によって発明されたようであるが、
   一時期、当局から製造及び使用が禁止され、
   復活したのは昭和21年同氏によって名古屋に一号店が再開され、
   24年には性能アップの型が開発され、爆発的な発展を遂げた。
   私がパチンコを経験したのは学齢期に入った25~26年頃ではなかったかと思う。
    しかし、子どもの遊びでスタートしたという記述を発見することはできなかったので、
   私の町では子供用として発足した特異なケースなのかもしれない。
   朝鮮の人が自宅を店舗に改造し20台ぐらいのパチンコ台が並んでいた。
    私の街にないものは映画館、銭湯、呉服屋、医者ぐらいなものだった。
   これらも歩いて10分ぐらいの町にあったので、生活に不便を感じたことはなかった。
    当時、母は私にここ(私の棲んでいる集落)で買えるものは、ここで買いなさいと言い、
   私は隣の町へ買い物に行くことはほとんどなかった。
   母の教えは「地域共同体の中で生きる」生活の知恵だったのだろう。
       それから、数十年がすぎて、高度経済成長時代を経て、
   地方にも消費社会の波が押し寄せ、大型店舗が我が町にも訪れ、
   地方のコミュニティは徐々に崩壊の道をたどっていった。
    私は、故郷を出て東京の大学に進学した。

  (人生を謳う№27)                  (2025.03.17記)   


   
   

 

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「あゝ岸壁の母」⑤ 番外編

2025-03-08 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」⑤ 番外編

 敗戦時点で海外に在住する日本人は軍人・民間人の総計で660万人以上いたと思われます。
 引揚げた日本人は1946年(昭和21)末までに、500万人が帰国したといわれています。
 しかし、いろいろな事情があって帰国しない選択をした人もいたが、
 その人数や理由については現在も不明です。
 これを『残留日本人』と言います。
 
 
 厚生省によれば、
 1971年末時点での軍人・軍属と法人あわせた引揚者の総数は、
 6,290,702人と言われています。

日本5大引揚港
 引揚港は北の小樽、函館港から、
 南は博多、鹿児島港まで約15港に及びます。

 浦頭港 長崎県佐世保市  引揚者数 139万6468人
 博多港 福岡県福岡市     〃  139万2429人
 舞鶴港 京都府舞鶴市     〃   66万4531人
    浦賀港 神奈川県横須賀市   〃   56万4625人
 仙崎港 山口県長門市     〃   41万3961人
                       合計    443万2014人

最後に引揚者の人数を申し上げて、私の話は終わります。

 厚生労働省のまとめによると、海外から引き揚げた軍人・軍属は310万人、民間人は318万人、合わせて628万人となります。
しかし、いろいろの事情があり、残留日本人の詳細な数や実態については現在も不明である。

終戦までの経緯(まとめ)
 
 ポツダム宣言を受諾した日本は昭和20年(1945)9月2日、降伏文書に調印しました。一般には、この日を第二次世界大戦の正式な終結日とされています。

  1945年7月26日 連合国がポツダム宣言を日本に勧告
      8月  6日 広島原爆投下
                   8月  8日    ソ連対日参戦広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月
         8日、中立条約(1941年4月調印 1945年4月5日失効)を結んでいたソ連
         が、日本に宣戦を布告した。
          日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったく
         の不意打ちに何の対応も取れなかった。
          ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決
         定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることにな
         っていた。 

     8月  9日 長崎原爆投下  
     
 8月10日 午前会議でポツダム宣言を受諾
         ポツダム宣言受諾が遅れた理由は、①陸海軍の受諾反対
                           ②受諾を巡る反論が相次いだ。
                           ③無条件降伏を受諾した場合の天皇
                            の責任扱いについてどのように扱
                                                                                                    われるかわからなかった。
                           等々議論がまとまらないうちに12日が経過し、原爆投下を受け更にその
           二日後には長崎にも原爆投下があり、見計らったようにソ連参戦があ
           り、日本は受諾を余儀なくされてしまった。
      14日 終戦の詔書が閣議決定され、玉音放送のための録音盤が
          作成された。
       15日 玉音放送 鈴木内閣総辞職
          日本はこの日を終戦記念日とした。
       9月  2日   東京湾上の米軍艦ミズーリ―号で連合国と日本軍の降
          伏文書の調印式が行われる。
               
世界的にはこの日を第二次世界大戦の終結日とされています。
ソ連参戦
 
ソ連の参戦が1945年2月に開催された米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密裏に決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。
 どのような経緯があってソ連参戦が認められ、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになったのか、知るよしもないが日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。

 以下、時事ドットコムの『終戦特集~太平洋戦争の歴史』から関連記事を抜粋引用します。 

 ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、
主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。
これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、
大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、
またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。
さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、
日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。
 同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、
ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、
日本軍は約8万人に及んだ。
 停戦後に捕虜となった日本の軍人、
軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、
強制労働を課された。
 厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。

