パラリンピック⑥ 忘れ得ぬ選手たち③
(パラサポWEBより引用) (常陽リビングニュースより引用)
(ブラインドサッカー 佐々木ロベルト泉・背番号3)
佐々木ロベルト泉 (43歳)
ブラジル・サンパウロ出身の日系三世 茨城県牛久市在住
長野県出身の両親を持つ日系2世の父親と、
ポルトガルからブラジルに移住してきた母親のもとに生まれた。
16歳の時、グアバやマンゴー、アボカドを栽培する農園を営む父が脳梗塞で倒れ亡くなった。
「お母さんとお姉ちゃん、妹の面倒を見てくれ」、父の最後の願いだった。
18歳、1997年2月仕事を求めて祖父母の故郷日本へ。
家計を助けるために来日。
工場などで働き、母に仕送りを続けていた。
2006年、来日10年目の秋に夜勤に向かう途中、
交通事故で心臓を損傷し生死をさまよった。
心臓に2カ所穴が開き顔面骨折する重傷を負い、
長い昏睡(こんすい)から目覚めたのは16日後だった。
そこに待っていたのは信じられない現実だった。
視界は真っ暗で何も見えない。
一体何が起きたのか。
逡巡するロベルトに過酷な現実を妹が知らせた。
心臓の手術が優先されたため目の手術は間に合わず、
炎症を起こした両目の眼球は摘出するしか選択肢が残されていなかった。
「あなたはもう見えない。眼球がないの」
「人生、終わった。涙が出た」
しかし、たった5分で思い直した。
「神様は命を助けてくれた。意味があるはずだ」(朝日新聞より引用)
天性の陽気さと、人生に対する積極性がロベルトを次のステップに向かわせた。
事故から1年後の07年夏には富士山登頂に成功するほどの回復ぶりを見せた。
「日本で一番高い山に登ったんだから、この先どんな困難も乗り越えられる」と自信につなげた。
小さなステップを越える、その繰り返しが小さな自信につながっていく。
光を失ってから3年後の2009年、筑波技術大学に入学。
同時に5人制サッカー(ブラインドサッカー)を始めた。
試合中の対人との衝突の怖さはしばらく続いたが、
幼少期のサッカーの楽しかったことなど思い出し、着実に成果を上げていった。
2014年、日本国籍を取得、同時に東京パラリンピックの日本代表に選ばれる。
「父さんの死や事故から人生は1秒で終るとわかった。だから目の前のことを100%頑張る」
初めて出場したパラリンピックで日本代表チームは1次リーグを1勝2敗、
順位決定戦でスペインを破り5位入賞。
メダルには届かなかったが
「最高の舞台で家族のような仲間と戦えたことは素晴らしい経験だった」と振り返る。
多くのパラアスリート達が競技の成績もさることながら、
「素晴らしい経験」、「連帯」、「共生」、「信頼」等の体験を大切にし、
さらなるアスリートの道を究めようと進んで行こうとする姿勢は素晴らしい。
「大変なことがあっても、次はいいことがある」と言うその裏には、
絶対にあきらめない強い意志と、くじけずに生きていこうとする一途な思いがある。
参加競技の戦績を人生の貴重な体験として、
次へのステップを踏んでくパラアスリートの姿に声援を送る。
『 5人制サッカー(ブラインドサッカー)について』
ゴールキーパー以外はアイマスクを着けてプレーする。監督やキーパーの声を頼りに音
が鳴るボールをゴールに運ぶ。音や声が失われた視覚の代わりとなるからチーム内の密
なコミュニケーションや信頼関係が大切。「仲間を信じてこの場所、この瞬間に一緒に
プレーできることが一番の魅力」とロベルトは言う。
(昨日の風 今日の風№129) (2021.11.22記)