ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

大人になるにつれ、かなしく(32)

2016-12-26 21:23:07 | Weblog
「たとえば熊に出くわしたとします。そうしたら大抵の人は、不安や恐怖の感情に支配されますますよね?」

「はい」

「Uさんの場合は、エレベーターに乗ろうとした時、普通の人が熊に出くわしたような恐怖感に、苛まれているんだと思うんですよ」

「そうかもしれません」

「熊の場合、下手をすると命を落とすかも知れませんが、エレベーターはUさんの命を奪いません」

「それは分かってるんですけど」

「だから、この空欄になっている認知のところは、乗っている時間は数十秒だから、苦しさはあっても命まではとられない、というふうに考えるのもひとつですね」

「はあ」
Uさんは初めて紅茶を口に運んだ。すでに冷たくなっているだろう。
ひとつの方法としては5階までエレベーターに乗るのではなく、2階までエレベーターを利用し、そこで降りて、あとは階段で5階へ向かうという考え方も出来ます。もしそれが出来たら、次は3階までエレベーターを使ってみる。一気にというより、徐々に自信を積み重ねた方がいいかもしれません」

「はあ、そうですねえ」

「もう一枚は、ええと美容室に行けなかったと」

「はい。店に入ろうかと思ったんでが、入り口でドキドキしてしまって」

「でも、入り口まで行ったというところに、価値があるんだと思うんです」

「そうでしょうか?」
Uさんは疑問を口にした。

「確かに、店に入って髪を切り、無事に店を出るのが理想ですが、それはハードルが高いですから。例えば、あえて店が混雑している時に、待合の椅子に座って、少ししてから店を出る。これも立派な前進です。そうして徐々に、自信を積み重ね、今日は大丈夫そうだなと思った時に、カットしてもらうというのも、ひとつの方法ですね」

「それでいいんでしょうか?」

「うん。あまり頑張りすぎない方がいいと思います。Uさんはすでに頑張っていますから」
Uさんの表情が少し緩んだように見えた。
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大人になるにつれ、かなしく(31)

2016-12-25 22:57:06 | Weblog
「ええと、プリント持ってきてもらえましたか?」

「あっ、はい」

彼女はバックから数枚のプリントを取り出した。数枚といっても種類としては2つに分けられる。

「ではまず、2週間分の生活記録の方から見せてもらいますね」

「はい」

Uさんが2枚の用紙を僕に差し出す。

「うん。前回よりだいぶ不安の数字が下がっていますね」

「はい、そうですね。この2週間は比較的・・・」
生活の場面、場面での不安堵を0から100まで患者の自己判断で書いてもらっている。

「ええ。前回は70、80という数字が結構ありましたが、今回は60という数字がひとつあるだけで、後は高くても50で収まっています」
彼女はかすかに頷いた。

「ではもう一枚のプリント、認知行動の方をお願いします」

「ああ、あまりうまく出来ませんでしたけど」

Uさんの声は消え入りそうだった。

「いや、全然構わないんです。これはなかなか難しいですから」

僕は冷めかけた紅茶をすすった。このプリントには縦軸に出来事と感情、横軸に認知と行動が記されている。一枚目のプリントには「出来事はエレベーターに乗ろうとした。感情は恐怖、不安。認知は空欄で、行動はエレベーターには乗れず階段を使った」と丁寧な文字で書かれていた。パニック障害の典型的な症状と言える。


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大人になるにつれ、かなしく(30)

2016-12-25 21:36:17 | Weblog
F大学病院の精神科の診療室。口ひげを蓄えた、恰幅のいい白衣姿の医師と、若い女性患者が机を挟んで、向き合っている。診察は終わったようだ。僕は医師の右隣へ歩を進めた。

「では、この後は心理士さんとのカウンセリングになります」
医師は軽く僕に会釈した。
「はい」
女性はか細い声で答えた。

僕とUさんは本館を出た。別館へと続く渡り廊下に、病弱な陽の光が有り難い温もりを届けてくれる。今日は小春日和だ。
別室に移り、今度は白衣姿の僕と若い女性患者がテーブルを隔てて向き合った。

