先週の中山グランドジャンプを勝ったメルシーモンサンの日本での母系祖先は1958年にイギリスで産まれたリーガルローブという馬です。ファミリーナンバーは1-e。
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イギリスで繁殖生活を送った後の輸入で,日本では7頭の仔を産んだようですが,活躍馬は1970年産のマミーブルーからの系統に集中。マミーブルー産駒には,1991年の日経新春杯を勝ったメルシーアトラ,1994年にアーリントンカップと毎日杯を連勝したメルシーステージがいます。このメルシーステージの父であるステートジャガーはマイナー種牡馬で,種牡馬引退が決まっていたのですが,この馬の活躍で再び種牡馬に起用されたという珍しいエピソードがあります。
マミーブルーの曾孫にあたるのが2004年の暮れの中山大障害を勝ったメルシータカオー。騎乗した出津孝一騎手は12月25日にして2004年の初勝利。印象的なインタビューをご記憶の方もいらっしゃるかと思います。
メルシーモンサンはこのメルシータカオーの姉の産駒ですので甥にあたります。
この一族もそうですが,障害競走に集中して活躍馬が出る系統というのがあります。今後もこの一族から障害競走に出走する馬がいれば,注目する必要があるでしょう。
第三部定理九が証明されたことにより,尿意が知覚perceptio,すなわち混乱した観念idea inadaequataであっても,人間の精神mens humanaは自己の有esseに固執するperseverare傾向を有しているconariということは明らかになりました。したがって一般的に考えるなら,尿意の観念は排尿という運動motus自体の観念に直接的に連結するような観念ですから,すでに尿意のうちに,排尿という運動を自分の身体corpusに対して肯定する意志作用volitioが含まれているということも明らかになったといっていいかもしれません。なぜならそれ以前に,第三部定理一一も証明してあるからです。
ただし,一般的にこのようなことがいえるということと,具体的に同じことがいえるということでは多少の,しかし無視することはできない違いがあります。もちろんたとえばある人間の知性intellectusというのがその人間の精神を構成している個々の観念の総体のことであり,意志voluntasというのが意志作用の総体のことであるように,一般的に尿意といわれるような観念は,個々の人間の精神のうちに発生する各々の尿意という観念の総体のことであるでしょう。しかしこれをいうためには,一般的にそうであるから具体的にもそうでなければならないというのではなしに,具体的にこうであるから一般的にそういえなければならないと説明するのがたぶんスピノザの哲学においては正しい方向ではないかと思います。といいますのも,事物はどのように把握される場合に明瞭に認識されるのかという観点からいって,その方がスピノザの一般性と特殊性の考え方に合致しているように思われるからです。
そこで,具体的な尿意の中に,自分の身体に対して排尿という運動を肯定するような意志作用が含まれているということについて証明したいのですが,これに関しては『エチカ』の中で,そのことを直接的に導き出すことができると僕に思えるような定理Propositioがありません。そこでやや異なった角度から,この点に接近を図っていこうと思います。
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イギリスで繁殖生活を送った後の輸入で,日本では7頭の仔を産んだようですが,活躍馬は1970年産のマミーブルーからの系統に集中。マミーブルー産駒には,1991年の日経新春杯を勝ったメルシーアトラ,1994年にアーリントンカップと毎日杯を連勝したメルシーステージがいます。このメルシーステージの父であるステートジャガーはマイナー種牡馬で,種牡馬引退が決まっていたのですが,この馬の活躍で再び種牡馬に起用されたという珍しいエピソードがあります。
マミーブルーの曾孫にあたるのが2004年の暮れの中山大障害を勝ったメルシータカオー。騎乗した出津孝一騎手は12月25日にして2004年の初勝利。印象的なインタビューをご記憶の方もいらっしゃるかと思います。
メルシーモンサンはこのメルシータカオーの姉の産駒ですので甥にあたります。
この一族もそうですが,障害競走に集中して活躍馬が出る系統というのがあります。今後もこの一族から障害競走に出走する馬がいれば,注目する必要があるでしょう。
第三部定理九が証明されたことにより,尿意が知覚perceptio,すなわち混乱した観念idea inadaequataであっても,人間の精神mens humanaは自己の有esseに固執するperseverare傾向を有しているconariということは明らかになりました。したがって一般的に考えるなら,尿意の観念は排尿という運動motus自体の観念に直接的に連結するような観念ですから,すでに尿意のうちに,排尿という運動を自分の身体corpusに対して肯定する意志作用volitioが含まれているということも明らかになったといっていいかもしれません。なぜならそれ以前に,第三部定理一一も証明してあるからです。
ただし,一般的にこのようなことがいえるということと,具体的に同じことがいえるということでは多少の,しかし無視することはできない違いがあります。もちろんたとえばある人間の知性intellectusというのがその人間の精神を構成している個々の観念の総体のことであり,意志voluntasというのが意志作用の総体のことであるように,一般的に尿意といわれるような観念は,個々の人間の精神のうちに発生する各々の尿意という観念の総体のことであるでしょう。しかしこれをいうためには,一般的にそうであるから具体的にもそうでなければならないというのではなしに,具体的にこうであるから一般的にそういえなければならないと説明するのがたぶんスピノザの哲学においては正しい方向ではないかと思います。といいますのも,事物はどのように把握される場合に明瞭に認識されるのかという観点からいって,その方がスピノザの一般性と特殊性の考え方に合致しているように思われるからです。
そこで,具体的な尿意の中に,自分の身体に対して排尿という運動を肯定するような意志作用が含まれているということについて証明したいのですが,これに関しては『エチカ』の中で,そのことを直接的に導き出すことができると僕に思えるような定理Propositioがありません。そこでやや異なった角度から,この点に接近を図っていこうと思います。