「あゝ岸壁の母」③生きていた息子
前回までのあらすじ
〇 岸壁の母・端野いせ
いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。
東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
体にも負担だったに違いない。
いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。
昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、
幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。
いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていた
い。…(略)…待つことのこの辛さ。
この苦しみから早く逃れたい」と。
〇 2通の死亡通知
昭和29年9月、
一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。
『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。
力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
昭和31年には死亡通知書が、東京都知事の名で届いた。
『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
お知らせします』と。
しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなるまで、
新二の生存を信じていた。
③生きていた息子
(息子の生存を伝える記事)
新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
生存を確認したのは、
シベリア強制抑留経験者らで結成した慰霊墓参団のメンバーだった。
新二は、妻子とともに中国人名で暮らしていた。
中国政府発行の<端野新二>名の身分証明書を持っていた。
新二の口は終始重く、慰霊墓参団との記念写真も拒んだ。
慰霊墓参団の代表は、「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る。
2000年(平成12)8月10日付の新聞記事(写真)のリード記事は
次のように伝えている。
「岸壁の母」が待ち続けた息子は、中国で生きていた。
終戦後、引揚船が 着く京都・舞鶴港に通いつめ、
演歌「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの一人息子、
新二さん(七五)が上海で生存していたことを日本の慰霊墓参団が
九日までに確認した。
帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、
「死んだことになっている自分が帰れば、
有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念した新二さん。
日本中の涙を誘った。
"岸壁の母伝説"が、
逆に母子の再開を永遠に引き裂く皮肉な結果になった。
記事は平凡な記者の思い込みで、「母のイメージ」壊れてしまうという極めて単純な理由で記事を締めくくっている。
終戦から55年が経ち、
新二の母は19年前の1981年(昭和56)7月に他界している。
帰らぬ息子の生存を信じて亡くなった母・いせのことを思えば、
この記事が報道されたとき新二は75歳になっていた。
母への思いは人一倍強かったに違いない。
母と暮らした日本への望郷の思いがないわけはない。
「岸壁の母」のイメージを損なうという理由で、
帰郷をあきらめなければならないという新二の言葉には、
信憑性がないように思われる。
「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る慰霊墓参団の代表の言葉の裏に隠された真実があるのではないか。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№41) (2024.11.20記)