 中国、朝鮮半島南部、東南アジアなどからの引き揚げが比較的順調に進んだのに比べて、ソ連に抑留された軍人や民間人たちの引き揚げは、容易には進展しませんでした。

 引揚事業が終了する13年間を引揚者の世話をし、
「引き揚げの母」と言われた舞鶴市の田端ハナさんの証言。
 「子供を持つ親、夫を待つ妻。当時は男も女も子供も年寄りも一緒だった。ひたすら、帰りを待っていた。いせさんもその一人で、ナホトカから船がつくたびに見えていた」。

 

国の引揚船事業は昭和33年9月引揚が終了。昭和29年9月

 現場には一時、新聞、通信社、放送局など75社、1000人を超える報道陣が押しかけ、
激しい報道合戦を展開したと言われています。

 京都市舞鶴市平引揚桟橋には、終戦直後から引揚事業の終了する13年間に346回の引揚船が入港し655,501人が帰国した。中には引揚船の中で病気や、栄養失調などでなくなる人もいました。また、出産する人もいました。

 
 京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館によると、終戦時大陸に残された日本人の内、
約47万2千人がシベリアの収容所で拘留生活を強いられていました。
 政府は昭和20年10月7日から舞鶴港は政府指定引揚港のひとつとして、
先の大戦において海外に取り残された660万人以上といわれる日本人の生命線としてその使命を果たしてきたそうです。

浦頭検疫所
 上陸した引揚者は、検疫所で問診・検疫を受け荷物や衣類も消毒されました。これは、コレラやチフスなどの伝染病を水際で防ぐためで、多い時は一日で一万九千人も検査された。検疫が済むと、引揚援護局が管理する収容所まで約7キロの山道を歩いた。
 余談になりますが、浦頭資料館の敷地内には、浦頭引き上げを経験された田端義男さんの「かえり舟」の歌碑が設置されています。

「岸壁の母」を昭和50年に大ヒットさせ、いせさんを病院で看取った歌手、二葉百合子は「うわ言で新二さんの名前を呼び続けて亡くなられた。いせさんは死ぬ間際まで新二さんを待っていた」という。
彼等は毎年6月、旧満州や旧ソ連軍によって強制抑留されたロシア・ハバロスク、中国などを訪問し、戦友らの墓探しや消息確認を行っていた。

 660万人の引揚者が日本全土に設けられた引揚港から、祖国日本に帰ってきた。
艱難辛苦を乗り越えて帰ってきた引揚者には、引揚船にたどり着く前に、
貧困、暴行、強姦、略奪、食糧難、伝染病など、
様々な悲惨な体験を乗り越えての帰国であったのだろう。
一人一人の引揚者には、語りつくせぬ悲惨な体験があった。

 岸壁に立つ「端野いせ」と同じように、帰らぬ父や夫や息子を待ち続けた、
多くの「端野いせ」がいたことを忘れてはいけない。
 そしてまた夢にまで見た祖国日本に帰ることができずに、
消えていったたくさんの人々がいたことを、
今も異国の土に眠る人々のいることを私たちは忘れてはいけない。

                               (終り)
               

(語り継ぐ戦争の証言№43)             (2025.03.07)


   

 

 

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「あゝ岸壁の母」④ 戦友の証言

2024-12-19 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」④ 戦友の証言
前回までのあらすじ
岸壁の母のモデルとなった端野いせは、生前2通の死亡通知を受け取った。
 厚生省からの通知(死亡認定理由書) 29年9月付け。
  『昭和20年8月15日未明……(ロシア軍との戦闘で)力尽きて
  「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
   東京都知事からの通知(死亡通知書) 昭和31年付け
  『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
  お知らせします』 
 二通の通知を受け取った端野いせは、それでも新二の死を受け入れず、
昭和56年7月に81歳で亡くなるまで息子の生存を信じていた。
 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 新二は日本に帰ってこなかった。

二人の戦友の証言

滝沢千秋氏の証言。
「端野(はしの)君は左足を負傷し、
半年以上中国人の農家の世話になっていた」。
 滝沢は28年7月に帰国するまで新二と6年以上一緒に仕事をしていた。
新二は朝鮮人の「李(り)」という看護師と恋愛していた、と当時を振り返る。

 もう一人の証言者の國定拳吾氏の証言。
「端野(はしの)君はソ連侵攻の始まった8月14日に後ろ弾(味方の誤認弾)に左足太ももを打たれ、一時陣地を無断で離れた」。

 証言者の話が微妙に食い違っているのも戦後のソ連侵攻の極限状態のなかでは仕方のないことと思われます。

 面談した慰霊墓参団の問に対して、新二は次のように答えている。
「母が舞鶴の岸壁で待っているということは人づてに聞いて知っていたが、
帰るに帰れなかった。
死んだことになっている自分が帰れば、
歌にまでなり有名になっている母のイメージをすべて壊すことになる。
いまさら帰れない」。
木で鼻を括るようなあまりにも味気ない、
感情のこもらない新二の言葉です。

