雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

能登半島災害を謳う (2)

2024-07-29 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う (2)
   能登半島地震災害から7カ月が経とうとしている。
    新聞やテレビなどのニュースの能登関連記事も最近では見られなくなってしまった。
   パリオリンピックや大谷選手のニュースが毎日のように報道され、
   復旧半ばの被災地の人々はままにならない生活環境の不便さを続けながら、
   ときには、取り残されていく淋しさにくじけそうになる時がある。
   人口流出は能登半島地域の震災以前からの課題だったが、
   震災がそれに拍車をかけ、多くの業種が人手不足に苦しんでいる。
   人口流出と経済復興の停滞する中で、地元の建設会社のK氏は
   「復旧工事は10年以上続くだろう。全く先が見通せない」と将来の不安を述べる。

   以下の歌は、能登地震から2~3カ月過ぎた頃の歌で、朝日歌壇、俳壇に掲載された歌である。
   震災の記憶が時間の経過とともに薄れていく現在、
   震災被害のなまなましい風景がよみがえってくる。
 

  「はがやしい」朝市あつた焼け跡に両手を合はすひとりの女性   大熊佳世子

    「はがやしい」とは、石川県金沢あたりの方言で、「思い通りにいかない心のありよう」を
    表現する。ここでは「誰にもわかってもらえない悔しい思い」という意味を含んでいる。
    標準語では表現することが難しい、その土地で培われた素晴らしい言葉。
     被災5カ月を経てやっと6月4日に公費解体が始まった。
    公費解体には、建物の所有権を持つ全員の同意が必要で、復旧の遅れの原因になっていた。
    
そこで、法務省は5月末、輪島朝市の264棟が建物としての価値がなくなったとして、
    「減失登記」をして、建物の解体を進めやすいようにした。
    しかし、崩壊建物の中に放置された物品の破壊や撤去には、物品の所有者の同意が必要になり、
    その同意も得られたとして解体に着手した。
    
     「はがしい」と輪島朝市の焼失した現場に立ち、両手を合わせる女性の姿が目に浮かぶ。

    

 

  珠洲原発を造らせなかった闘いは正しかったといま胸を刺す     十亀弘史

   珠洲原発は1975年に計画された。その計画は住民の反対運動と、
   それを切り崩す電力会社との28年に及ぶ闘争になった。原発設置は珠洲の高屋地区だったが、
   当初住民のほとんどが反対していた。
   関電側の住民の切り崩し運動はえげつない懐柔策だった。
   「原発視察名目の視察旅行」、「芸能人のコンサート」など、
   いずれも無料の大盤振る舞いだったという。
   数え上げたらきりのない寄付ゃ接待というカネの力に、
   一人二人と反対派の住民が切り崩され、地域は分断されて行った。
   説明会はいいことずくめの話で、住民の心を揺さぶり続けた28年間であったという。
   激しい原発反対運動に電力会社は2003年12月計画凍結を発表し、計画は頓挫した。

    今回の能登半島地震で、珠洲原発予定地の高屋地区の海岸線は数メートルも隆起した。
   「もし、あの時珠洲原発が高屋地域に建設されていたら」と隆起した海岸線を眺めながら、
   当時を振り返る。
   

臓物のはみ出すごとく家具吐きし家屋の呻くこゑする通り      北野みや子

    慣れ親しんだ住まいが倒壊し、雨ざらしになっている思い出のある品々が散乱している。
    色あせ、汚れ破壊された大切な品々が、倒壊現場の哀しさがこみ上げ、
    家屋の呻き声が生き物の叫びのように聞こえてくる。臨場感に溢れた被災者の叫びだ。

 

無事だった船四隻で水揚げす甚大被害の蛸島漁港      瀧上裕幸

  一体何隻の船が被害に遭ったのかニュースからはわからない。漁港岸壁には隆起や地割れがあり、
 被害に遭わなかった船は片手にも足りない。漁師にとっては手足を奪われたような甚大な被災だ。
 海に生きる漁師たちは、代々船を受け継ぎ家業として続ける人が多い。

 東日本大震災で被害を受けた漁師の言葉を思い出す。
 愛する者を津波に奪われ、船も無くなった。だが「俺は海を恨まない」。
 代々海で暮らしを立ててきた漁師の意地が、
 くじけそうになる自分を鼓舞するようにつぶやいた言葉が耳に残っている。

 1月21日深夜定置網漁が再開された。自宅も事務所も漁港も損壊したが、
 残った船を操業し、年末に仕掛けた定置網漁を再開した。水揚げは寒ブリ約600匹。
 タイ、フクラギなど15トンを揚げた。(参考:北国新聞)
                              蛸島漁港=石川県輪島市にある漁港。

海が好き漁はやめぬと若者の見つめる先に隆起せし浜    阿久津利江
  
漁師の仕事は過酷な仕事だ。親から子へと家業として受け継ぐ人が多い。
  海にどんな仕打ちを受けようと、海は母の懐のように優しい。
  浜が隆起しようが、地割れしようが海への希望と感謝を忘れない。
  その心意気が上の瀧上さん歌にも通じるものがある。


