懲りずにまた『ガタカ』のことについて書きたいと思います。
もはやライフワークと言ってよいのかもしれませんね。笑。
自分は『ガタカ』ほどネットの評価か高く、同時に内容が誤読される作品を他に知りません。
なぜ『ガタカ』は誤読されるのか?
理由は明白です。
登場人物の何人かが嘘をついていて、多くの人がそれを真に受けているからです。
例えば、ビンセントは弟アントンとの遠泳勝負の最初の勝利を指して「奇跡が起きた」と称しています。
ビンセントのこの言葉を聞いて、多くの人が、そうか、奇跡が起こったのか、奇跡が起きて彼の心臓の障害が治って、そして彼は勝利したのか、そう思うようです。
しかしこの言葉は嘘なのです。
常識で考えてください。
生まれつき心臓に重い障害を持つ者が外科手術を受けたわけでもないのにその障害を完治させることが出来るものなのでしょうか?
ファンタジーや宗教映画ならいざ知らず、『ガタカ』はSFです。
SF映画で心臓の障害が自然治癒することなどありえません。
障害が完治していなかったと断言できるシーンもあります。
ビンセントは事前にジェロームに計測させるという不正をして心拍数を計測するテストに臨みます。
結果ビンセントは計測員が感心するほどの数値を記録するのですが、ランニングを終えた彼がロッカールームに戻るとそのまま床に倒れ込むのです。
このシーンから主に二つのことがわかります
1.ビンセントの心臓の障害は完治していない。
2.彼はそのことを自覚している。
自分の心臓は適正者と比べても何ら遜色がないとビンセントが考えているのであれば不正をしてテストに臨むはずはないですからね。
「奇跡が起きた」という彼の言葉は嘘であると述べました。
しかし彼の言葉を嘘だと断じるのはいささか酷であるかもしれません。
おそらく「奇跡が起きた」ことを誰よりも信じたかったのはビンセント自身であったからです。
無慈悲で不条理な現実から目をそらし、「奇跡が起きた」ことを信じたい、彼の心情は痛いほどよくわかります。
その心情は誰にも責められるものではないと自分は思います。
次回は奇跡が起きていないのであればなぜビンセントはアントンとの遠泳勝負に二度も勝利出来たのか、そのことについて考察してみたいと思います。
続く
もはやライフワークと言ってよいのかもしれませんね。笑。
自分は『ガタカ』ほどネットの評価か高く、同時に内容が誤読される作品を他に知りません。
なぜ『ガタカ』は誤読されるのか?
理由は明白です。
登場人物の何人かが嘘をついていて、多くの人がそれを真に受けているからです。
例えば、ビンセントは弟アントンとの遠泳勝負の最初の勝利を指して「奇跡が起きた」と称しています。
ビンセントのこの言葉を聞いて、多くの人が、そうか、奇跡が起こったのか、奇跡が起きて彼の心臓の障害が治って、そして彼は勝利したのか、そう思うようです。
しかしこの言葉は嘘なのです。
常識で考えてください。
生まれつき心臓に重い障害を持つ者が外科手術を受けたわけでもないのにその障害を完治させることが出来るものなのでしょうか?
ファンタジーや宗教映画ならいざ知らず、『ガタカ』はSFです。
SF映画で心臓の障害が自然治癒することなどありえません。
障害が完治していなかったと断言できるシーンもあります。
ビンセントは事前にジェロームに計測させるという不正をして心拍数を計測するテストに臨みます。
結果ビンセントは計測員が感心するほどの数値を記録するのですが、ランニングを終えた彼がロッカールームに戻るとそのまま床に倒れ込むのです。
このシーンから主に二つのことがわかります
1.ビンセントの心臓の障害は完治していない。
2.彼はそのことを自覚している。
自分の心臓は適正者と比べても何ら遜色がないとビンセントが考えているのであれば不正をしてテストに臨むはずはないですからね。
「奇跡が起きた」という彼の言葉は嘘であると述べました。
しかし彼の言葉を嘘だと断じるのはいささか酷であるかもしれません。
おそらく「奇跡が起きた」ことを誰よりも信じたかったのはビンセント自身であったからです。
無慈悲で不条理な現実から目をそらし、「奇跡が起きた」ことを信じたい、彼の心情は痛いほどよくわかります。
その心情は誰にも責められるものではないと自分は思います。
次回は奇跡が起きていないのであればなぜビンセントはアントンとの遠泳勝負に二度も勝利出来たのか、そのことについて考察してみたいと思います。
続く