 新二は、帰りを待ちわびる母のことをかなり以前から知っていたに違ないと思われる発言です。
岸壁で息子の名を叫ぶ母の姿をリアルタイムで知っていたのではないか。
新二の生存が明らかになったのは、
端野いせが亡くなった19年後のことだった。
 新二の発言の、
「死んだことになっている自分が帰れば……」という語感の響きから、
新二はかなり早い時期からリアルタイムで母のことを知っていた様子がうかがえます。
 このように推測した時、
誰が待ちわびる母の存在を新二に知らせたのかという疑問が浮かんでくる。
 それは、日本の関係者ではなく、
中国のある機関で動いている人物ではないか。
國定拳吾氏の証言に、
「一時、陣地を無断で離れた」という証言がある。
これは、戦線離脱であり、「脱走」行為とも解釈されかねない。
「一時」とあるが、怒涛のように押し寄せるソ連軍に追われて、
敗走する日本軍から離れて
左足太ももを撃たれた新二が自分の舞台に還ることなど不可能に近い。
 

 負傷による戦線離脱が新二が祖国に帰らなくなった原因のひとつになるのではないか。

 付記 証言者・滝沢千秋のこと(産経新聞取材班調べ)

 昭和20年8月15日、旧満州で行方不明となった新二は戦後、
一時シベリアに抑留され、同年9月10日頃再び旧満州に移送されたという。
 その後、21年9月に中国牡丹江省ジャムスで中国共産党軍の八路軍に従事。当時、朝鮮人と偽って八路軍の軍医をしていた長野県佐久市の滝沢千秋は、
その頃の新二をよく覚えていた。
 「端野君は左足を負傷しており、半年以上中国人農家の世話になっていた。(私は端野君を)レントゲン助手に誘い、(その後)農家の中国人が軍に推薦してくれた」
 滝沢は昭和28年7月に日本に帰国するまで、レントゲン助手の新二と6年以上一緒に仕事をしていた。この間、新二は朝鮮人の《李》という看護婦と恋愛していた。滝沢は「新二君はその後、李さんと結婚したのではないか」という。
  ()内は小島による補足

 証言のなかでは具体性があり、信憑性に富むと思われます。
 以来40年余り、新二がどんな経過をたどって上海市内に暮らすようになったのかはわからない。

 新二の言葉の裏側にある語ることのできない何かを感じるが、それが何なのかはわからない」。

 「帰りたくても帰れない」
未帰還兵端野(はしの)新二と、
舞鶴の引揚船の桟橋に立ち最後まで一人息子の生存を信じて生きた「岸壁の母」端野いせの物語は、
当時の日本の引揚桟橋のどこにでも起きる物語のひとつであった。

                            (つづく)
                                                                     次回は最終回「番外編」

(語り継ぐ戦争の証言№42)          (2024.12.18記)

 

 



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「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

2024-11-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子
前回までのあらすじ
 
〇 岸壁の母・端野いせ 
    いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。
   東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
   体にも負担だったに違いない。
   いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。
    昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、
   幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。
   いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていた
   い。…(略)…待つことのこの辛さ。
   この苦しみから早く逃れたい」と。

 〇 2通の死亡通知 
    昭和29年9月、
   一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。
   『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。
   力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
    昭和31年には死亡通知書が、東京都知事の名で届いた。
   『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
   お知らせします』と。
   しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなるまで、
   新二の生存を信じていた。

③生きていた息子

 (息子の生存を伝える記事)

 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 生存を確認したのは、
シベリア強制抑留経験者らで結成した慰霊墓参団のメンバーだった。

 新二は、妻子とともに中国人名で暮らしていた。
中国政府発行の<端野新二>名の身分証明書を持っていた。
新二の口は終始重く、慰霊墓参団との記念写真も拒んだ。
 慰霊墓参団の代表は、「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る。
 
 2000年(平成12)8月10日付の新聞記事(写真)のリード記事は
 次のように伝えている。
  「岸壁の母」が待ち続けた息子は、中国で生きていた。
  終戦後、引揚船が 着く京都・舞鶴港に通いつめ、
  演歌「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの一人息子、
  新二さん(七五)が上海で生存していたことを日本の慰霊墓参団が
  九日までに確認した。
   帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、
 「死んだことになっている自分が帰れば、
  有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念した新二さん。
  日本中の涙を誘った。
  "岸壁の母伝説"が、
  逆に母子の再開を永遠に引き裂く皮肉な結果になった。
 記事は平凡な記者の思い込みで、「母のイメージ」壊れてしまうという極めて単純な理由で記事を締めくくっている。

 終戦から55年が経ち、
新二の母は19年前の1981年(昭和56)7月に他界している。
帰らぬ息子の生存を信じて亡くなった母・いせのことを思えば、
この記事が報道されたとき新二は75歳になっていた。
母への思いは人一倍強かったに違いない。
母と暮らした日本への望郷の思いがないわけはない。
 「岸壁の母」のイメージを損なうという理由で、
 帰郷をあきらめなければならないという新二の言葉には、
 信憑性がないように思われる。
 
「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る慰霊墓参団の代表の言葉の裏に隠された真実があるのではないか。
                           (つづく)   