 能登の
地震(ナイ)海苔(のり)(か)く岩場隆起して     内田幸子
   能登の岩のリは、長い海岸線を持つ能登半島の外浦が産地として知られている。
   毎年12月から3月にかけて、自然が育てた海の幸である岩ノリ採りが行われる。
   能登では収穫したばかりの収穫したばかりの岩ノリが海水を含み「ぼたぼた」した状態なので
   「ぼたのり」ともいわれている。生産地であるだけに、多種多様あるようだが、
   珠洲や輪島では、正月の雑煮に香ばしく焼いた岩ノリを入れた「ぼたのり雑煮」を食べるのが習わし
   で、初春を彩る具材として用いられます。
    磯の香りのする「ぼたのり雑煮」を食べてみたい能登の正月です。
   過疎化が進む能登では、半島を離れ、金沢や都市圏で生活する人も多いが、
   暮れから正月にかけて里帰りをし、家族が一堂に会して「郷土料理」を食べ、
   正月を祝う習慣があります。その一家だんらんの日を地震と津波と火事が襲った。


「珠洲の塩使っています」とメモのあるバゲット一本トレーにのせる    平野野里子

    能登の塩づくりは、能登の伝統産業です。昔ながらの製法で「能登塩」には人気があります。
    地方への出店があり、震災地の店があれば必ず被災地の名産を購入する。
    夏東日本大震災時には宮城県・女川市の出店などで少しばかりの援助をしていました。
    「珠洲の塩」を使ってバゲットを作る。それを客が買っていく。小さな支援の輪が広がっていく。

 

(人生を謳う№120)         (2024.07.28記)

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松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 

2024-07-20 06:30:00 | つれづれに……

 ①で紹介した随筆「松のある風景」を再掲します。
 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。
   (随筆に添えられた絵)
   画面左奥に江ノ電の車両が描かれていますが、
   随筆の内容から推しておそらく終点「小町」駅ではなかろうか。

そこで、江ノ電の歴史を調べてみた。
 江ノ電の最初の路線は、1902(明治35)年9月1日に、藤沢ー片瀬(現江の島)間の約3㎞
開業時には、湘南随一の商工都市藤沢を起点に片瀬までの3㎞の区間でした。
この時点で江の島駅はまだ認知されておらず、片瀬駅として表示されています。
 片瀬駅から江の島駅に名称変更があったのは、昭和4(1929)年3月になってからで、
開業から27年の時間を要しました。

 明治43(1910)年、全線開通した時の駅名です。

 図で示したように

開業以来存続している駅もほとんどが移転や改称を経ており、
100年の歴史の中で変化が見られないのは、「鵠沼」「稲村ヶ崎」「極楽寺」「長谷」の4駅に限られます。ちなみに、もっとも知られている駅名の改称は、
昭和4年3月に「片瀬」を「江ノ島」に変更した
ことでしょう。
主眼は観光客の誘致に置かれていました。
こうした中で、「七里ヶ浜」が現在の位置に落ち着くまでに数次の移転を繰り返したほか、
昭和初期には、海水浴客やバンガローの宿泊客の利便を図るために臨時駅「西浜」「七里ヶ浜キャンプ村前」が開設されるなど、
短距離路線ながら駅の変遷には複雑な経過が見られます。
町の発展と共に
 江ノ電の歴史が地方の町から町へ乗客を運ぶ生活路線鉄道から観光鉄道として、
観光客の移動手段としてその目的へ変遷していったことが理解できます。

「小町駅」から「鎌倉駅へ」 
明治43(1910)年には、図で示したように全線が開通されました。
全線が開通され、随筆に書かれた終点「小町駅」は登場しましたが、
現在の駅名に終点の「小町駅」は存在しません。
手掛かりは二つある。
 「町役場前の小町終点」とある。
そこで、現在の地図を検索してみるとあった。
鎌倉駅のそばには、鎌倉市庁舎があり、その近くには「小町商店街」が存在する。
おそらくここが終点「小町」駅で間違いないだろう。

 現在の江ノ電は始発「藤沢」駅から終点「鎌倉」駅まで上図のように、
全線10㎞で時代の流れと共に駅名変更があったり、廃駅になった駅が多くあり、
前述したように全線開通した時に39駅あった駅名は、15駅に淘汰された。

小町駅開業と駅名変更「鎌倉駅」へ
 江ノ電の歴史を見ると、全線開業したのは1910(明治43)年11月4日で、
この時終点「小町駅」が開業しています。
 その5年後、1915(大正4)年には「小町駅」は「鎌倉駅」に改称され、
歴史の時の中に消えていきました。

随筆に書かれた時代はいつ頃
随筆の最後の行には次のような記述があります。

江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

鎌倉町役場前の終点「小町駅」は、
前述のように1910(明治43)からたった5年間の1915(大正4)の短い期間の駅名でした。
 「松のある風景」は、小町終点駅を実際にながめ、
「陰影がたくさんあった時代」がなつかしくなると述べてこの随筆を結んでいます。

