哀歌 翔よ!! (5)
足 音 (2)
夜半に目が覚める。
あの、トコトコという足音と幼児の話し声が聞こえる。
足音で目が覚めるのか、目が覚めてから足音が聞えるのか、私には判別がつかない。
しかし、足音は確実に聞こえてくる。もはやこれは幻聴ではない。
この足音は、翔の足音だ。
何度も聞くうちに、確信となり、「今夜も翔が逢いに来てくれた」と、
私は、階下の足音と話し声に耳を澄まし、布団の中で安堵の胸を撫で下ろし、
いつの間にか浅いまどろみの中から、夜明けを迎え、悲しい一日が始まるのだ。
なぜ幼児の翔なのか。
夢の中には現れない翔が、幼児の足音と声で、
翔が育った安曇野の家や茨城の私の家にたびたび訪れるのか。
あどけない笑顔を浮かべ、「じいちゃん、じいちゃん」を連発した、
もっとも可愛い時期の、翔の思い出は多い。
その頃私たち祖父母も若く、頻繁に安曇野通いをしていた時期である。
日曜日の保育園の園庭で何の屈託もなく駆け回り、ブランコに乗り、スベリ台を得意げに滑って見せる。
天真爛漫の翔だった。
成長を重ね、声変わりの始まった中学生の翔とは異なる、可愛さ、愛しさがあり、
私たちは幸せの絶頂にいた。
10年も前の話である。
彼と繋がる想い出のアルバムは、ページを遡ればさかのぼるほど、数が増え、
鮮明に記憶の襞(ひだ)から浮かび上がってくる。
お世辞にも上手とは言えないピアノを弾いてみせる翔。
安曇野を離れ、自宅に向かう私たち夫婦の車を、家族全員が見送るなか、
走り出す車の後を、手を振りながら力の限り追いかけてくる翔。
後ろ髪惹かれる思いで安曇野を後にする私たちだった。
愛するものを失い、嘆き悲しみ、深い喪失感に沈む私に、
「じいちゃん、ぼくは元気だよ」と、
励まし、元気づける夜半の足音と話し声なのか、
寂寥感が広がり、私は暗闇の中で耳を澄まし、いつのまにか浅い眠りに入っていく。 (2月記)