3月3日(木)晴れ。「桜田門外の変」と「経団連事件」の日。
今日は、桃の節句。子供が小さい頃はひな人形などを飾ったが、大きくなるにつれて、そう言うこともしなくなった。私にとって、三月三日は、昭和五十二年、野村先生が同志と共に「財界の営利至上主義を撃つ」として、財界の総本山である経団連会館を襲撃占拠した、いわゆる「経団連事件」の日である。また安政七年に起きた「桜田門外の変」の日でもあり感慨深い。
経団連事件の翌年に、野村先生の初めての単行本『友よ山河を亡ぼすなかれ』(清流出版社・絶版)が出版された。その中に、第一部として「三・三経団連事件」の項があり、「経団連事件・決起までの真相-迎撃の思想と出撃の論理」を野村先生は書いている。その経団連事件から今年で四十五年となる。『友よ山河を亡ぼすなかれ』は絶版となり手に入りにくい。私の機関誌で、過去に幾度か特集を行ってきたが、いずれ再販したいと思っている。一部を紹介してみたい。
「私は、迎撃する事と、たんに出撃する事では重大な相違があることを知っている。迎撃するということは、まず敵が情況を築くという前提があるので、〈戦場〉が実在している。しかしこの泰平の時代に、我々の側から火蓋を切るということは、〈戦場〉不在の戦いをすることになる。これは重大な相違である。戦場なき戦いのむつかしさは、三島先生らの先の楯の会事件でも立証ずみだし、私は河野邸焼打ちをやって、たいした成果もないままに、十二年間を獄舎に囚縛されて来ている。敵対する相対的なΛ実体Vがない泰平の時代に、武器をもって登場し、いわんや発砲することは、一般大衆は文字どおり寝耳に水で何が何だかさっぱり事情が呑みこめないという、一種のパニック状態を惹起することになる。〈戦場〉なき戦いのむつかしさを、私は体験的に知っていたので、思わず躊躇せざるを得なかった。」(迎撃の思想と出撃の論理)より。
以前、私の機関誌『燃えよ祖国』にて経団連事件の特集を行ったがその特集号は、かつて文芸誌『花曜日』を主宰していた方が、経団連事件のことを書いた原稿のタイトル「萩がこぼれる、桜がまた散る」をそのままコピーさせて頂いた。