(語り継ぐ戦争の証言№41)         (2024.11.20記)

 

 

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「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

2024-11-12 22:55:01 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

前回の要点
  〇 歌謡曲「岸壁の母」 
     息子の帰還を舞鶴港で待ちわびる端野いせがモデル。
    昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子が歌い、
    いずれも大ヒットをした。
    特に後者の歌はセリフ入りで、300枚の大ヒットとなる。
    二葉百合子はモデルとなった端野いせにも何度もあって、
    その臨終にも立ち会った。
    戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待つ母の愛情が、
    戦後27年を経てなお、人々の感情を掻き立てたのでしょう。
  〇 京都府舞鶴港への引揚船  
     終戦直後の昭和20年10月7日、
    朝鮮釜山から陸軍・軍人を乗せた雲仙丸の入港を皮切りに、
    昭和33年9月サハリン(樺太)のホルムスク (真岡)から472人を乗せた白山丸の入港まで、
    13年間続いた。
     
その13年間で、66万2982人の引揚者と1万6269柱の遺骨が京都府舞鶴市平引揚桟橋
    に祖国への第一歩を記した。

  〇 舞鶴港桟橋の由緒書き 
    『幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした桟橋。
    桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。
    そして温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、
    歴史の語り部として(この桟橋を)復元した』
とある。
      〇 岸壁の母のモデルになった【端野いせ】
    
引揚船が舞鶴港に着くたびに、いせは岸壁に立ち、
   帰らぬ息子・新二の名を呼び、桟橋に立ち続けた。

 

歌謡曲岸壁の母二番 (作詞 藤田まさと)
 呼んで下さい おがみます
 ああ おっ母さんよく来たと
 海山千里と言うけれど
 なんで遠かろ なんで遠かろ
 母と子に

  (セリフ)
  「あの子は今頃どうしているでしょう。
  雪と風のシベリアは寒かろう……
  つらかっただろうと命の限り抱きしめて……
  温めてやりたい……。」
                                                               (二葉百合子が歌う絶唱「岸壁の母」)

母の思いは届かなかった
  
(端野いせ)

 針仕事で生活を支えていた端野いせにとって、
住まいの東京から京都の舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
体にも負担だったに違いない。
 それまで、東京大田区に住むいせは復員列車の着く品川駅に日参し、
復員者に新二の消息を尋ねたが、情報は入らない。
 焦燥感に背中を押されるようにして、
いせが舞鶴港に出向いたのは、
昭和25年1月だった。
 「新二は居ませんか。新二、新二」と引揚者の列に声をかけたが、
いせの声は、引揚者と迎えに来た大勢の人の雑踏の中に、
空しく消えていった。 
 昭和29年3月20日、端野(はしの)いせは再び桟橋に立ち涙ながらに「新二を知りませんか」と幾度も我が子の名を呼んだ。
敗戦から9年の時間が流れようとしているのに、
端野いせにはまだ戦争は終わっていなかった。
「新二よ、どこにいるのか。
生きてはおらぬのか。
『母さん』と呼んでもらえないのか」
と母はノートに記す。
「金があったらここに小屋を建てて待っていたい。
いま少し待つのだと自分の心に言い聞かせ、涙を拭いた」
「新二なぜこのように泣かせるのだ。
あきらめようと思うが命をかけて育てた子です。
生きていると信じるのです。
けれど待つことのこの辛さ。
この苦しみから早く逃れたい」。
 ノートに記された無念の言葉だった。

 同年9月。厚生省から新二の死亡認定理由書を受け取る。
《昭和20年8月15日未明、前方約300㍍の地点付近より突然ロ軍の射撃を受けたので、ただちに分散してこれに応戦したが数多いロ軍の一斉攻撃によって戦友は次々と倒れ、本人は最後まで抵抗していたが、ついに力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した》。
理由書に添えられた戦友の証言である。

 また、31年9月には次のような新二の死亡通知書が東京都知事、
安井誠一郎の名でいせに届いた。
《昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたのでお知らせします》
 しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなる最期まで、
新二の生存を信じていた。
                         (つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№40)                (2024.11.11記) 

 

 

 

 

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「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 

2024-11-06 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

(セリフ)
「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……
帰れないなら大きな声で……。」
                                                  (作詞 藤田まさと)

 歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、 
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
 戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。

 終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
 終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。

 平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした
桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
 
 (舞鶴港 平引揚桟橋)                                                       (帰らぬ夫を待つ母と子)
 この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。

 一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
端野(はしの)いせは、戦地から戻らぬ一人息子を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。

(語り継ぐ戦争の証言№39)