「よろしくお願いします」
僕はパイプ椅子に腰を下ろした。

「よろしくお願いします」
Uさんは、聞き取れるぎりぎりの声で言う。彼女がまだ立っていたので、僕は座るように促した。

患者のUさんは25歳の女性。4年制大学を卒業後、自宅から1時間弱の都内の食品メーカーに就職したが、1年ほど前に、電車内で過呼吸発作を起こし、半年前に退職し、現在は無職。両親とともに暮らしている。

「いま紅茶入れますね。安物ですけど」

「あっ、ありがとうございます」

小さな声だったが、彼女は少し笑った。




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大人になるにつれ、かなしく(29)

2016-12-24 22:47:38 | Weblog
純白のウエディング姿の新婦に見とれていたかったが、藤沢の投げやりで、淋しげな表情が気になっていた。テーブルに頬杖をついて、彼の様子を伺っていた僕に、司会者から声がかかった。

「ええ、ここで高校時代からの新郎新婦のご友人である、友人代表の坂木誠さんのご挨拶です。坂木さん、よろしくお願いします」

僕がマイクの前に立つと、まばらな拍手が起こった。白けた結婚式。緊張することさえ忘れてしまった。

「新郎、新婦とは高校3年の時のクラスメイトです。私にとって二人は憧れでした。同い年ではあるのですが、兄と姉のような存在でした。その想いは今も何ら変わりません。藤沢君、結婚おめでとうございます。藤沢君は勉強も運動も抜群で、ご覧の通りの美男子です。でも、私が最も彼の好きなところは、そこではなく内面です。凄く、真っ直ぐで優しい男です。

有紗さん、おめでとうございます。有紗さんもまた群を抜く美少女で、勉強も運動も得意でした。藤沢君同様、私に限らずクラスメイトの憧れでした。しかし、有紗さんの美しさは、外見だけではありません。努力を惜しまないひた向きさに、もうひとつの美しさがありました。

私には2つ年下の妻がいます。藤沢君には可愛がってもらいました。だから、これからは親友であり、兄弟のような関係を、妻も含めて作れたらと勝手に考えています。そしてずっと先の話ですが、これから思い出をたくさん作り、おじいさん、おばあさんになった時、のどかな場所で、語り合い笑い会えたら、これ以上の喜びはありません。

藤沢君、有紗さん、改めてご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」

僕は二人に向かって頭を下げ、自らの席に引き上げた。有紗が頭を下げて応じ、藤沢は笑ったように見えた。白川さんは少し涙ぐんでいた。


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大人になるにつれ、かなしく(28)

2016-12-24 21:23:26 | Weblog
亜衣が女児を出産したのは8月のはじめだった。出産に関しては男は全く役に立たないとはよく聞く話だが、真実だった。僕はいても、いなくてもいい存在に成り下がった。亜衣が妊娠してからは、自分が亜衣と生まれてくる子を守るという意識が強まっていたが、そのような小さなプライドは、出産の苦しみに耐えた亜衣と比較すること自体、おこがましい。それに退院した後すぐ、亜衣が「今度は男の子がいいなあ、一姫二太郎って言うでしょ」と言ったのには、驚かされた。この小柄な体に、どれだけの生命力と精神力を兼ね備えているのかと思うと、畏怖の念すら湧き上がってくるのである。

翌年の春、僕はめでたい場所で藤沢と有紗に再会した。都内某所の結婚式場である。

「結婚おめでとう。孝志。有紗さん」
藤沢と有紗がゴールインしたのだ。

「ああ。今日のスピーチ頼むな」

「気が重いけど何とかやってみるよ」
藤沢に新郎新婦の友人代表のスピーチを依頼され、僕は渋々了承した。

「坂木君、久しぶりだね。卒業式以来か。私のこと、覚えてくれてる」

「勿論だよ」

「大人っぽくなったね。当たり前か」
有紗はにこやかに言った。この笑顔さえあれば、きっと二人は上手くやっていける。一抹の不安はあるけれど。

ウエディングドレス姿の有紗は想像以上に美しかった。

「幸せになってほしいなあ、有紗ちゃん。すっかり大人の女性になった。うん、綺麗だ」
いまや僕の義父となった白川さんは、感慨深げだ。緊張の中にも、有紗の顔には時々、笑みがこぼれていた。

新郎の孝志は、ダークグレーのタキシードが良く似合っている。誰もが憧れる美男美女のカップルの結婚式。しかし、式場はこじんまりとしている。親族、同僚、友人。どれも疎らなのだ。孝志の父は、やはり姿を見せなかった。しかし、花嫁の父が欠席なのは意外だった。理由は体調不良という事らしいが、この結婚に反対だったと藤沢から聞かされている。有紗の母と兄夫婦とその娘たちが、父親の不在をかろうじて取り繕っている。

