朝から曇っていたが、とうとう降り出した。
一日中この調子なのだろうか。
さて、現在時11時ちょっと過ぎだが、8年前の今頃は地震の後片付けというより余震対策中だった。
食器類や、2段重ね以上のものは全て床の上に段ポールに入れて水平展開。
他県からの朝のニュースの電話インタビューも元気で状況を伝える余裕も。
もっと強烈な震度7が襲って来ることも、本震と思っていたものが前震と名前を変えることも予想を超えていた。
14日と16日の二度にわたりと表現されるが、実際は14日の夜と15日の深夜日付が変わって直ぐのこと。
今でも2晩続けてのイメージしか湧かない。
二度目の本震は、布団毎宙に浮いた感じを何度か受けた。
ガラガラという屋根瓦の落ちる音が暗闇の中で続いていた。
電気も水道も通信も交通も、ライフラインはすべて止まった。
以後1ヶ月半にわたって、風呂は毎日郷里の温泉施設に通い、帰りにコインランドリーで洗濯をした。
自宅は玄関に赤紙が貼られ、立ち入り禁止となっていた。
自宅崩壊の危険性というより、隣家が我が家に倒れかかっているからとの予防措置だった。
あれから8年が経過し、キャンピングカーに倒れかかったお宅も再建された。
▲(キャンピングカーのお宅の再建後)
▲(再建された橋)
町の南部を2本の中規模の河川が流れているが、橋は2本くらいを残して全て崩壊した。
その橋も、現在は全て架け替えたり補修がなされている。
倒壊家屋等で幹線道路も緊急車両の通行がままならなかったが、拡幅工事は現在も続いている。
▲(幹線の四車線化工事)
現在計画の4分の1程度が完了している。
▲(完成した四車線道路を横断する園児達)
急に広くなった道路に、青信号時間内に渡り終えることが出来ない園児達。
一本の紐を掴んで列をなしているが、途中で転んだり靴が抜けて付き添いの先生も大忙し。
どの車もノンビリとそのユーモラスな光景を見やっている。
▲(保存される震災遺構)
活断層が明瞭に地表面に現われた箇所が数カ所あるが、その内の3箇所は震災遺構として保存されることになった。
神社の階段、クランク状に曲がった畑の畔、そしてこのV字型に二つの断層が交わった谷川地区の断層。
保存状態を良好に保つため、屋根を設置し地面にはシートがかけられている。
謳い文句になっている「創造的復興」にはほど遠いが、復興はユックリだが進んでいる。
街中から、古い昔ながらの造りの家はまったく姿を消してしまった。
屋根を軽くするため、瓦葺きの屋根も新築ではほとんど採用されていない。
我が家の瓦葺きも、震災後は珍しい部類になってしまった。
地震を起こした2本の活断層のうち、布田川断層の半分と日奈久断層の大部分は未活動で残っている。
我が町は、この二つの活断層の分岐点に近かった。
災害は「忘れないうちに何度でもやって来る」が正しい認識だろう。
「事件事故みな美しく油断する」・・・しろ猫
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