 
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『訪問介護』(2)広がる空白地帯

2024-10-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

『訪問介護』(2)広がる空白地帯
   前回(8月18日記事「訪問介護が危ない」)の記事では、
   訪問介護の危機的状況を以下のように書きました。

訪問介護の現実 (前回の記事より引用) 
 在宅の高齢者が、自宅で生活できなくなる危機的状況が、
 地方の過疎化と共に進行しています。
 高齢者の生活を支える訪問介護事業所が休止や廃止に追い込まれ、
 サービスの空白地帯が広がっています。
 厚生労働省が公表した事業所一覧を参照すれば、
 事業所ゼロの自治体は97町村
 事業所が1つしかない自治体は277市町村
 これは訪問介護の危機的状況を示しています。
 大手事業所や都市部の事業所は比較的安定した運営を
 続けることができますが、
 山間部や過疎地などは介護者が点在する家を一軒一軒まわなければならず、
 非効率であり、訪問介護は距離換算方式を認めていないので、
 どんなに離れた過疎化を廻っても介護報酬は同じになり、
 赤字事業になってしまう。
 事業所の撤退などの増加は、人手不足、非効率、など小規模事業所などが、
 撤退や倒産に追い込まれています。
 さらに2024年4月から介護報酬が約2%値下げになっていることも、大きな要因です。
 
「訪問介護事業」が危機的状況になっているということは、
施設や病院等に介護を求めるのではなく、
住み慣れた自宅で老後の生活を送りたいというのは、
介護を必要とする多くの願いです。

訪問介護事業所の減少を数字で見る
             減少の推移(2020年12月末→2024年6月末) 
   訪問介護事業所ゼロの自治体 ……  83町村→97町村  
                残り1事業所の自治体 ……   265市町村→277市町村 
      (全1741市区町村) 危機的状況に陥っている自治体は全体の22%に達しています。
    これだけの情報では
どれだけの事業所が消えていった(廃業)のか分かりません。
    8648事業所。
    
この数字を見ると愕然とします。
    直近の5年間で廃業した訪問介護事業所の数です。

全都道府県に蔓延している介護事業所危機
 今年の6月時点で、訪問介護事業所ゼロの自治体は、97町村。
 廃業や休業の訪問介護事業所が増え、残り1事業所の自治体は277市町村となります。
 これを、47都道府県に当てはめるとどのくらいの自治体が当てはまるのでしょう。
 意外な結果に愕然となります。
 なんと事業所ゼロ及び1事業所しか残っていないをかかえる自治体は、47都道府県中静岡県を
 除く、46都道府県に蔓延しています。
 
北海道中頓別(なかとんべつ)町の例
 町保健福祉課によればによれば、「民間では耐えられない額の赤字だ。町が事業を救うしかなかった」と言う。
 
同町は23年4月、町内の社会福祉法人から訪問介護とデイサービスの2事業を引き受けて「町営化」しなければ、この町の訪問介護事業所はゼロになってしまうからだ。
 「23年度は2事業あわせて3480万円の赤字で、これを町の一般会計から出した。国の交付金などはなく、町の持ち出しだ」と、苦しい胸の内を明かす。

 要介護状態になっても住み慣れた地域で暮らせるように、
「地域包括ケアシステム」を推進し、医療、介護、生活支援する介護事業所を積極的に取り入れてきました。
 だが、今その活動の中心を担う訪問介護が地方で成り立たず、
「地域包括システム」が崩壊しつつあります。

介護報酬の具体的な単位数

 2024年1月23日、4月に介護報酬の具体的な単位数が発表になりました。
これによると報酬全体では1.59%のプラスとなり、業界には明るい見通しが立ちました。
しかし、実際には介護報酬全体では1.59%プラスになったが、
訪問介護の基本報酬が引き下げられました。
 介護の最前線で活躍する訪問介護の報酬が引き下げられてしまいました。

訪問介護の報酬を新旧比較
 身体介護(20分未満)      167単位➡163単位
 生活援助(20分以上45分未満)  183単位➡179単位
 通院等乗降介助          99単位➡97単位
   新報酬は約2%強の引き下げになっています。
   訪問介護は、引き下げ率は2%強で引き下げ率は低いが、事業所数、
   そこで働くスタッフの数は圧倒的に多く、
   地方の訪問介護事業所は経営そのものを圧迫しかねない状況が出現した原因になります。
    また、在宅介護を支える定期巡回随時対応型訪問介護看護(約4.5%引き下げ)、
   夜間対応型訪問介護(約3.5%引き下げ)があります。

 危機的状況にある上位5道県
  (訪問介護事業所がゼロ及び1事業所しか残っていな地域をかかえる自治体)
      北海道 179市町村中 事業所ゼロの自治体12 事業所1の自治体70 全自治体の46%
   長野県      77 〃       〃                9                 〃    25       〃     44%
   福島県      59    〃                        〃                 8                〃             21       〃           49%
   山形県   35    〃                        〃                 4                〃              12      〃            46% 
   高知県      34    〃                        〃                 5                〃              11      〃            47%  

     静岡県    35市町中      〃      0                〃                0         該当なし

    
     本日は国政を担う衆議院選挙です。
     314人の女性が立候補し、過去最多。
     過半数(233議席)を自民党と公明党で維持できるのか。
     野党はここぞとばかりに、「裏金問題」をはやし立て自民党を追い立てる
     材料としているようですが、大衆的な争点だけでは国政は維持できません。
     政治倫理として「裏金問題」は大衆にわかりやすく説明できる争点ではあるが、
     国政の大きな柱は、「経済政策」や「医療・福祉」「介護福祉」の政策であり、
     「外交問題」も外すことのできない大切な施策の柱です。