 随筆の作者は小町駅が存在したたった5年間のときに、何歳であったのか、
更に時を経て「松のある風景」の随筆を当時のことを懐かしく思い出し、
古き良き時代の鎌倉描いたのは何歳のときだったのか。
 随筆に添えられた墨絵を書いた画家は誰なのか。
 厚紙に印刷された箱、(と言っても私の手元にあるのは手でむしり取ったような一枚の厚紙)は、
 何の箱(?)だったのか。
                                        (つづく)

(つれづれに…№118)  (2024.7.19記)

 

 

 

 

 

 



 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

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松のある風景 ① 随筆に描写された古き鎌倉

2024-07-13 06:30:00 | つれづれに……

松のある風景 ①随筆に描写された古き鎌倉

 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

 一カ月もブログ投稿を休んでしまった。
特に理由があったわけではないが、畑作業がいそがしく、
午前に3~4時間作業をすると、暑さと疲労とでぐったり、
記事を作成する気力がなくなり、本を読んでもすぐに眠くなってしまう。
書きかけ記事の日付は6月14日の日付で止まっている。


 再開しようと気力を奮い立たせて投稿記事をスタートさせる。

本棚を整理していたら、お菓子の箱を引き裂いたようなB5判ぐらいの厚紙がはらりと落ちてきた。
エッセイらしいが、作者名がわからない。
厚紙に書かれたエッセイが、何時、どんな目的で何時頃書かれたのかわからない。

松のある風景と
エッセイの上の欄には松林の風景が描かれている。
道路に沿って植えられている松並木は太い松で、結構長い並木道になっている。
左下には『良』と読めるサインがあるが、この人物がエッセイの作者でもあるのかどうかはわからない。
タイトルは「松のある風景」としている。
橙色の彩色文字で示したものが、エッセイの全文だ。

 エッセイの内容から在りし日の「若宮大路」の風景が
昔日の面影をすっかり失くしてしまった「若宮大路」を懐かしんでいるようだ。
 「若宮大路」は源頼朝が妻政子の安産を願い築いた鶴岡八幡宮の参道で、由比ガ浜から八幡宮まで1.8㌖の参道です。墨絵で示す通りかつての若宮大路には、松並木があったらしい。


 
 「昔から老松が多く」あり、それぞれに「ゆるぎの松、六本松、琴弾松、諏訪の松、弓立松」などの
成り立ちに言われや、伝説を持つ松がたくさんあったらしい。ちなみにネットで調べてみると確かにそのような老松があったようだが、枯死したり、何らかの理由で現代に生き残っているものはないようである。


かなり詳しい松並木の続く往時の風景がつづられた後、
「それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい」と嘆いていることを思えば、かなり古い時代の鎌倉を知っている人が作者であると類推することができる。
 
 更に、町の松林の景観だけでなく、「町の背後を囲う山なみの尾根にも松が目立つ」と、
具体的な松林の風景描写が続き、
「細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、ともすれば足を取られる」
という具体的表現は、古くからこの町に住む住民でなければ書けない風景だ。

 手掛かりはもうひとつある。
エッセイの最後に登場する
「(江ノ電が)若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、『町役場前の小町終点』までごとごとと走っていた頃の、どこかどっしりとした陰影がたくさんあった時代がふとなつかしくなる」

 往時の「松のある風景」は最後に、「町役場前の小町終点」という貴重な時代を象徴する証を残して
見事に幕を下ろす。
 現在の江ノ電の路線図を見ても、小松商店街は現在でも残っているが、
「小町」という江ノ電終点の駅はない。
江ノ電終点の「小町駅」はどこにあったのか。
この駅の存在がわかれば、随筆に描写されたおおよその時代もわかるのではないか。
                                                                                                                           (つづく)
(つれづれに…№117)    (2024.07.12 記)

 

 

 

 

 

 

 

 



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三島由紀夫の言葉 「明日死んでも……」

2024-05-28 06:30:00 | ことばのちから

                

三島由紀夫の言葉
 「明日死んでも……」1968年茨城大討論会

  「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
 1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
 2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
 学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
 暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
  新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
 青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
  文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
 三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
 「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
 三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
  年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。

楯の会設立

茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
 設立目的: 日本の伝統と文化の死守
 活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
  日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
                              (ウィキペディア参照)
 当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
  (eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
 小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
 三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月
25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
 小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……
 最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
                               (朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

 生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。

「世界滅亡」の危機に晒されても、

希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。

いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、

私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。

それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が

この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。

      (ことばのちから№15)                    (2024.05.07記)

 

 

 

 


 


 

 

 

 

