スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&定義六の正当性

2006-09-07 23:35:58 | 将棋
 王座戦の第一局は振駒で佐藤棋聖の先手。▲7六歩△3四歩に▲6六歩と角道を止めると羽生王座は△3二飛。佐藤棋聖も▲7七角から向飛車に振って相振飛車になりました。このふたりの対戦ではただ一局,昨年の王位戦の第四局で同じ戦型になっていますが,このときは羽生王位の先手でしたので,佐藤棋聖が先手の場合には初めてとなります。その後,後手が矢倉模様に組んだのに対して先手は穴熊にして持久戦に。羽生王座が△8二銀と矢倉を崩して壁銀にしたところで(解説だと,千日手を誘う意味があったようです)ようやく佐藤棋聖から開戦。この仕掛けはタイミングがよく,佐藤棋聖が優勢になったようなのですが,羽生王座の端からの猛攻に対して受け間違えたようで逆転。その後,羽生王座も一気に攻め潰そうとしたために,飛車を取られて1筋に龍を引き付けられ,容易に寄せることができなくなって混戦になりました。ただ,最後の佐藤棋聖の攻めは後手玉には届かず,羽生王座の勝ちとなっています。手として印象に残ったのは,佐藤棋聖が127手目に▲4七角とただで捨てた手。勝利に結びつけば絶妙手となっていたと思いますし,最後,もし正しく攻めれば佐藤棋聖に勝ちがあったとしても同じことでしょう(実際は123手目の▲2八銀が悪手で,この時点では羽生王座の勝ちであったようです)。逆にいうと,こういう手が勝ちに直結しない部分に,佐藤棋聖の羽生王座に対する相性の悪さが感じられます。羽生王座はこの棋戦は強く実に14連覇中。15連覇に向けて幸先のよいスタートとなりました。第二局は16日に指されます。

 定義六からは,少なくとも神が最高に完全な存在であるということは導かれると僕は思います。なぜなら,ここでは神が絶対に無限であるといわれていますが,このことの意味は,神の本性にはありとあらゆる(無限に多くの)本性が含まれるということであり,いい換えれば,本性という点においては神より完全なものは何もないということが含まれているわけです。ところで,ある事物の本性というのは,その事物の存在を定立することはあっても排除することはありません(正確にいうと,ある事物の本性が,その事物の存在を排除するとは,単にその本性が矛盾を含むということです)。ですから,本性において最高に完全であるものは存在においても最高に完全であるということになると僕は考えるからです。なので,この観点からは定義六は,最高に完全でなければならないものとしての神の定義として,正当であると思います。
コメント
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