     政治的無関心は、国を滅ぼします。
     一票一票の積み重ねが国の力を大きく動かす原動力になる事を
     私たちは忘れてはならない。
     政治的無関心の裏に潜む、自己責任の放棄を容認してはいけない。

     今日は投票所に行こう。

     訪問介護の危機を脱却できる政策立案のできる政党を
     私は選びます。

(昨日の風 今日の風№143)

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パンダが帰った

2024-10-05 08:23:14 | 昨日の風 今日の風

パンダが帰った
リリーとシンシンが生まれた国に帰っていった
長い間立ち尽くしても見られるのはほんの数分だけだ。
早い人は、前日の夜から並んだ人も少なくない。上野動物園には開園前から長蛇の列ができていた。この時日本に来たのはリリーとシンシンだった。2011年のことだった。来てすぐに東日本大震災があった。2017年にはシャンシャンが生まれたが、2023に生まれ故郷に返還された。2021年には双子のシャオシャォとレイレイが生まれた。パンダの人気はまた過熱した。「コロコロとしたぬいぐるみのようなわんぱく、おてんばをあやす姿には、眼を細くさせられた」と朝日新聞・天声人語氏は当時を懐かしむ。
そのリリーとシンシンが中国へ帰っていった。19歳という高齢になり健康を考慮しての故郷帰り(返還)だった。
別れを惜しむ人たちが、
空港に押し寄せ、2頭の乗った飛行機を見送り、別れを惜しみ涙する人もいた。13年間の家族の小さな歴史を思い、手を振り望遠レンズで離陸するパンダの乗った飛行機を連射する人の姿もあった。

ドキュメント 「リリー」と「シンシン」
 29日早朝4時、上野動物園を出発した2頭は、8時ごろ成田空港を離陸し、日本時間12時40分ごろ成都双流国際航空に到着。上野動物園から飼育係や獣医師がリーリーとシンシンとともに中国に渡り
日本時間18時00分、リーリーとシンシンは四川省雅安市にある中国ジャイアントパンダ保護研究センターに無事到着し、検疫施設に入りました。2頭は落ち着いているとのことです。
                     (上野動物園ホームページより要点)

最初のパンダ 「ランラン」と「カンカン」
最初にパンダが来たのは1972年、今から52前だった。
 当時の首相である田中角栄が周恩来首相と日中共同声明を交わした奇しくもその52年前の9月29日、リリーとシンシンは生まれた国へ帰っていった。
1972年9月29日、北京を訪問した田中角栄首相(当時)は、日中共同声明に調印。中華人民共和国との間に国交正常化を実現させた。(それまで、中国は台湾寄りの佐藤栄作政権を軍国主義と猛烈に批判していた)
田中角栄は、首相就任わずか85日で日中国交回復という偉業をなし
遂げた。
 (田中角栄と周恩来)

パンダのレンタル料金
 この日中国交正常化を記念して中国から贈られてきたのが「ランラン」と「カンカン」だった。この2頭のパンダは無償提供だったが、以後のパンダはレンタル料金がかかっている。
年間レンタル料は2頭で95万ドル(約1億円)になり、この費用は東京都が支払っている。

日中国交回復声明文に託された未来
 「両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である」と声明で謳いあげ、日中間に明るい光がさしかかる未来への希望であった。
 だが最近の日中関係はぎくしゃくして、友好関係から徐々に遠ざかっていく様子が気になります。
パンダ外交が、見せかけだけの外交に終わらないことを祈りつつ母国に帰ったパンダの健康を祈ります。

(昨日の風 今日の風№142)  (2024.10.3記)

 

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訪問介護が危ない

2024-08-18 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

訪問介護が危ない
 公的介護保険について
 
介護が必要な高齢者が少ない自己負担で介護サービスを得けられるよう、
 社会全体で高齢者の介護を支える制度のこと。
 40歳から加入が義務づけられ、その支払いは一生涯続きます。
 65人を歳以上の人を「第一号被保険者」、
 40歳~64歳の人を「2号被保険者」と区分しています。

介護保険の徴収方法と保険料
 「2号被保険者」の場合、会社員の場合は健康保険料と併せて給与から介護
 保険料を天引き、国民健康保険加入者は保険料と併せて徴収される。
 「1号被保険者」の場合 年金から天引きされる。
 保険料は「1号被保険者」の場合13段階の収入に応じて異なるが、
 平均保険料は年額74,115円になります。
 これだけの保険料を私たちは収入から生涯にわたって払い続けます。

訪問介護について
 上記のように介護保険制度のサービスは、
    国民からの介護保険料や公費を財源として、
 在宅介護の必要な人たちの生活を支えることになり、
 訪問介護は在宅介護に欠かせないサービスのひとつになります。