同僚や友人は、新郎新婦ともに10人程度。藤沢の高校時代の友人は僕だけだ。有紗は社交性もあり、いまは大型書店のフロアを仕切っているのだから、いくらでも呼びたかったに違いない。しかし、藤沢とのバランスを考えたのだろう。そもそも藤沢は、結婚式を挙げたくなかったのだ。すべては有紗のためだった。


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大人になるにつれ、かなしく(27)

2016-12-23 22:38:20 | Weblog
「ああ、そうなんだ」

「あんまり驚かないんだな」

「同窓会に出た奴から、なんとなく噂として耳に入ってたから」
水族館という具体的な言葉は使えなかった。

「どこから漏れたんだろうなあ。この手の話は広まるのが早くてかなわない」
藤沢の苦笑が見えるようだった。

「ところで矢野とは、どこで再会したんだ?」

「うん、まあな。確かに有紗は同窓会に出たらしい。何年ぶりかで」

「孝志も出席したのか?」

「いや、俺は大学卒業してからは出てないよ。俺の連絡先を知ってる奴から、有紗が聞き出したらしい」

「なるほどね。じゃあ、矢野から連絡があった訳だ」

「そういう事。もうあいつ、俺が何度も司法試験に失敗してることを知ってたよ」

「有紗はいま何やってんの?」

「S書店で働いてる」

「ああ、大手だな。矢野は文学少女だったから。まあ元気ならいいけど」

「格差を感じるよ。劣等感かな。有紗はフロアを任せられるまでになってるのに、俺はなあ」

藤沢から声の力が抜けた。

「出来れば、3人でまた会いたいなあ」

「そうだな、そのうちな」

彼に似合わぬ、弱々しい口調だった。
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大人になるにつれ、かなしく(26)

2016-12-23 21:23:25 | Weblog
生まれてくる子供を含めた家族、そして仕事。これが僕にとって、最も重要であることは分かっている。しかし、そうした生活の隙間、思考の隙間に二人がよぎる。藤沢と有紗。僕の同い年の兄と姉。その二人が何故、一緒にいたのか?長い時を経て、恋人に戻ったというのか?藤沢に手紙で聞いてみようか。しかし、それは返って藤沢が離れてしまうような気がして、僕は心の隅で彼からの手紙を待ちながら、日中は病院で心理士として患者に向き合い、夜は亜衣との時間を大切にした。

藤沢から連絡があったのは、すでに葉桜の頃だった。電話から聴こえてくる、久しぶりの藤沢の声だった。

「悪かったな、心配かけて」

「ああ。まあ、元気そうで良かった」

「いや、司法試験のことで、相当、落ち込んでしまってね」

「まあ、無理もないよ」

「変わらず、法律事務所では働いてるんだけど、しばらくは酒浸りのような生活を送ってた。親ともうまくいかなくなってね。だからこんな調子で、誠とこれまで通りの付き合いをしてたら、お前にまで見捨てられてしまうと思ったんだ。だから連絡を絶った」

「もうその事はいいよ。それより親って親父さんの事?」
確か彼の両親は中学の時に離婚し、父親が藤沢を引き取り、母親が彼の妹を引き取ったはずだった。

「ああ。まあ、俺が悪いんだ。試験に何度も落ちた上に、この体たらくな生活をしている訳だからな。大手企業のエリートの親父としたら、許せなかったんだろう」

「酒浸りはやめたのか?」

「浸るのはやめたけど、昔よりは量は増えたかな。それより、誠に話しておかないといけない事がある」

「うん。俺も孝志に話したい事がある」

「そうか。子供でも出来たか?」

「うん。まだ、生まれてはいないけど」

「そうか。それはおめでとう。誠が父親か。亜衣ちゃんによろしく」

「ああ、伝えておくよ。それで、孝志の話しておきたいことって?」

「うん。実はいま有紗、矢野有紗と付き合っている」




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大人になるにつれ、かなしく(25)

