アスリートとスポーツ
東京5輪を一年後に控えて開催側の準備も徐々に整ってきた。
この段階で突然、マラソンと競歩の会場が東京から札幌に変更になってしまった。
変更の理由は
「開催地の気候的条件が、
選手たちにとって過酷で健康を損なう恐れがある」ということらしい。
しかし、「札幌に決定」と公式発表まで小池東京都知事には何の相談・打診もなかった。
全くの蚊帳の外ということだ。
当然のことながら事前に相談・打診をすれば都民の代表である都知事としては絶対に譲れない内容だ。
変更案に対する懐柔案を出し、
対抗姿勢を堅持するだろう。
だから外堀を埋め内堀をひそかに埋めたうえで、説明をする。
「もう決定したことです。」
言われてしまえば、返す言葉がない。
後は「蚊帳の外」に追いやられた都知事としての体面をどう保って、
相手の言い分を承諾するか。
この会場変更の幕引きの対応を誤ってしまえば、
都知事の面子が丸つぶれになってしまう。
そのことだけは何としても避けたいと思う都知事でした。
「長」と呼ばれ、トップに立つ者の立ち位置はいつも孤独だ。
部下も仲間も信頼の絆で結ばれているかに見える関係でも、
いつ何時袂を分かつかわからない。
「昨日の敵は今日の友」という言葉があるが、
「昨日の友は今日は敵」などということも珍しくない。
「寝首をかかれる」という現実も珍しくない。
安心のできない日々を過ごさなければならない孤独との戦いが続く。
アスリートたちの挑戦は孤独だ。
切磋琢磨し一緒に練習に励んできた中も、器量が拮抗すればライバルになる。
自分を奮い立たせるライバルであり、決して敵ではない。
長く苦しい孤独の戦いだ。
その上、選手生命は短い。
現役を引退した後、関連スポーツの世界で生きていけるアスリートは非常に少ない。
記録という実績だけでは、生きていけない。
経験に裏打ちされた技術と人を引き付ける魅力がなければ、
尊敬される指導者にはなれない。
組織を牛耳り、スポーツを利権獲得の手段として利用し、
スポーツ界を追われた人を私たちは何人も見ている。
有森裕子は言った。
「自分で自分をほめたい」と。
1992年バルセロナ五輪マラソンで銀メダル。
その4年後、アトランタ五輪で銅メダルを獲得
目指した金メダルは逃したけれども、2大会連続女子マラソンで獲得した有森は言った。
「メダルの色は銅かもしれませんけども……。
終わってからなんでもっとガンバレなかったのかと思うレースはしたくなかったし、
今回はそう思っていないし…。
初めて自分で自分をほめたいと思います」
苦しい練習と自分との孤独な戦いに勝った人の言葉の意味は重い。
高橋尚子は言った。
「夢は持ち続ければ叶えられる」と。
2000年シドニー五輪 金メダル 五輪記録
2001年ベルリンマラソン 優勝 世界記録
努力と精進を重ねた結果として獲得した輝かしい実績を持つ彼女の言葉には
重みと説得力がある。
円谷幸吉は自らの命を絶った。
「父上様母上様三日とろろおいしゅうございました」
あまりにも悲しい遺書が痛ましい。
1964年東京オリンピック。
55年前のことだ。
代々木の国立競技場に2位で戻ってきた円谷。
だが彼は3位で円谷を追ってきたイギリスのヒートリーに抜かれ惜しくも3位に。
4年後、1968年メキシコオリンピックに国民の期待は大きくなる。
期待が大きくなればなるほど、円谷はその重圧に押しつぶされそうになる。
彼は頸動脈を両刃の剃刀で切り、自らの命を絶った。
頑張れ!
孤独な戦いに挑むアスリートたちよ。
目指す金を逃したとしても、金が人生のすべてではないのだ。
(2019.11.15記) (つれづれに…心もよう№96)