訪問介護の3つのサービス

生活援助 調理や洗濯、掃除などの家事援助
身体介護 要介護者の身体に直接触れて行う入浴や排泄、食事、更衣などの介助
通院等乗降介助 通院等を目的とした車両への乗車・降車の介助、移動介助、受診の手続きなど

以上のサービスがあり、それぞれのサービスにはヘルパーさんなどができることとできないことがあり、規定外のサービスはできません。
それぞれのサービスに細かいサービスの規定がありますが、
それを述べることは、この記事の本意ではないので割愛します。

ここからが本題です。

訪問介護の現実 
 在宅の高齢者が、自宅で生活できなくなる危機的状況が、
 地方の過疎化と共に進行しています。

 高齢者の生活を支える訪問介護事業所が休止や廃止に追い込まれ、
 サービスの空白地帯が広がっています。
 厚生労働省が公表した事業所一覧を参照すれば、

 事業所ゼロの自治体は97町村
 事業所が1つしかない自治体は277市町村
 これは訪問介護の危機的状況を示しています。
 大手事業所や都市部の事業所は比較的安定した運営を
 続けることができますが、
 山間部や過疎地などは介護者が点在する家を一軒一軒まわなければならず、
 非効率であり、訪問介護は距離換算方式を認めていないので、
 どんなに離れた過疎化を廻っても介護報酬は同じになり、
 赤字事業になってしまう。
 事業所の撤退などの増加は、人手不足、非効率、など小規模事業所などが、
 撤退や倒産に追い込まれています。
 さらに2024年4月から介護報酬が約2%値下げになっていることも、
 大きな要因です。

 要介護状態になっても住み慣れた地域で暮らせるように国は
 「地域包括ケアシステム」政策の一環として介護や医療、
  生活支援をバックアップしてきました。
 しかし、その中心を担う訪問介護が地方で成り立たず、
 システムが崩壊しつつあると専門家は告発しています。

村で唯一の訪問介護事業所が3年前から営業中止
 山形県○○村で、高齢者約1千二百人の暮らす村。
 雪深い村内の一部地域では冬になると隣接自治体の事業所も入れず、
 訪問介護の提供ができない。

高齢者7千人に事業所ゼロ
 茨城県○○町は高齢者人口7千人に対して訪問介護事業所がゼロです。
 全国平均はおおむね高齢者1千人に対して1事業所ですから、
 圧倒的に不足しいます。

長時間移動でも報酬増えず事業所が廃止に
 北海道○○町 昨年3月、たった一つあった訪問介護事業所が廃止した。
 この町は高齢者人口が3400人弱ですから、3事業所が必要なのですが、
 たった一つあった事業所が廃止してしまいました。
 訪問の移動時間が長く1日に何軒も回れず、
 どれだけ移動に時間がかかっても報酬は同じです。
 厚生労働省は介護職の待遇改善として、
 報酬の加算を増やしてきたと言いますが、
 単に報酬の加算だけでは解決できません。
 職場環境の改善や報酬の加算は抜本的な改善でしかない。
 大切な「やりがい感」があるかどうかが、
 キーポイントになるのではないだろうか。

参考資料: しんぶん赤旗日曜版(8/18号)
      厚生労働省 訪問介護資料
訪問介護に関するWEBニュース
 (昨日の風 今日の風№141)          (2024.08.17記)

 

コメント (2)
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能登半島災害を謳う (2)

2024-07-29 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う (2)
   能登半島地震災害から7カ月が経とうとしている。
    新聞やテレビなどのニュースの能登関連記事も最近では見られなくなってしまった。
   パリオリンピックや大谷選手のニュースが毎日のように報道され、
   復旧半ばの被災地の人々はままにならない生活環境の不便さを続けながら、
   ときには、取り残されていく淋しさにくじけそうになる時がある。
   人口流出は能登半島地域の震災以前からの課題だったが、
   震災がそれに拍車をかけ、多くの業種が人手不足に苦しんでいる。
   人口流出と経済復興の停滞する中で、地元の建設会社のK氏は
   「復旧工事は10年以上続くだろう。全く先が見通せない」と将来の不安を述べる。

   以下の歌は、能登地震から2~3カ月過ぎた頃の歌で、朝日歌壇、俳壇に掲載された歌である。
   震災の記憶が時間の経過とともに薄れていく現在、
   震災被害のなまなましい風景がよみがえってくる。
 

  「はがやしい」朝市あつた焼け跡に両手を合はすひとりの女性   大熊佳世子

    「はがやしい」とは、石川県金沢あたりの方言で、「思い通りにいかない心のありよう」を
    表現する。ここでは「誰にもわかってもらえない悔しい思い」という意味を含んでいる。
    標準語では表現することが難しい、その土地で培われた素晴らしい言葉。
     被災5カ月を経てやっと6月4日に公費解体が始まった。
    公費解体には、建物の所有権を持つ全員の同意が必要で、復旧の遅れの原因になっていた。
    
