お袋が『アマルフィ』を観に行きました。
一応「止めといた方がいいと思うよ」って止めたんですけど、お袋も言い出したら聞かないところもあるので。笑。
で、肝心の感想はというと、(珍しく辛口の評価をした後で)「面白いかどうかは観に行かなくちゃわからないからねぇ」だそうです。
いやいやいや、『アマルフィ』が面白いかどうかは事前にわかるんじゃないの?って思います。
映画を観に行く際、情報を出来るだけシャットダウンして観に行く、という人がいます。
まぁその気持ちがわからないではないけれど、自分は完全に逆。出来るだけ情報を仕入れてから観に行きます。試写会でのレビューやネタバレサイトも平気で読みます。
だって、公開されるすべての映画を観るというならばともかく、実際はどの作品を観て、どの作品を観ないか、取捨選択をしなければいけないですからね。
そのために少しでも多くの情報を仕入れるのは当然だと思います。
結末がわかってたらつまらない、という人もいます。
しかし、自分に言わせるとそれもちょっと違う。
結末が事前にわかって感動が半減する映画なんて、所詮その程度の映画だったってことです。
人それぞれ傑作の定義は違うでしょうけれど、自分の中では二度目の鑑賞で一度目と同じように感動できる映画こそ傑作だと思うのです。
その作品を鑑賞することこそ究極のネタバレといえるのではないでしょうか。
で、話は『アマルフィ』に戻りますが、ざっとネットで見た限りではかなりひどく叩かれてました。
ミステリーとして成り立っていない、演出がド下手、音楽の使い方がめちゃくちゃ、あんな外交官はいない、タイトルに反して舞台がアマルフィでない、サブタイトルの「女神の報酬」が意味不明etc。
しかし、自分が『アマルフィ』は絶対に観に行くまい、と決めているのは上記の理由からではありません。
やはり例の脚本家名問題によるところが大きいです。
この問題を取り上げているブログもほとんど対岸の火事、みたいな感じでした。
しかし、本当にこれは脚本家と製作者の間だけの問題なのでしょうか?
一般的にどの映画を観るか決める際、大きな決め手となるのはまず出演者だと思います。
トム・クルーズが出る映画は必ず観るとか、逆に大沢たかおの出る映画は観ないようにしているとか、そういうことです。
次に決め手となるのはやはり監督でしょう。
スピルバーグも以前ほどは面白くないけど、やっぱりつい観ちゃうよね、とかね。
そしてその次ぐらいに来るのが脚本家じゃないでしょうか。
あの映画の脚本はよかったとか、逆にあの脚本はひどかったとか、年に何十本も映画を観に行けばそう思うことも当然あるわけです。
脚本家が映画を観る(もしくは観ない)決め手となることも充分ありうるわけです。
しかし、もし脚本家の名前がエンドロールにも公式サイトにもパンフレットにもどこにもなかったらどうします?そういうことが日常的に平然と行われるようになったら?
大袈裟ではなく、我々は映画を観る際の決め手を一つ奪われた、ってことになりませんか?
まぁ現実的にはそんなにしょっちゅう脚本家の名前のない映画なんてないだろうとは思いますが、それでも悪しき慣例とならないように願わずにはいられないのです。
一応「止めといた方がいいと思うよ」って止めたんですけど、お袋も言い出したら聞かないところもあるので。笑。
で、肝心の感想はというと、(珍しく辛口の評価をした後で)「面白いかどうかは観に行かなくちゃわからないからねぇ」だそうです。
いやいやいや、『アマルフィ』が面白いかどうかは事前にわかるんじゃないの?って思います。
映画を観に行く際、情報を出来るだけシャットダウンして観に行く、という人がいます。
まぁその気持ちがわからないではないけれど、自分は完全に逆。出来るだけ情報を仕入れてから観に行きます。試写会でのレビューやネタバレサイトも平気で読みます。
だって、公開されるすべての映画を観るというならばともかく、実際はどの作品を観て、どの作品を観ないか、取捨選択をしなければいけないですからね。
そのために少しでも多くの情報を仕入れるのは当然だと思います。
結末がわかってたらつまらない、という人もいます。
しかし、自分に言わせるとそれもちょっと違う。
結末が事前にわかって感動が半減する映画なんて、所詮その程度の映画だったってことです。
人それぞれ傑作の定義は違うでしょうけれど、自分の中では二度目の鑑賞で一度目と同じように感動できる映画こそ傑作だと思うのです。
その作品を鑑賞することこそ究極のネタバレといえるのではないでしょうか。
で、話は『アマルフィ』に戻りますが、ざっとネットで見た限りではかなりひどく叩かれてました。
ミステリーとして成り立っていない、演出がド下手、音楽の使い方がめちゃくちゃ、あんな外交官はいない、タイトルに反して舞台がアマルフィでない、サブタイトルの「女神の報酬」が意味不明etc。
しかし、自分が『アマルフィ』は絶対に観に行くまい、と決めているのは上記の理由からではありません。
やはり例の脚本家名問題によるところが大きいです。
この問題を取り上げているブログもほとんど対岸の火事、みたいな感じでした。
しかし、本当にこれは脚本家と製作者の間だけの問題なのでしょうか?
一般的にどの映画を観るか決める際、大きな決め手となるのはまず出演者だと思います。
トム・クルーズが出る映画は必ず観るとか、逆に大沢たかおの出る映画は観ないようにしているとか、そういうことです。
次に決め手となるのはやはり監督でしょう。
スピルバーグも以前ほどは面白くないけど、やっぱりつい観ちゃうよね、とかね。
そしてその次ぐらいに来るのが脚本家じゃないでしょうか。
あの映画の脚本はよかったとか、逆にあの脚本はひどかったとか、年に何十本も映画を観に行けばそう思うことも当然あるわけです。
脚本家が映画を観る(もしくは観ない)決め手となることも充分ありうるわけです。
しかし、もし脚本家の名前がエンドロールにも公式サイトにもパンフレットにもどこにもなかったらどうします?そういうことが日常的に平然と行われるようになったら?
大袈裟ではなく、我々は映画を観る際の決め手を一つ奪われた、ってことになりませんか?
まぁ現実的にはそんなにしょっちゅう脚本家の名前のない映画なんてないだろうとは思いますが、それでも悪しき慣例とならないように願わずにはいられないのです。