延命治療の疑問 ことの葉散歩道(12)
延命は誰のために
終末状態になっても次から次へと薬剤が投入されている父を見ているうちに、「もう父にとって医療はいらないのではないか」という考えが突然、わき起こってきた。 ※ 「看取りの作法」香山リカ著 祥伝社新書 |
著者の父が昏睡状態に落ちり、著者をはじめ母も弟も父の最期が近いことを覚悟した。
おそらくまもなく、敗血症性ショックと呼ばれる状態になり、血圧が低下して……という死の経過をたどることになるのだろう。
医師である著者は冷静に父の最期を看取ろうとする。父親は、家に帰り、生活の匂いやテレビの声や孫の走り回る声などを聴きながら、「最期」を迎えることができ、心穏やかに臨終を迎えられたのではないかと、著者は記している。
心電図計が接続され規則的な機械音が聞こえる。人工呼吸器はとても苦しそうです。点滴のチューブが何本も繋がれ、昏睡状態に陥った「最期の時を迎えた人」にとつては、とても残酷で、これが人間の「最期」なのかと思うととてもやりきれない。
回復の見込みもなく、ただ「最期の時」を待つだけだったら、もっと穏やかな「最期」があってもいいような気がする。
しかし、医学的な知識もなく、患者に対して医療的ケアを何もできない私たちにとっては、老衰死以外は在宅で「最期」の看取りをすることはできない。
私は、在宅ケアの延長線上に“在宅死„という選択肢があってもいいのではないかと思う。
それには現在の病院中心の医療体制を改め、ターミナルケアにも病院と在宅、どちらかの場所を選ぶ選択肢があれば、「人間らしい最期」を迎えることができるのではないか、と思う。
最近は、「延命治療」を望まない人が増えている。
また、病院生活で疲れ、家に帰りたい、と望む患者さんも多いようである。
クスリ漬け、機械漬けの病院中心の医療の在り方を変えていかなければ、
「尊厳ある人間の死」は望めないように思う。
(2015.9.26記)