震度7は「本震」だと思っていた、と言うよりテレビも本震の後は余震が続くと注意喚起していた。
「前震」と言う言葉は、夜半日付が変わって直後の1時半前に発生した震度7の地震の説明用として生まれたもの。
「震度7の本震」の後の「余震が震度7でしかも本震より強烈」だったとは説明できない話なのである。
ただ、14夜の震度7の後は、15日は震度4程度の地震はあったものの、比較的穏やかだった。
(今朝の里山)
音を立てて降っていた雨も上がって、里山も麓と頂上付近だけをのぞかせていた。
この山が見えるのも手前の建物が見えるのも、久し振りで周りが全壊した後の風景に似ている。
その後再建され、遠くの山も見えなくなったが道路拡幅工事のため又もや壊されて更地になった。
下痢も治まってきたし、閉じこもってばかりも気が滅入るので少し歩きに出た。
(交流センターの献花台)
地震の直接の犠牲者や関連して亡くなった方々を慰霊するための献花台が設けてある。
昨日は初日だったので、沢山の報道関係者も集まって賑わいを見せていたが、今日は人気は無かった。
車中泊の車で埋まったグラウンドも、高校生達のサッカーの試合で盛上がっていた。
(雨水の溜め池)
溜め池も、春先には沢山いた鴨たちもいなくなり、牛蛙のヴォーヴォーという鳴声だけが響いていた。
当時の15日という日は、避難所に避難した人達も自宅の様子を見に帰ったり、後片付けをしたりするような日だった。
かなり傷んだ被災家屋に帰って、片付けたりしながらそのまま家で休んだ人々から多くの犠牲者が出た。
(午後の西空)
少し明るくなったかと思えば、厚い雲が覆うということを繰り返している。
当時の私も、内部は物が散乱していたが建屋自体は問題はなかったので2階の寝室で寝た。
夜中に布団ごと持ち上げられ落とされるような衝撃で目が覚めた。
携帯の緊急音が流れたのはその後である。
強烈な縦揺れが続いた後、横揺れが長く長く続いて立ち上がれなかった。
外では屋根の瓦の落ちる音が続いていた。
家の倒壊が頭に浮かんだ。
瓦は落ちてくれた方が屋根の重量が軽くなるとか、倒れる方向は多分構造的に南西の方向とか。
2階の東端の部屋だから多分1階よりヒシャゲずに残る公算が大きいとか。
布団中での結論は、このままじっと布団の中で倒壊物から身を守っていよう、だった。
とんでもなく長い時間のように思えた揺れも、やがて静かになった。
夜明けで明るくなるまで、布団の中に居た。
明るくなって、部屋を見回すと私が緩衝材として設置した布団や座布団の上にタンスもテレビもPCも乗っかっていた。
想定外は仏壇が飛び出して、和室の真ん中で横になっていたこと。
庭に出ると、落下した屋根瓦は両隣の瓦ばかりで、我が家のものは一枚も落ちていなかった。
両隣とも避難した後で、家はどちらも無人だった。
この後、電気は4日、水道は1ヶ月半こない生活が続いた。
ネット環境が整ったのは、どのくらい経過していたのか記憶にない。
避難所の携帯充電コーナーが、やたら混んでいたのは覚えている。
家は建っていたが、隣家が我が家方向に倒れるおそれがあるとかで、玄関に立ち入危険の赤紙が貼られた。
避難所は満員を越えていて、車中泊とその後息子が持参したテント生活を続けた。
震度6弱以下の地震は数多く、震度4程度では驚きもしない自分になっていた。
地震の詳細やメカニズムがいろいろ出てくるのは暫く後のことである。
因みに我が町の震度計は、前震で壊れてしまい更に強烈な本震の方は熊本市の震度からの推定値である。
この間、新聞やテレビのインタビューは何度か受けたが、前震の後の意気揚々さは影を潜めた。
「車中泊やさしく照らす十三夜」・・・しろ猫
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