そこで、法務省は5月末、輪島朝市の264棟が建物としての価値がなくなったとして、
    「減失登記」をして、建物の解体を進めやすいようにした。
    しかし、崩壊建物の中に放置された物品の破壊や撤去には、物品の所有者の同意が必要になり、
    その同意も得られたとして解体に着手した。
    
     「はがしい」と輪島朝市の焼失した現場に立ち、両手を合わせる女性の姿が目に浮かぶ。

    

 

  珠洲原発を造らせなかった闘いは正しかったといま胸を刺す     十亀弘史

   珠洲原発は1975年に計画された。その計画は住民の反対運動と、
   それを切り崩す電力会社との28年に及ぶ闘争になった。原発設置は珠洲の高屋地区だったが、
   当初住民のほとんどが反対していた。
   関電側の住民の切り崩し運動はえげつない懐柔策だった。
   「原発視察名目の視察旅行」、「芸能人のコンサート」など、
   いずれも無料の大盤振る舞いだったという。
   数え上げたらきりのない寄付ゃ接待というカネの力に、
   一人二人と反対派の住民が切り崩され、地域は分断されて行った。
   説明会はいいことずくめの話で、住民の心を揺さぶり続けた28年間であったという。
   激しい原発反対運動に電力会社は2003年12月計画凍結を発表し、計画は頓挫した。

    今回の能登半島地震で、珠洲原発予定地の高屋地区の海岸線は数メートルも隆起した。
   「もし、あの時珠洲原発が高屋地域に建設されていたら」と隆起した海岸線を眺めながら、
   当時を振り返る。
   

臓物のはみ出すごとく家具吐きし家屋の呻くこゑする通り      北野みや子

    慣れ親しんだ住まいが倒壊し、雨ざらしになっている思い出のある品々が散乱している。
    色あせ、汚れ破壊された大切な品々が、倒壊現場の哀しさがこみ上げ、
    家屋の呻き声が生き物の叫びのように聞こえてくる。臨場感に溢れた被災者の叫びだ。

 

無事だった船四隻で水揚げす甚大被害の蛸島漁港      瀧上裕幸

  一体何隻の船が被害に遭ったのかニュースからはわからない。漁港岸壁には隆起や地割れがあり、
 被害に遭わなかった船は片手にも足りない。漁師にとっては手足を奪われたような甚大な被災だ。
 海に生きる漁師たちは、代々船を受け継ぎ家業として続ける人が多い。

 東日本大震災で被害を受けた漁師の言葉を思い出す。
 愛する者を津波に奪われ、船も無くなった。だが「俺は海を恨まない」。
 代々海で暮らしを立ててきた漁師の意地が、
 くじけそうになる自分を鼓舞するようにつぶやいた言葉が耳に残っている。

 1月21日深夜定置網漁が再開された。自宅も事務所も漁港も損壊したが、
 残った船を操業し、年末に仕掛けた定置網漁を再開した。水揚げは寒ブリ約600匹。
 タイ、フクラギなど15トンを揚げた。(参考:北国新聞)
                              蛸島漁港=石川県輪島市にある漁港。

海が好き漁はやめぬと若者の見つめる先に隆起せし浜    阿久津利江
  
漁師の仕事は過酷な仕事だ。親から子へと家業として受け継ぐ人が多い。
  海にどんな仕打ちを受けようと、海は母の懐のように優しい。
  浜が隆起しようが、地割れしようが海への希望と感謝を忘れない。
  その心意気が上の瀧上さん歌にも通じるものがある。


 能登の
地震(ナイ)海苔(のり)(か)く岩場隆起して     内田幸子
   能登の岩のリは、長い海岸線を持つ能登半島の外浦が産地として知られている。
   毎年12月から3月にかけて、自然が育てた海の幸である岩ノリ採りが行われる。
   能登では収穫したばかりの収穫したばかりの岩ノリが海水を含み「ぼたぼた」した状態なので
   「ぼたのり」ともいわれている。生産地であるだけに、多種多様あるようだが、
   珠洲や輪島では、正月の雑煮に香ばしく焼いた岩ノリを入れた「ぼたのり雑煮」を食べるのが習わし
   で、初春を彩る具材として用いられます。
    磯の香りのする「ぼたのり雑煮」を食べてみたい能登の正月です。
   過疎化が進む能登では、半島を離れ、金沢や都市圏で生活する人も多いが、
   暮れから正月にかけて里帰りをし、家族が一堂に会して「郷土料理」を食べ、
   正月を祝う習慣があります。その一家だんらんの日を地震と津波と火事が襲った。


「珠洲の塩使っています」とメモのあるバゲット一本トレーにのせる    平野野里子

    能登の塩づくりは、能登の伝統産業です。昔ながらの製法で「能登塩」には人気があります。
    地方への出店があり、震災地の店があれば必ず被災地の名産を購入する。
    夏東日本大震災時には宮城県・女川市の出店などで少しばかりの援助をしていました。
    「珠洲の塩」を使ってバゲットを作る。それを客が買っていく。小さな支援の輪が広がっていく。

 

(人生を謳う№120)         (2024.07.28記)

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