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駅弁

2024-05-20 06:30:00 | つれづれに……

駅弁立ち売り
 なんとも懐かしい「駅弁立ち売り」の写真である。
 かつては、旅の風物詩として旅情を誘う風景であった。
 「ベントーベントー」と大きな売り声で、
 ホームに入った列車が停車している間の短い時間のうちに弁当を売り歩く「弁当屋さん」と
 それを買う客との間のやり取りが私は好きだった。
 発車の合図のベルがホームに流れ、「ゴトン」と汽車がゆっくり大きな車輪を回す。
 窓からお金を握りしめ、弁当屋を呼ぶ声に緊迫感がある。
 今と違って汽車はゆっくり発車するから、お金をとりそこなったとか、
 逆にお金は渡したが弁当をもらえずになんてアクシデントは起きなかったのだろう。
 懐かしい昭和のプラットホームの風景である。
 現代のようにファミレスがあり、コンビニやスーパーには多彩な弁当が並んでいる時代と違って、
 日常から非日常の世界へ旅立つ旅行者にとって、
 「立ち売り駅弁」は、何よりの楽しみであり、ごちそうだったように思う。

 (写真はウエブ朝日新聞より引用)
 駅弁立ち売りの懐かしいスタイルである。
  滋賀県米原駅の構内で販売を復活させた「井筒屋」の駅弁である。
  1889(明治22)年に駅弁を始めた老舗で、井筒屋は30年ほど前まで立ち売りをしていたが、
  担当者の引退と共になくなった。
  記事は、「担当者の引退」とともに駅弁立ち売りはなくなったと書いているが、
  それは、消滅の原因の一つで、汽車から電車に替わり窓が開かなくなったことや、
  食料特に外食産業の普及などにより、時代にそぐわなくなったための消滅だった。
  長距離鈍行列車も無くなり、高速電車は瞬く間に目的地に着いてしまう。
  駅ホームでの立ち売り駅弁が姿を消したのは、こうした効率や利便性を追求した結果の
  帰結だったのだろう。
  便利性と快適性を鉄道に求めた結果、
  私たちは「旅情」という大切な感性をどこかに置き去りにしてしまったのだ。
   井筒屋の駅弁の復活は、駅側からの「旅客の弁当ニーズにこたえられないか」という要望で、
  に応えたものらしいが、当面は常時販売ではなく、時期を決めての販売となるらしい。

   時代
の流れに消えていった「立ち売り駅弁」だが、
その始まりは、明治18(1885)年7月16日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売したのが最初らしい。
 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売された。
「おにぎり2個にたくあんが2切れ」を竹の皮に包んで販売価格は5銭だったと記録にあります。
 この時代天丼が4銭で食べられたというから、結構割高な値段だった。
それでも、当時は列車の運行本数が少なかったために、5銭は赤字覚悟の値段だったようです。
              ※日本鉄道とは、国有鉄道ではなく、日本発の民営鉄道で、明治39(1906)に国有化された。

 公式の記録がないので、駅弁の元祖争いは多くの説がある。もっとも宇都宮説も確かな証拠があるわけではない。例えば、群馬県・信越本線横川駅で荻野屋が明治18(1885)年に駅弁を販売している。
  
以下、インターネット駅弁資料館の記事を参照にまとめました。
 〇 大阪府・東海道本線大阪駅説
    明治10(1877)年に発売。
    (大阪駅の開業が1874年ですからひの3年後には駅弁が販売されたことになります)
 〇 兵庫県・東海道本線神戸駅説
   「神戸駅史の年譜」によると、明治10(1877)年7月に「立ち売り弁当販売開始」と書かれているそうで
   す。(神戸駅の開業が明治7年で、その3年後には立ち売りの駅弁が始まっていた)
 〇 東京都・上野駅東北本線上野駅説
    
明治16(1883)年7月28日を発売日としています。この日が上野駅の開業日にあたります。
   「上野停車  場構内 弁当料理 ふぢのや」とあり、上野停車場とあり、
   これが駅構内なのかプラットホームなのかは不明です。

 〇 群馬県・高崎線熊谷駅説
    明治16年7月28日、熊谷駅が開業した日に「駅の売店で寿司とパン」
   が売られた、とありますが、これを駅弁と称してよいものかどうか疑問が残ります。

 〇 福井県・北陸本線敦賀駅説
    明治17(1884)年に駅弁発売。敦賀駅は明治15年開業。明治17年には柳ケ瀬トンネルの開通により便利 
   性が増し、これを記念しての駅弁販売か。

 〇 群馬県・高崎線高崎駅説
    明治17(1884)年、上越線の開通に伴い、おにぎりの販売を始めたのが始まり。

 〇 栃木県・東北本線小山駅説
    明治18(1885)年、小山駅開設に伴い、駅前で売られていた「翁(おきな)寿司」が駅の中で売られるよ
   うになったのが始まり。

  おなじみの「幕の内弁当」の駅弁の登場は、1889(明治22)年姫路駅といわれています。
  メニューを紹介します。
   ・たいの塩焼き  ・伊達巻き   ・焼きかまぼこ  ・だし巻き卵 ・大豆こんぶ煮付け
   ・栗きんとん   ・ごぼう煮つけ ・少し甘みをつけて炊いたゆり根 ・薄味で煮つけたふき
   ・奈良漬と梅干し(香の物)    ・黒ごまをふった白飯
      豊富な品数ゆえに、おかずに目移りがして、口の中で味が分散され、「味わう」
      という行為が減殺されるような気がして、「大人のお子様ランチ」風の「幕の内弁当」は
      敬遠してしまいます。
       現役時代、出張や会議、研修会等が多くあり、たいがいは問答無用の「幕の内弁当」でした。
      だれの好みにも会い、クレームか起きる確率が少ないという理由で、主催者側が便利に選んでし
      まうということもあったのでしょう。そんなこともあって、
      私は、幕の内弁当が好みでなくなりました。
      この弁当は1890年代に開発販売されました。

