白雲去来

蜷川正大の日々是口実

日露戦争における政府と軍部の苦悩。

2012-01-20 17:15:30 | インポート

一月十九日(木)曇り。

 

 歯の調子が悪く、午前中に歯医者。昼過ぎに事務書に寄り、郵便物などのチェックをしてから、「人名事典」などで調べもの。

 

 

 吉村昭の「ポーツマスの旗」が面白い。日露戦争の講和の事実が書かれていて、改めて当時の日本が、まさに薄氷を踏む、という状況だったことが分かる。国民は、旅順の陥落、奉天戦の勝利、日本海海戦の大勝利に湧き、イケイケドンドンで、新聞には、ロシアのウラジオストックまで攻め入ろうなどと言う勇ましい論調が踊る。

 

 日露戦争に動員された兵力は、一〇八万八、九九六名、戦死四万六、四二三名、負傷約十六万名。俘虜二千人。消費した軍費は、陸軍十二億八、三二八円余、海軍二億三、九九三円余、その他を合計すると十九億五、四〇〇円にも達していた。これは日露戦争前の国家予算の実に八倍である。 奉天戦で敗れたとはいえ、国力に差のあるロシアは、シベリア鉄道を使って、続々と陸軍部隊を増強しつつあった。それに反して日本軍は、人員と物量の差が表面化。

 

 しかし日本は、これを表ざたにすることはできず、政府と軍部は早い講和を望んでいたが、連戦の勝利により、国民はそんな現実を知る由もなく勝利に酔いしれていた。そして、多くの同胞の血が流された戦争において、ロシアから莫大な賠償金や領土の割譲が得られるものと期待していたのである。それが、当時の国民世論であった。

 

 もしも政府が、満州戦線の日露両軍の戦力の差を公表すれば、国民の理解は得られ、どのような条件でも戦争の終結を望む声が主流となるに違いないが、そうなれば、ロシア側は日本の戦力が尽きたことを知り、全軍に総攻撃を命じて、戦争は長期化して、ますます不利になる。そのような状況の中で、全権大使となった小村寿太郎に、送別会の席で、元老の井上馨は涙ぐんで、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかもしれない」と述べ、また伊藤博文も、「君が帰国した時には、他人はどうであろうと私だけは必ず出迎えに行く」と語ったという。

 

 マニフェストで、国民に嘘八百を言って、国民を騙した民主党と、当時の政治家と比べるのも失礼か。


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「やまと」から「愛福楼」へ。

2012-01-20 16:20:53 | インポート

一月十八日(水)晴れ。

 午後から、大行社の幹部会議に、相談役の一人として出席。天気が良いので、電車の中で本を読むのも気持ちがいい。「ポーツマスの旗」も佳境に入った。会議は三時過ぎに終了。

 

 夜は、東京から友人が来訪。京急の井土ヶ谷駅にて待ち合わせて、自宅の近くの「徳よし」という寿司屋に行こうと思ったが、今日が定休日であることを思い出し、急遽「やまと」に河岸を変えた。相変わらず、お店は混んでいた。その後、「愛福楼」に転戦。ここも満席状態だった。紹興酒をお燗してもらって、つまみは軽めにした。九時前に、愚妻に迎えに来てもらい、友人を横浜駅まで送ってから帰宅。

 

 自宅に戻ってから、録画しておいた「バイオハザード」という映画を見たが、あまりのくだらなさに呆れた。すぐに消して、本を肴に月下独酌。


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宮崎滔天・民蔵、孫文追悼集会前夜祭の顔ぶれ。

2012-01-20 15:50:04 | インポート

一月十七日(火)晴れ。

 

 機関誌「燃えよ祖国」、季刊誌「大吼」の編集と校正、そして個人的な連載をしている「実話時報」の原稿書き、さらに、昭和二十九年の五月に、熊本の紫垣隆邸(大凡荘)にて行われた「宮崎滔天・民蔵、孫文追悼集会」の前夜祭に集まった六十七名の方々の氏名とプロフィールの作成と、忙しい日々が続いている。

 

 

 実は、その紫垣隆邸にて行われた「宮崎滔天・民蔵、孫文追悼集会」の前夜祭の写真と寄せ書きは、東映のプロデューサーであった、紫垣隆氏のご子息、故紫垣達郎氏から寄贈されたものである。集合写真は、以前に弊社から出版した「右翼・民族派総覧」の扉の写真として掲載させて頂いた。その写真のキャプションには「昭和二十八年七月」とあるが、それが間違いであることが分かった。その追悼集会が行われたのは、昭和二十九年五月十六日で、場所は当初、熊本市公会堂を予定していたが、改装中で工事の完成が遅れ、熊本県の自治会館に変更された。

 

 

 写真のキャプションにある「昭和二十七年七月」と言えば、講和条約から三か月しか経っておらず、大規模な追悼集会は無理であると考えるのが普通である。そこで、色々調べた結果、紫垣隆翁が過去に発行した「世界は一つ」という本の中に、その追悼集会の様子が詳しく書いてあることを知り、アマゾンで取り寄せた。また、その追悼集会の日が、紫垣隆翁の喜寿の祝いの日に合わせて開催されたことも知った。そこで、またパソコンで調べた結果、「喜寿紫垣隆翁」という本が、「紫垣隆翁喜寿祝賀会」より発行されていて、これも取り寄せた。

 

 

 結果、上記の会合が、昭和二十九年の五月十五日に行われたことが判明したのである。その前夜祭に集合した六十七名の方のプロフィールを調べるのに、一番役に立ったのは、パソコンであるのは言うまでもないが、その他、私の蔵書の中から「東亜先覚志士記伝」や「玄洋社社史」、「日本紳士録」、「大右翼史」などが参考になったが、どうしても判明しない方が、杉原憲四朗、廣田藤七郎、藤原勉之、三隅隆任、西郷天風、梶園武計、清水潔、河野省吾、河本幸村、松本益雄の十名である。

 私が持っている「紳士録」は、年代が新しく、「前夜祭」に出席した人たちのほとんどが、昭和二十九年には還暦に近いか、あるいは過ぎている方の検索には、全く役に立たなかった。図書館に行って、第一版を調べてみたいと思っている。

 

 さらに、寄せ書きをした方は、四十五名。写真に写っている人の全員が、書いていないことも分かった。また、反対に写真には写っていないが、歌人で、宮崎滔天の子息、宮崎龍介と結婚した柳原白蓮の歌も書かれている。

 

 仕事が一段落すると、このプロフィール作りをすることが楽しくて仕方がない。夜は、軽く飲んで、十二時前に布団に入った。


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