2016-12-22 23:02:03 | Weblog
2月中旬、外は雪が降っている。亜衣の腹部は、妊娠5ヶ月で小さな生命の存在感が増している。3月で銀行を退社することがすでに決定していた。いよいよ、僕の収入で生活していかなければならない。こういうこともあろうかと、これまでも、生活費は僕の収入、そして亜衣の収入は貯金にまわしていた。出来るだけ、それを切り崩さないで自分が頑張らなければいけないと思っている。順調に行けば、夏に亜衣は子供を生み、僕は父親になるだろう。

その頃だった。高校時代の同級生のSから電話があった。都内の水族館で、藤沢と有紗を見たというのだ。Sは声をかけなかったという。

Sは恋人とデート中だったそうだが、館内はそれほど込み合っていなかったらしい。そこに長身の美男、美女のカップルが現れたから、自然とSの目は、水の中の生物からその二人へ移った。最初は気づかなかったが、よく見ると藤沢と有紗に似ていた。そして次第に似ているのではなく、本物だと思った。しかし、Sは声を掛けられなかった。2人の雰囲気、特に藤沢が大きく変質して見えた。溌剌としていたかつての面影がないのだ。そのため、やはり別人かもしれないかと迷いが生じた。しかし、水族館を出てしばらくして、やはり藤沢と有紗に間違いないと思い直したようなのだ。




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大人になるにつれ、かなしく(24)

2016-12-22 21:32:06 | Weblog
「藤沢さん、どうしたのかねえ?」
亜衣が心配顔で言う。

「司法試験で挫折したショックかな?まあ他にも事情はあるのかもしれない」
僕はぼんやりテレビ画面を見ながら応えた。

「何回受験したんだっけ?」

「ええと、大学4年からだから6回かな」

「ところで、話題は変わるんだけど・・・」
亜衣の声は照れくさそうだった。

「ん、何?」

「私、妊娠したみたいなんだ」

「えっ」

「病院で妊娠8週目に入ってるって」

僕はテレビを消し、亜衣の方を向き、近づいて、亜衣の腹部を凝視した。

「ああ、そうなんだ」

「嬉しくないの?」

「いや、嬉しいけど」

「なんかあまり嬉しそうじゃないから」
亜衣が少し、頬を膨らませた。

「いや、まだ実感が湧かないんだよ。そうか、僕らは父と母になるんだね」

「うん」

「これまで以上に体を大事にしないと」

「そうだね」

普段と違い、亜衣は言葉少なだった。僕も嬉しさを的確に表現したい。そして、その感情をストレートに彼女に伝えたいと思うのだが、うまく見つからない。

「こういうのが幸せっていうのかな?」
しばらくの沈黙の後、僕は自分も予期しなかった言葉を吐き出していた。亜衣は小さく頷いた。
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大人になるにつれ、かなしく(23)

2016-12-22 19:56:17 | Weblog
程なく、藤沢の司法試験の結果は出た。不合格。電話口から聞こえてくる彼の声には力がなく、ショックを隠そうともしなかった。自信があったが故に、それだけ気持ちの落ち込みも大きかったのだろう。僕もかける言葉が見つからず、ありきたりのことを少しだけ話し、早々に電話を切った。

その後、藤沢の挑戦は4年続いた。法律事務所でアシスタントとして働きながら。しかし、結果は実らなかった。僕はといえば、臨床心理士の資格を取り、大学病院などで非常勤で働いている。亜衣は、僕の妻となった。僕の収入が十分でないため、彼女はいまも銀行で受付として働いている。白川さんは、僕ら二人を祝福してくれた。結婚式ではウェディングドレス姿の亜衣を見て泣いていた。白川さんは、僕にとって、おじさんから義理の父となった。

藤沢とは、彼の最後の挑戦のあと連絡が取れなくなった。携帯電話がつながらないのだ。藤沢の自宅マンションにも訪ねてみたが、すでにそこには住んでいなかった。

数日後、僕と亜衣が新婚生活を送るマンションに手紙が届いた。「突然、心配をかけて悪かった。必ず、新しい電話番号を教えるから少し、待ってくれ。その間は、手紙を書くから安心して欲しい」と記されていた。僕は少々、苛立った。苦しい時こその友人ではないのかと。しかし、その感情をそのまま伝えてもいけないと思い、見慣れぬ連絡先に「水臭いなあ。まあ、孝志にもいろいろ事情があるのだろうから、急がなくていいよ。でもいずれ、連絡先を教えてくれよな」と返した。
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