      明治22(1889)には、小さな土瓶に入った温かいお茶が発売され、
      「汽車土瓶」と言われていました。一方、首から下げた弁当に加え、土瓶のお茶が加わり、
      「立ち売り駅弁」は結構な体力を要求される職業になりました。
  今でも生き残っている人気「駅弁」を紹介します。
   シウマイ弁当 …1954(昭和29)年
   峠の釜めし  …1958(昭和33)年
   ますのすし  …1912(明治45、大正元)年
   だるま弁当  …1960(昭和35)年
   いかめし   …1941(昭和16)年
    それぞれの地域の特徴と吟味した食材を取り入れた、「ご当地弁当」は、
    駅弁から道の駅、高速道路サービスエリア、デパートでの
   「駅弁大会」などで人気弁当となっています。

   駅弁が亡くなり、同時に旅の旅情も半減してしまった現在ですが、
   私は、汽車の座席で母と食べた駅弁がわすれられず、今でも駅弁を買い、
   駅の待合室などで食べることにこだわっとています。
    

(つれづれに…№116)   (2024.5.18記)

 



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「夫のうれしい涙」

2024-05-10 06:30:00 | つれづれに……

「夫のうれしい涙」

   うれしい時も、悲しい時も、涙は流れてくる。


   「人前では泣くな」
   「男は泣くな

   私の子ども時代には、そういわれて育った。
   「泣くな」、「泣くな」。
   どんな悲しいことがあっても、辛いことがあっても
   涙をこらえて泣かなかった。
   もっと正確に言えば、人前で泣かなかった。
   こらえた。

   小学低学年のころ、いじめにあった。
   不快感は残ったが、それだけのこと。
   しかし、同じようないじめが続けば、我慢ができなくなる。
   反撃に出る。
   相手を力でねじ伏せる。暴力によって相手を委縮させる。
   喧嘩は負けては意味がない。勝つために手段は選ばない。
   相手が泣いて悲鳴を上げるまで徹底的に痛める。
   それでいじめはなくなった。

   決して泣かない少年だった。

   それが崩れたのは、嫁いだ姉が亡くなった時だった。
   物言わぬ姉の顔を見て、こらえていた涙がとめどなく流れた。
   声は出さなかったが、こらえようにも感情の制御がつかず、
   大好きだった優しい姉の枕もとで涙を流し続けた。
   涙が枯れてその場を離れ、トイレにこもった。
   悲しみの緊張が狭いトイレの中で一気に崩れた。
   大きな声で泣き続けた。

   以来、人前で泣くことを忌避することはなくなった。
   母が亡くなり、長兄が亡くなり、長姉が亡くなったときも泣いた。

   悲しい時には泣いた。
   うれしい時には……
   泣くほどうれしいことに出会ったことがない。
   でも、「ありがとう」という言葉は、なんども言った。

   朝日新聞に「ひととき」という読者の投稿欄がある。
   65歳になる主婦が「夫のうれしい涙」というタイトルで投稿している。(4月1日記事)

   彼女の夫は、定年まで会社で勤め上げ、定年を迎えた後、小学校の用務員として7年を務めた。
   体もきつくなってきたため、今年の3月に退職の意向を学校へ伝えた。
   ところが年が明けた1月末、仕事中に倒れ、病に伏してしまった。
   退職を2か月後に控えた時期の予期せぬ出来事だった。
   夫が入院して2週間がたったころ、一通の宛名の書いてない茶色の封筒が届いた。
   「飼育委員」と小さな字が書かれていた。
   夫が務めていた小学校の飼育員の子どもたちからの手紙だった。
   夫の喜ぶ顔が見たいと、妻は自転車を走らせた。
   子どもたちが飼育しているモルモットの小屋を夫が倒れる前に、作ったことを妻は知っていた。
   以下、全文を掲載します。

   その小屋やモルモットの絵、それに飼育委員全員からの感謝の手紙が封筒に入っていた。
   結婚して36年。夫が私の前で涙を流したのは長男が亡くなったときと今回の2回。
   2度目はうれしい涙で本当に良かった。

  

   在職中の夫が退職間際に作ったモルモットの小屋が、
   飼育委員たちの心を動かし、感謝の手紙となった。

   第二の職場に選んだ小学校の用務員の仕事。7年勤めあげ、体もしんどくなってきて、
   職を辞したあと、妻との穏やかな第三の老後の人生をスタートさせる予定だった。
   それを、子どもたちの感謝の手紙は、
   病との戦いでスタートせざるを得なくなった男への
   何よりの励ましとなるプレゼントであった。
   飼育員たちの感謝の手紙を、入院先のベッドの上で何度も読み返しながら、
   泣いている夫を見つめる優しい妻の姿が浮かんでくる。
 
