2月22日(火)晴れ。
暦の上では春ですが、厳しい寒さの日が続いております。この時期の手紙の常套句のような日が続いている。午前中に掛かりつけの病院へ行き常備薬を貰う。ついでにコロナワクチン接種の「キャンセル待ち」の予約も。夕方まで事務所にて機関誌の編集。夜は、酔狂亭にて独酌。お供は「佐藤」の黒。
事務所には、野村先生のお供で行った様々な国の写真を飾っている。初めて野村先生と海外旅行に行ったのは平成3(1991)年の12月のこと。18日から二泊三日の旅で場所は香港。実は、この旅が私にとっても初めての海外旅行だった。私は40歳、この年の4月に私は戦線に復帰した。遅まきながらの海外デビューでもあった。若い頃は、生活することで精いっぱいで、とても海外旅行などに行く余裕すらなかった。それは多分、私の同世代のほとんどの人がそうだったのに違いあるまい。海外とは、様々な意味で本当に遠い、あこがれの場所でもあった。
昭和39年の東京オリンピックの年の4月1日、政府関係や業務、留学などに限られていた日本人の海外渡航が「年1回、外貨持ち出し500ドルまで」の制限付きで自由化された。1ドルが360円の時代に、自由化一週間後に、ハワイ7泊9日のツアー第一陣が羽田を出発した。「日本旅行業協会」によるとツアー料金は36万4000円。大卒の国家公務員の初任給が1万9000円の時代、現在の物価に換算すると、何と400万円になるそうだ。当然庶民には高嶺の花だった。たまに街でパンナムのブルーのショルダーバックを肩にかけて歩いている人を見ると、「お金持ちなんだなぁ―」と思ったものだ。
平成5年に野村先生がお亡くなりになるまでに、お供をして訊ねた国と街は、マニラ、香港、サイパン、ローマ、ベネチア、ナポリ、シチリア、パリ。最後の旅となったのは、マドリードからモロッコに渡り、ラバト、フェズ、マラケシュ、カサブランカ。その旅のことは駄文ながら拙著『師・野村秋介ー回想は逆光の中にあり』の中に書かせて頂いた。コロナが衰えぬ今、いつになったら海外に行けるのだろうか。旅の思い出を肴に一杯やるとするか。