きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

遙かなる「モノ」~モノへの執着と取り出せない現実と

2014-08-09 22:16:52 | 徒然に2014-2015
昨日(というか今朝)は3時ぐらいまで呑んでいた。

DNSで、急にぼこっと発生した空き時間の日。

まだ、雨はそれほどでもなかったが、風が強い。ここもさることながら神戸の方が風速が強かったというのも判断材料の一つ。そう間違ってはないだろうと思いつつ、JRの駅まで高速バスの切符の払い戻しを受けに行く片道のみのラン。

堀之内の祭りのイベントも中止のようである。足場が淡々と外されていた。こういう日ぐらいランオフにしても良かったのだが、雨風はまだそれほどでもなかったので。

帰宅後、程なくしてムスコ氏帰省。ほっそりしている。結果として入学してから8キロぐらい痩せたらしい。負けた(儂も最近体を絞り込んでいたのだが)。
顔立ちはほっそりしているが、決して病的ではなく表情が穏やかだったのでほっとする。まずまずのスタートなのかなと。

儂自身、学生時代にあったことは、30年近く過ぎた今でもいろいろなことを思い出すことができる。いろいろなことを考え始めた時期だからだろうし、そのタイミングで出会うことができた人たち(そして単車)との関わりも今の自分のベースになっている。
ということで、我が家にはその学生時代を中心としたモノがまだまだたくさん残っている。
しかし最近、捨てられない数年間触れもしないモノが多いことに、これでいいのかという気もしている。実際には数年に一度ぐらいの割合で、結構モノを捨てているつもりなのだがそんなに減っていない気もする。で先日の休日、いろいろと想うところがあり、大学時代から捨てずに残っていた、諸々の事物を一気に処分した。ちょっとした同級生との手紙やら私信やら、あとバイク関係のスクラップブックやら(出かけたツーリングの行程や先々で集めたレシート、有料道路の領収証等ほとんど残っていた。ある意味写真より貴重であるが)等々である。
ウチのムスコやムスメは儂に比べてモノへの執着があまりないように見える。うらやましいと思う。清々しいと想う。
そういうことを想うようにもなり、いつまでも学生時代にの浸るのも何かみっともない気もしてきたので、最近、万が一の時のことも考え、この機会に自分に関するモノは少し処分することにした。

で、この日は本、雑誌。本関係は、これまで自分の仕事のためというより、ムスメやムスコに書棚を「荒らして」欲しい気があったこともあって、あまり処分せずに来た。
しかし、もう子供達が親父の本棚を荒らすようなことはないと分かってきたので、よほどの本以外、そして仕事関係でももう絶対読まない本は処分することにした。
研究関係の素データなども、苦労した分、本当に愛着すらあるのだが、もうさすがに再調査とか別な角度から研究を興すなどということは絶対にできないということが分かってきているので、結局は持っていても意味はない。やはり処分か。仕事関係の本の処分もほぼこれと同じ感じである。苦労して読んだけど、今後また再読するとか利用する可能性はほとんどない。そこそこ膨大な量で、目的のモノを探すよりはネットで検索した方が早いということもある。ベタな云い方だが、時代がかわったということなのだろう。
ただ今までは、どこかでいつかやろうとはしていたんだろうな、と。今考えると無謀というか絶対無理なのだが、どこかで本気でもう少し丁寧に本読んで考えをまとめようとしていたんだろうな、と。
その気持ちが薄れてきたから、というより現実的にもうさすがに無理かなと思い始めたから、処分する方向に気持ちが傾いたのかもしれない。
それでも、それ以前の学生時代の教科書とかは、やはりかなり躊躇する。仕事関係の本よりも役立たないはずなのに、やはりかなり自分に抵抗された。分からないなりにもがいた跡が残っている(書き込みとかではなく)。そういう意味では、本と云うより先日処分したモノに近い。本としての価値はないが、その古くささの中に間違いなく自分がいる。
背表紙みてこれは、とすぐに想像できるものや自分が書いている冊子などは無理だなと。しばらく折り合いを付けつつ少しは残すかと、そんな感じである。やはり自分の分岐点で背中を押したような本というのはあるし。

それから、本ではなく収集した資料とかコピーとか関係。これもどうするか思案中。とりあえず職場に持って行き、ゆくゆくはシュレッダーか。でも実用的といえば、本よりこちらの方がまだ使えるので、もう少しおいておく必要があるかもと思案中。
思えば、これらの本とか資料とかが基になって、これまでの何年か講義や講演のプレゼンを作ってきた。ただ、それでも、これをどうしようかと悩むと云うことは、もうここからは多分自分の力では「取り出せない」とむいうことを自覚したということなのだろうことに気付く。それは事実。

学生時代のことを思い出せるといいながら、実は忘れてしまうことが怖いから、モノが捨てられない。一方で、とりあえず保持しておけば「後で」「何かの時に」使えると想うから捨てられない。
今回、そこを少しだけクリアしているのは、忘れてしまう怖さよりも残しているみっともなさの方が上回ったということなのだろうし、とりうえず保持することの不確かさがだんだんとはっきりしてきて、後で使えるなどということは幻想でしかないことが自分で納得できるようになったということなのだろう。

それでも、写真やちょっとした手紙などについては、今の生活とは別次元の、つまり学生時代のものはすぱんと切れたにもかかわらず、仕事関係、家族に関連するものは、全く手を付けていない。これは、今の自分を考えると自分の意志だけでは処分できない。本は、逆というか、自分一人のものに過ぎないはずなのに捨てられない領域が確かに存在する。
台風の中ごぞごぞと、この後死ぬまでに何回、目にするか分からない資料や本を前に葛藤を続ける。墓まで持って行けたりはしないんだが、なかなか。

ちなみに、24時間リレーマラソン神戸大会は中止になったようである。