二月二日(木)晴れ。
「荀子」の言葉に、「小人の学は耳より入りて口より出ず」というものがある。耳で聞きかじったことをそのまま他人に受け売りするのだから、少しも自分の身につかない。そんな学問のことを「口耳(こうじ)の学」と呼んでいるそうだ。自分を向上させるには、学ぶことを忘れてはならない。だが、同じ学ぶにしても、「口耳の学」のような学び方では、かえって有害無益なのだという。
「荀子」は、続けてこう語っている。「むかしの人は、自分のために学問に励んだが、今の人は他人のために学問している。君子は学問によって自分を向上させるが、小人は学問によって自分を売り物にしている。問われもしないのにしゃべる、これをオシャベリという。一を問われて二まで答える。これをオセッカイという。どちらもよくない。君子とは、打たねば響かぬが、打てば響くものなのだ」せっかく学ぽうとするなら、「君子の学」をめざしたいものだ。「中国古典・一日一言」(守屋洋・PHP文庫)
真面目な話、これをパソコンの横に貼っておいて自戒の言葉としている。しかしながら、世間の多くは、私を含めてこの程度なのだ。今日の夜、いつも通る自宅の近くの気になっていた店を友人と二件ハシゴした。一軒目は、入った瞬間に、私の動物的な勘が、イケマセン。と反応した。ホルモン焼きの店なのだが、全くダメ。若い頃なら、我慢も出来たのだろうが、この歳になると、ホルモンがメインの店などに入ったのが失敗だった。肉は、値段と味と質が正比例する。という原則をうっかり忘れていた。次に入ったお店は、店構えは、酒飲み好みなのだが、まあ今風の、立ち飲みに毛の生えたようなお店。それはそれで良かったのだが、周りの人たちの話を耳をダンボにして聞いていたら、正に「口耳の学」。今朝読んだ、「産経抄」をそのまま自分の意見として喋っている、同輩のオヤジ。隣は、モロキュウをポリポリと齧りながら、ビールをちびちびと飲みつつ漫画を読んでいる青年。あっこれは口耳の学とは関係ないか。そう言う私も、飲むとトランプとトランポリンとの区別が無くなるし、喋っていることのほとんどが、誰かの「受け売り」と言うことが多い。酒を控えることしかないか。
反省の日々です。珍しく、外で飲んで九時過ぎに帰宅。
「荀子」の言葉に、「小人の学は耳より入りて口より出ず」というものがある。耳で聞きかじったことをそのまま他人に受け売りするのだから、少しも自分の身につかない。そんな学問のことを「口耳(こうじ)の学」と呼んでいるそうだ。自分を向上させるには、学ぶことを忘れてはならない。だが、同じ学ぶにしても、「口耳の学」のような学び方では、かえって有害無益なのだという。
「荀子」は、続けてこう語っている。「むかしの人は、自分のために学問に励んだが、今の人は他人のために学問している。君子は学問によって自分を向上させるが、小人は学問によって自分を売り物にしている。問われもしないのにしゃべる、これをオシャベリという。一を問われて二まで答える。これをオセッカイという。どちらもよくない。君子とは、打たねば響かぬが、打てば響くものなのだ」せっかく学ぽうとするなら、「君子の学」をめざしたいものだ。「中国古典・一日一言」(守屋洋・PHP文庫)
真面目な話、これをパソコンの横に貼っておいて自戒の言葉としている。しかしながら、世間の多くは、私を含めてこの程度なのだ。今日の夜、いつも通る自宅の近くの気になっていた店を友人と二件ハシゴした。一軒目は、入った瞬間に、私の動物的な勘が、イケマセン。と反応した。ホルモン焼きの店なのだが、全くダメ。若い頃なら、我慢も出来たのだろうが、この歳になると、ホルモンがメインの店などに入ったのが失敗だった。肉は、値段と味と質が正比例する。という原則をうっかり忘れていた。次に入ったお店は、店構えは、酒飲み好みなのだが、まあ今風の、立ち飲みに毛の生えたようなお店。それはそれで良かったのだが、周りの人たちの話を耳をダンボにして聞いていたら、正に「口耳の学」。今朝読んだ、「産経抄」をそのまま自分の意見として喋っている、同輩のオヤジ。隣は、モロキュウをポリポリと齧りながら、ビールをちびちびと飲みつつ漫画を読んでいる青年。あっこれは口耳の学とは関係ないか。そう言う私も、飲むとトランプとトランポリンとの区別が無くなるし、喋っていることのほとんどが、誰かの「受け売り」と言うことが多い。酒を控えることしかないか。
反省の日々です。珍しく、外で飲んで九時過ぎに帰宅。