(上州富岡製糸場之図・富岡市立美術館蔵)
世界文化遺産・富岡製糸場
日本近代の光と影 ①
富国強兵・殖産興業を支えた女工
群馬県・富岡製紙糸場が世界遺産に登録され、地元富岡町では、
町をあげての歓迎ムードに包まれ、観光客の数もうなぎ上りに増加している。
同じような現象は、岩手県・中尊寺が登録された時にも起きている。
現代に誇れる過去の遺産を、「じっくりと時間をかけて観てみよう」という真摯な姿勢はなく、
物見遊山的な観光客がどっと押し寄せる。
富士山が登録された時にも、観光客が押し寄せ、
静逸な山の空気が汚れ、自然破壊が懸念されたという。
明治5年(1872年)、明治政府は富国強兵・殖産興業を基本的な方針として掲げた。
江戸時代末期に鎖国政策を改め、欧米列強に立ち遅れまいとする明治政府の近代化政策の表れである。
その中で生糸は主要な輸出品目であり、
一時は輸出総額の70%~80%以上を占めた時期もあったようです。
官営模範工場としてスタートし、全国から工女を募集し、
伝習(技術の習得)を終えた工女は出身地へ戻り、
機械製糸の指導者とすることを工場の基本姿勢とした。
しかし、「異人に生き血をしぼりとられる」との噂が広まり工女の募集は思うように進まなかった。
窮余の策として、各府県に人数を割り当てて募集し、士族の娘などが集められました。
創業当時、一日の労働時間は約8時間で週休1日、
夏冬各10日の休暇、食費・寮費は製糸場が負担するなど、明治期の女性の労働環境としては、
世界でもまれなほど先進的なものであったという。
富岡製糸場が果たした産業界への貢献は大きく、当時の面影を色濃く残す富岡製糸場だか、
昭和62年(1987年)3月生糸値段の低迷などによって、その操業を停止し、
創業から数えて115年の幕を下ろした。
最後の経営者・片倉工業は閉所後18年間、5万平方㍍余の敷地にある建物を守り続けた。
(つづく)
2014.7.27