 (つれづれに…№115)       (2024.5.9記)

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能登半島災害を謳う (1)

2024-05-04 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う
   多くの人がこの連休を利用して故郷へ帰省し、道路も、鉄道も、飛行機もほぼ満席の状態であった。
  海外への脱出旅行で飛行便もほぼ満席。
  能登半島地震から5月1日で4カ月が過ぎた。
  大勢のボランティア希望者が県の特設サイト登録し、
  現地の希望に沿ってボランティアを派遣するシステムがととのっている。
  登録者はほぼ埋まっているが、受け入れ側の態勢整わずに、抑制気味だという。
  どこでどんなボランティアが必要なのかさえ、なかなか把握できない現状がある。

  4カ月過ぎた現在でも被災地では、インフラが十分でなく、
  ボランティアは500円のボランティア保険に加入し、食事や飲み物、
  マスクなどは各自で用意することになっている。
 (朝日新聞5/1掲載 珠洲市のボランティア・水野義則氏撮影)
  朝日歌壇から能登地震関係の短歌を集めてみた。

 地震きて元旦能登のすざましさ逃げて逃げてのアナウンスの声   ……平野 實
   
   地震から4カ月過ぎた今でも、あの日テレビ画面から流れる
   アナウンサーの幾分興奮気味の「津波が来ます。逃げてくだ
   さい」と繰り返される声が耳の奥に残っている。

                   
 おろおろと椿の幹につかまりておさまるを待つこの大地震に   ……太田千鶴子

   被災者の恐怖が「おろおろと椿の幹につかまりて」の言葉に
   集約されている。わたしは、東日本大震災の時、農村の集落
   を歩いていて、大木にしがみつきざわざわと葉擦れの音に危
   険を感じ道路に四肢をついて身の安全を図った経験がある。

                       
 すてさんの歌に知りたる朝市の通りの火らし夜空を焦がす   ……阿武順子
 輪島のひと山下すての歌にある震災前のしずかな暮らし    ……大谷トミ子

   「すてさん」とは、輪島の住人で、豊かな感性で朝市の様子な
   どを歌に詠み朝日歌壇の常連だった。テレビの映像は数件の家屋
   から火の手が上がっている映像が火災の初期の正体を映していた。
   様々な悪条件が初期消火を阻害し、大きな火災を生んでしまった。
   「能登は優しや土までも」と謳われた半島の街が一転して、瓦礫
   の山になってしまった。

 
 能登地震に募金しにゆく福島の復興途上の浪江町の吾は ……守岡和之

   福島県浪江町は放射能の汚染がひどく、一部期間困難地区が解除に
  なったが、にぎやかさを取り戻した地区はほんの一部に過ぎず、車で
  海岸に向かって走れば、瓦礫の山はなくなったものの、家の土台と門
  柱だけ残した家が当時の悲惨さを今に伝えている。海岸に立つ浪江小
  学校は津波にあったが、生徒は全員無事に近くの高台に避難した。
  現在は震災遺構として開放されている。
  被災した者同士、痛みを分け合う。
  震災から13年を経てなお、復興途上と言わざるを得ない福島の厳しい現実がある。

 時を経るごとに死者数増えてゆくニュース悲しき正月三日  ……戸沢大二郎
 「この下に人間が居ます」と張紙し倒壊家屋の側で待つ家族  ……山口正子 

   日ごと増えていく死者の数と、行方不明の数が、厳しい現実の姿を
  物語っている。いったい誰が瓦礫の下敷きになっているのだろう。
  母とか父とか特定の人ではなく、「人間」と書いたところに、作者の
  怒りや、悲しみ、悔しさが滲んでいて、心を打たれる。

(人生を謳う№25)          (2024.05.03記)

 

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読書案内 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

2024-04-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内(再掲・改訂) 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

             短編集太陽の黄金の林檎より
               2012.9刊 ハヤカワ文庫SF

眠りから覚めた一億年の孤独

 孤独岬の灯台。

突端から2マイル(約3200メーター)離れた海上に70フィート(約21メーター)の高さにそそり立つ石造りの灯台。

 夜になれば、赤と白の光が点滅し船の安全を見守る。

霧の深い夜には霧でさえぎられた灯りを助けるように、霧笛が鳴り響く。

霧笛の音……。

〔……誰もいない家、葉の落ちた秋の樹木、南めざして鳴きながら飛んでいく渡り鳥にそっくりの音。十一月の風に似た音、硬い冷たい岸に打ち寄せる波に似た音、それを聞いた人の魂が忍び泣きするような音。遠くの町で聞けば、家の中にいることが幸運だったと感じられるような音。それを聞いた人は、永劫の悲しみと人生の短さを知る〕

 寂しくて孤独に震え、一度聴いたら忘れられない霧笛の音が、濃い霧に覆われた孤独岬の灯台から流れる。

 霧の出始める九月、霧の濃くなる十月と、霧笛は鳴りつづけ、やがて十一月の末、一年に一度、あいつが海のかなたからやってくる。深海の暗闇の眠りから目を覚まし、一族の中の最後の生き残りが、海面に姿をあらわす。

