海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇
⑥ 悲劇の夜が近づいてくる
834人の学童を含む1661人の疎開者たちと、
船舶砲兵隊員41人、船員86人、合計1788人を乗せた対馬丸は
他の疎開船和浦(わうら)丸、暁空丸(ぎょうくう)と共に砲艦「宇治」と駆逐艦(護衛艦)「蓮」に護られて、
1944(昭和19)年8月21日午後6時35分那覇港を出港した。
ドラを鳴らし、テープを投げ合う旅立ちを祝福するセレモニーはなかった。
鹿児島までの3日間の航海です。
8月22日の朝、周辺海域は台風の影響で風が強く、
老朽船の對馬丸は船団の速度についていけず、
しだいに遅れはじめ、これを見守るように護衛艦「蓮」が対馬丸の後ろをついていきます。
こうして、22日も無事に終わろうとしていました。
後、2日たったら本土鹿児島に到着する。
親たちとの別れは悲しかったが、
児童たちはまるで修学旅行気分でなかなか寝付かれない旅を、
暗くて、汗臭い異臭の立ち込める船倉で過ごしていた。
航海一日目、学校関係者や親たちの心配と不安とは別に、
児童たちの興奮でなかなか眠れない夜が訪れる。
老朽船對馬丸は、先行する「和浦丸」や「暁空丸」の速度についていけず、
船団の最後尾を、不規則なエンジンの音を響かせながら
護衛艦「蓮」に護られ、台風の接近に伴う風の影響を受けながら、
夜の海を目的地の「博多港」に向かって航行していた。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№30) (2023.8.4記)