新年最初の記念競輪となる立川記念の決勝。並びは岡田ー佐久間ー関の関東,岡村ー望月ー金川-勝瀬の南関東,深谷-岩津の西日本。打鐘前のホームで前に岡村,番手の望月の外に岡田が並走するような形で後方の外に深谷,ここから深谷が発進し,打鐘で岡村を叩ききると,やや緩めた感じ。岡村が3番手,岡田が7番手で一列棒状のままレースは進み,深谷が本気で踏み出していったのは2コーナー手前くらいだったように見受けられます。こうなると力が違いますから後ろから巻き返すのは困難。岩津も後ろを振り返り,余裕があるようにも思ったのですが,1着争いという態勢には至らず,逃げ切った深谷の優勝。岩津が2着で3着にも岡村が流れ込みました。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年6月の一宮記念以来の記念競輪3勝目。初優勝が昨年の立川記念ですので当地は連覇。ここははっきりいって相手関係が楽でしたからごく順当な優勝。脚力だけなら日本一と思うのですが,最近は相手の工夫した作戦になかなか思い通りにレースを組み立てられないといった印象。もっともそうしたことはレース経験が解消してくれるのではないかと思います。今年も競輪界の中心選手として,記念競輪はもちろんビッグでも活躍してくれるでしょう。

僕に物心がついた頃,祖母は大和市,相模鉄道と小田急の大和駅のほど近くに住んでいました。同居していたのは夫と長男,これは今はアパートに住んでいる叔父で,その妻と夫婦の間の一人娘,僕からみますと従妹の5人。母の実家にあたりますから,僕も何度も行ったことがありました。祖母の夫は僕が小学校5年生の時ですから,今から思えば早くに旅立っていったということになるかと思いますが,その後も長男夫婦の離婚によって僕の家に同居するようになるまで,ずっとそこで暮らしていました。祖母が最初に脳出血を発症して入院することになったのは,もう20年以上前ですが,この大和に住んでいた時期のことです。
祖母は大和では舞踊の師匠をやっていまして,弟子がたくさんいました。横浜に移ってからはそうした方々との直接的な交流というのはかなり少なくはなりましたが,年賀状のやり取りなどはずっと続いていまして,それはかなりの数に上っています。
一方,祖母はもともとは秋田県の出身。きょうだいもいまして,そのこども,つまり祖母からみれば甥や姪ということになりますが,そうした親族との交流も途絶えてはいませんでした。とくにそのうちの一軒は稲作農家をしています。僕の家の米はあきたこまちですが,これはその家から直接的に購入しているもの。もう何年前になるでしょうか,米が不作で輸入をしたという年がありましたが,そういった関係から僕の家ではその影響を被るということもありませんでした。
このように生前の祖母にはいろいろな交流というのがありましたから,そうした方々に連絡を入れて通夜と葬儀を営めば,それなりの数の参列者になることが予想できました。しかし今回は母や叔父の意向もあってそのようにはせず,家族葬という形で慎ましく行うことになりました。やはり交流があった方々もそれなりの年齢に達している人が多く,わざわざ足を運ばせるのもどうかという気があったようです。したがって参列したのは母とアパートの叔父,ロサンゼルスの伯母,そして僕と妹。さらに従妹と従妹の母,つまりアパートの叔父の前妻の7人のみ。従妹と前妻の親子は通夜のみでしたので,葬儀の方は5人だけでした。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年6月の一宮記念以来の記念競輪3勝目。初優勝が昨年の立川記念ですので当地は連覇。ここははっきりいって相手関係が楽でしたからごく順当な優勝。脚力だけなら日本一と思うのですが,最近は相手の工夫した作戦になかなか思い通りにレースを組み立てられないといった印象。もっともそうしたことはレース経験が解消してくれるのではないかと思います。今年も競輪界の中心選手として,記念競輪はもちろんビッグでも活躍してくれるでしょう。

僕に物心がついた頃,祖母は大和市,相模鉄道と小田急の大和駅のほど近くに住んでいました。同居していたのは夫と長男,これは今はアパートに住んでいる叔父で,その妻と夫婦の間の一人娘,僕からみますと従妹の5人。母の実家にあたりますから,僕も何度も行ったことがありました。祖母の夫は僕が小学校5年生の時ですから,今から思えば早くに旅立っていったということになるかと思いますが,その後も長男夫婦の離婚によって僕の家に同居するようになるまで,ずっとそこで暮らしていました。祖母が最初に脳出血を発症して入院することになったのは,もう20年以上前ですが,この大和に住んでいた時期のことです。
祖母は大和では舞踊の師匠をやっていまして,弟子がたくさんいました。横浜に移ってからはそうした方々との直接的な交流というのはかなり少なくはなりましたが,年賀状のやり取りなどはずっと続いていまして,それはかなりの数に上っています。
一方,祖母はもともとは秋田県の出身。きょうだいもいまして,そのこども,つまり祖母からみれば甥や姪ということになりますが,そうした親族との交流も途絶えてはいませんでした。とくにそのうちの一軒は稲作農家をしています。僕の家の米はあきたこまちですが,これはその家から直接的に購入しているもの。もう何年前になるでしょうか,米が不作で輸入をしたという年がありましたが,そういった関係から僕の家ではその影響を被るということもありませんでした。
このように生前の祖母にはいろいろな交流というのがありましたから,そうした方々に連絡を入れて通夜と葬儀を営めば,それなりの数の参列者になることが予想できました。しかし今回は母や叔父の意向もあってそのようにはせず,家族葬という形で慎ましく行うことになりました。やはり交流があった方々もそれなりの年齢に達している人が多く,わざわざ足を運ばせるのもどうかという気があったようです。したがって参列したのは母とアパートの叔父,ロサンゼルスの伯母,そして僕と妹。さらに従妹と従妹の母,つまりアパートの叔父の前妻の7人のみ。従妹と前妻の親子は通夜のみでしたので,葬儀の方は5人だけでした。