 全長九十から百フィート。

 長く細長い首を海面に突き出し、何かを探すように、霧笛の流れる霧で覆われた海面を灯台めざして泳いでくる。

 永い永い時間のかなたで絶滅してしまった恐竜。

 数億年の眠りから目覚めその霧笛に向かって、恐竜が鳴く、霧笛が響く…。

恐竜の鳴き声は、霧笛の音と見分けがつかないほど似ている。

孤独で、悲しく、寂しい鳴き声だ。

 霧笛が鳴る…恐竜が吠える…お互いが呼び合い、求め合うように呼応する。

 霧笛を仲間の呼び声と錯覚し、深海の深い眠りから目を覚まし、数億年待ち続けた仲間の呼び声に孤独な怪物は灯台に近づいてくる。

 その時、燈台守が霧笛のスイッチを切った。たった一匹で気の遠くなる時間にじっと耐え、決して帰らぬ仲間をただひたすら待たなければならなかった孤独。

 彼は霧笛の消えた灯台に突進していく……。

 喪われ二度と会えないものを待つ孤独が、読む者の心を切なくさせるSF短編である。

                           ハヤカワ文庫2006年2月刊 評価 ★★★★★

  仲間たちが死に絶え、たった一人生き残った恐竜。
  深い海の底に潜んで、気の遠くなるような永遠の時間を
  仲間の誰かが迎えに来ることをただひたすら待っている。
  孤独に絶えて……
  霧笛の音が、彼には仲間の呼んでいる声に聞こえる。
  
  失われていくものの孤独が、
  絶滅していく生物の無言の声が聞こえてくる。

 

  私たちは、この世に存在するものの希少なものに関心を寄せ、愛でようとする。
  先人たちが作った、縄文土器の造形を岡本太郎は、芸術だと称し、
  「芸術はバクハツだ」と言った。

  古代人たちのまだ文字を持たなかった時代に、
  創造した奇妙な形のものを『火焔土器』と名付けた。
  体内に満ち溢れ、ほとばしるエネルギーが、
  「炎」という形を「土器」写し取り、表現したのだろう。

  あるいは洪水を恐れて、高台の日当たりのよい場所に住んだ彼らにとって、
  「火」と「水」は大切な自然の恵みであったろう。
  同時に、時によっては災難をもたらす元凶でもあったことを彼らは肌で感じていたに違いない。
  生活に恵みをもたらす「水」や「火」はこうして土器の形へと発展していったのだろう。

  水の躍動を「水紋」で表現したのも、火の躍動を「炎」のイメージとして発展させたのも、
  生きるために必要な精神の具現化だったのだろう。
  
  形のもの 目に見えない存在
   私たちは異形のもの、例えば人魚、河童などにも興味をひかれ、
  各地に買ってそれらが存在した証として、それらのミイラなどが残っている。
  平安の貴族社会では、物の怪など正体不明のものがこの世を跋扈し、
  人を呪い殺し、感染症を流行らせた。
  雪女も民話の中に座敷童と共に人々の関心を集めている。
   現代ではツチノコ騒動があった。ネス湖のネッシーなど、まだみぬものへの興味は、
  憧れの的であり、恐れでもある。
   縄文人が造形した土器も、自然への恐れであり、自然への畏怖だったのかもしれない。
  
  ゴジラは放射能によって生まれた怪物であり、
  どのような理由があってか、文明が作り出したものを徹底的に破壊しつくす。
  科学が作り出した放射能の落とし子が、その文明を破壊しつくす姿に、
  どこか悲しいゴジラの文明への怒りが見えてくる。
  ハリウッド映画のキングコングにも、文明社会で生きていけないコングが美女に
  愛情を注ぐシーンに哀れさを感じる。

  灯台が発する霧笛を仲間の呼ぶ声と錯覚して、海底の底で眠る生き残りの恐竜が、
  孤独の長い時間から目覚め、現代によみがえる姿は、哀れで悲しい。

 (読書案内№191)         (2024.4.26記)
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  
  



  

    

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今日のことば(5)  「嘘」(2) 「嘘のスパイラル」

2024-04-17 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(5)  「嘘」(2)
  「嘘のスパイラル」 
「嘘の誘惑に対して」(前回続き)
嘘は一つでは終わりません。
嘘を隠すための嘘
嘘を正当化するための嘘をつくことに必ずなるからです。
そして、やがて何が本当の自分なのかわからなくなってしまう。
それほど寂しいことがあるでしょうか。

嘘をついても見抜かれなかったと
ほくそえんでいる人がいるなら
それは大変な錯覚というものです。
なぜなら
嘘をつくたびに
心は傷つき
魂はカルマを深くしているからです。
やがて
嘘をつくことにも慣れ
恐れもなく痛みもなく
嘘と同化してしまうのです。
         ※ カルマ(Carma)  人間が持つ心の奥に存在する「業」で、宿命とも訳され、「因果応報」という言葉がある。
                  善悪どちらのカルマも、それぞれの応報(結果)が導かれる。

