スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

小林と平岡&第三部定理六証明

2010-04-16 19:29:08 | 歌・小説
 『それから』の平岡が『明暗』の小林の前身と考えられる理由は,このふたりが,それぞれの小説の内部で,同じ行動をしているという点にあります。端的にいえばそれは金の無心です。平岡は主人公である代助に,小林は津田夫妻に金の無心をするのです。
     
 しかし,平岡があくまでも社会主義者というか貧民代表の小林の前身にすぎないのは,両者の金の無心には明確な違いがあるからです。
 平岡は代助に金を無心する際,代助の父の会社に問題があるということを,直接的にではありませんがそれとなく匂わせます。すでに説明したように平岡は新聞記者であり,その気になればそれを記事にすることもできるという態度をとるのです。つまりそれを書かずにいる代わりに金を無心するのであって,これは一種の賄賂を要求するような姿勢です。
 これに対して小林は,自分が貧民,別のことばでいえばプロレタリアートの代表であるということをはっきりと自覚していて,プロレタリアートの当然の権利としてブルジョアジーたる津田夫妻に金を要求するという姿勢です。小林の論理の正しさはまた別の話ですが,ある意味では平岡より潔いといえるかもしれません。
 このような姿勢の違いは歴然としているのですが,ふたりが異なる小説の中で同一の行動をとっているということは,やはり無視することができないものではないかと思います。『それから』を書いているときの夏目漱石は後に『明暗』のような小説を書くことは少しも考えていなかったかもしれませんが,『明暗』で小林を描くときの漱石の脳裏に,その前身としての平岡の姿は浮かんでいたのではないかと思うのです。

 第三部定理六というのは,第一部定理二四の意味というのによく注意すれば,容易に証明することが可能です。
 まず第一部定理一四により存在する実体は神だけです。次に第一部公理一の意味のうちには,存在するもの,あるいは存在可能なものは実体であるかそうでなければ様態であるということが含まれています。したがって,自然のうちに存在するもの,あるいは存在し得るものは,神であるか,そうでなければ神の変状,いい換えれば神のうちにあるもの,つまり神から産出されるものです。しかるに神から産出されるもの存在というのは,それ自身のうちにではなく,神のうちにあるのです。
 ところで神は第一部定義六から分かるように絶対に無限です。つまり第一部定理二〇にあるように神の存在というのは神の本性と同義であって,神は永遠から永遠にわたって存在します。よってまず,神から産出される事物の存在がこのような仕方で神のうちにあるとみられる場合には,その事物もまた永遠から永遠にわたって存在することになるでしょう。
 しかしこのことは,そうした事物が個物として現実的に存在する場合にも,異なった形態ではありますが妥当します。なぜなら個物は第一部定理二五系にあるように,神の属性を一定の仕方で表現するからです。よって神から産出されるどんなものも,自身の存在に固執するという傾向を有することになるでしょう。
 もちろん第四部公理にもあるように,どんな個物にもそれより強大な個物というのが存在します。よって現実的に存在すると説明されるような形態で自然のうちに存在するどんな個物も,必ず滅ぶということになります。しかしそれは第三部定理四にあるように,あくまでも滅ぶ個物にとって外部のものを原因とするのであって,その個物自身がその原因となるわけではありません。よって現実的に存在する個物が事実として滅ぶということと,この定理の内容が齟齬を来すわけではないのです。
コメント
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