全日本プロレスの創設者のジャイアント馬場さんが現役プロレスラーのまま亡くなったのが1999年1月31日。この事実が伝えられたのは翌日の午後7時頃でした。もう7年も前のことですが,その一報を知ったときのことは,僕は今でもありありと思い浮かべることができます。
ところでこの1999年1月31日というのは,日本の競馬の世界にとっても特別な日です。この日,1月なのにフェブラリーステークスGⅠが東京競馬場で行われ,メイセイオペラという馬が優勝しました。何が特別なのかといえば,このメイセイオペラ,岩手県競馬所属の馬で,JRAのGⅠレースを地方競馬所属の馬が勝ったというのは,日本の競馬の歴史において,現在までではこのときだけなのです。
メイセイオペラは現在でいう3歳時に,厩舎の中で頭の骨を折るという珍しい怪我を負った馬。その後,徐々に頭角を表し,前年に地元・盛岡の南部杯でGⅠ初制覇。これがGⅠ2勝目でした(その後,同年の大井の帝王賞も勝ってトータル3勝)。
ジャイアント馬場さんが息を引き取ったのは午後4時過ぎで,まさにこのレースの直後。ジャイアント馬場さんの死とメイセイオペラの勝利。まったく関係のないふたつの出来事なのですが,僕の精神の中では,ふたつの観念が分かち難く結びついています。
僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えることによって解決するというのが基本姿勢です。そこで,神が実在するということがそれ自体で知られ得るということを『エチカ』の中から見出そうとするなら,僕にはふたつの部分があげられると思われます。そのうちのひとつが第五部定理一四。
「精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる」。
実はこの定理,後続の定理との関係から僕は少し問題があると思っているのですが,これはここでのテーマとはあまりに関係がないので,今はこれは問題にしません。この定理の意味というのは,身体の変状というのをどう考えるかということだと思いますが,この定理に関係する限りでは,これは人間の身体が外部の物体によって何らかの刺激を受けることの観念と考えるのが妥当だと考えます。つまり,人間は,自分の身体が外部の物体によって刺激を受ける観念や,それによって精神の中に生じる物体の観念(正確を期せば,物体が現実的に存在するという観念)を,神の観念と関係させられるというのがこの定理の意味であると思います。
ところでこの1999年1月31日というのは,日本の競馬の世界にとっても特別な日です。この日,1月なのにフェブラリーステークスGⅠが東京競馬場で行われ,メイセイオペラという馬が優勝しました。何が特別なのかといえば,このメイセイオペラ,岩手県競馬所属の馬で,JRAのGⅠレースを地方競馬所属の馬が勝ったというのは,日本の競馬の歴史において,現在までではこのときだけなのです。
メイセイオペラは現在でいう3歳時に,厩舎の中で頭の骨を折るという珍しい怪我を負った馬。その後,徐々に頭角を表し,前年に地元・盛岡の南部杯でGⅠ初制覇。これがGⅠ2勝目でした(その後,同年の大井の帝王賞も勝ってトータル3勝)。
ジャイアント馬場さんが息を引き取ったのは午後4時過ぎで,まさにこのレースの直後。ジャイアント馬場さんの死とメイセイオペラの勝利。まったく関係のないふたつの出来事なのですが,僕の精神の中では,ふたつの観念が分かち難く結びついています。
僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えることによって解決するというのが基本姿勢です。そこで,神が実在するということがそれ自体で知られ得るということを『エチカ』の中から見出そうとするなら,僕にはふたつの部分があげられると思われます。そのうちのひとつが第五部定理一四。
「精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる」。
実はこの定理,後続の定理との関係から僕は少し問題があると思っているのですが,これはここでのテーマとはあまりに関係がないので,今はこれは問題にしません。この定理の意味というのは,身体の変状というのをどう考えるかということだと思いますが,この定理に関係する限りでは,これは人間の身体が外部の物体によって何らかの刺激を受けることの観念と考えるのが妥当だと考えます。つまり,人間は,自分の身体が外部の物体によって刺激を受ける観念や,それによって精神の中に生じる物体の観念(正確を期せば,物体が現実的に存在するという観念)を,神の観念と関係させられるというのがこの定理の意味であると思います。