  「
嘘」についての考察がわかりやすく、ていねいに述べられてきた。
このあと、著者が最も言いたかった言葉が続く。

人は誰でも
自分に嘘をつけない心を持っています。
良心――。
あるがままの事実を温かく見守の心
あらゆるものを大切にする心
あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心
嘘はこの良心の働きを奪い、眠らせてしまいます。
嘘は良心の窓を塗りこめてしまうのです。
愛の光
いのちの光
そして
生かされている事実を見失わせてしまうのです。

   「嘘依存症」という病気があるのなら、水原一平氏の行為は最も信頼に値する大谷翔平を裏切り、
  申し訳なかったと謝罪する気持ちではなく、不正が露見しても「口裏合わせ」を依頼して、
  この期に及んでなおも自己保身を図ろうとする行為は正に、「ギャンブル依存症」以前に、
  「嘘依存症」の最たるものと思わざるを得ません。

  「あるがままの事実を温かく見守の心」を喪失し、「あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心」
  を見失ってしまい、嘘によって「良心の窓を塗りこめてしま」った愚か者の末路を見るような思いです。
  
  私たちに一番大切なことは、
  「生かされている事実を」忘れない生き方ではないかと思う。/
  私たちは、生きているのではない、この世界に「生かされている」のだ。
  自然に生かされ、人と人の絆に生かされ、決して傲慢になってはいけない。
  
   日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/
   みんなにでくのぼーと呼ばれ/
   褒められもせず/苦にもされず
   そういうものに/わたしは なりたい
                 (宮沢賢治・雨ニモ負ケズ)

       どこかで、宮沢賢治の生き方に繋がるような高橋佳子氏の言葉です。
  世間のしがらみの中でたくさんの余分と思われるものを背負いながら生きている私たちには
  なかなか難しい生き方かもしれませんが、そういうものにわたしはなりたい。

   (今日のことば№5)           (2024.04.16記)

 

 

 

 

 

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今日のことば(4)  「嘘」(1) 

2024-04-14 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(4)  「嘘」(1)

 嘘の誘惑に対して

  何気なくついてしまう嘘。

   責められるのが嫌で
   馬鹿にされるのが嫌で
   除け者になるのが嫌で
   愛想をつかされるのが嫌で
   誉められたい一心で
   認められたい一心で
   立場を守りたい一心で
   つい、言ってしまう嘘
   ないものをあるがごとく、やったことをやらなかったごとく
   吹聴したり、隠したりする。
   恐怖心からの嘘
   虚栄心からの嘘
   投機心からの嘘
   嘘は、何気ないものであっても
   最も恐ろしい誘惑の一つでしょう。
        (新祈りのみち 至高の対話のために 高橋佳子)
著者・高橋佳子氏について私は知らない。
 引用した「ことば」は800ページ以上もある単行本のなかから引用した。
巻末のプロフィールによると、幼少のころより、人間は肉体だけでなく、目に見えないもう一人の自分――魂からなる存在であることを体験し、「人は何のために生まれてきたのか」「本当の生き方とはどのようなものか」という疑問探究へと誘われる。現在68歳。
 哲学者、宗教者、霊感の強い人などそのどれにも属するような雰囲気があるけれど、
一定の枠におさまり切れない人のように思う。

  何気なくついてしまう「嘘」は、人間の感性の「最も恐ろしい誘惑」の一つでしょう、
と読者に投げかける。窮地に陥ったとき、何とかそこから逃れたいという思いで「嘘」をつく。
一度ついた嘘に、これをカバーするためにまた嘘をつく。
嘘のスパイラルに陥ってしまえば、取り返しのつかない人生の破滅が待っている。
 嘘によって窮地を脱出したように思えても、嘘はもつれた糸をほぐすようにほころび、
心の傷口を大きくしてしまう。
 
多くの政治家が、嘘の轍(わだち)に足をとられ政治生命を絶たれるのを見てきた。
「記憶にございません」ということばに託された「嘘」。
「嘘をついているのではありません。記憶にないのです」という大ウソ。
人間として恥ずべき行為で政治姿勢を問われ、倫理観を問われているのに、
「記憶にない」と、人間として政治家として絶対に忘れてはならないことに記憶は味方しない。
都合の悪いことを忘却の彼方に追いやるほど、人間の心は便利にできていない。
 嘘をついてでも、
名誉と地位を守りたいと何ともあさましい人間の自己防衛本能だ。
「嘘の誘惑に負ければ、破滅が口を開けて待っている」


♪せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして 
 自分の言葉に嘘は つくまい人を裏切るまい
 生きてゆきたい 遠くで汽笛を聴きながら♪
              
(アリス 「遠くで汽笛を聴きながら」)

  嘘をついたら楽になれるのに、悔し涙かもしれない辛い涙を流して
若者は「嘘はつくまい 人を裏切るまい」と、青春の荒野をさまよう。
嘘の誘惑に負けない青春の旅立ちを謳う名曲である。

 (今日のことば№4)             (2024.3.13記)

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