今年最初の大レースとなる第61回川崎記念。

抜群の発走だったのがスマートファルコンでそのまま逃げました。2番手の外をフリオーソが追い,3番手の内にランフォルセ。キングスエンブレム,ニホンピロアワーズと続きました。ペース自体は速かったですが,無理をしたというほどではありません。
前2頭の能力がここでは上でしたが,苦しくなったのは追い掛けていったフリオーソの方で,直線に入るところではもう一杯。スマートファルコンはそこからも快調に後ろを離していき,4馬身の差をつけるレコードタイムで快勝。そつなく内を回ったランフォルセが2着で,かなり苦しくなったフリオーソも地力で3着は何とか確保。
優勝したスマートファルコンは暮れの東京大賞典は辛勝でしたが,どうもあのときは太かったよう。今日は絞れて真価を発揮しました。当面のライバルが休養明けということもあり順当な勝利でしょう。これで9連勝。大レースは6勝目。父はゴールアリュール,曾祖母がアリアーン,兄に1999年の東京大賞典を優勝したワールドクリーク。
騎乗した武豊騎手は東京大賞典に続き年をまたいで大レース連勝。第54回,第59回に次いで川崎記念3勝目。管理している小崎憲調教師も大レース連勝で川崎記念は初勝利。

もうひとつ必要となるのは第二部定理三です。
「神のうちには必然的に神の本質の,ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの,観念が存する」。
この定理は,第二部定理一に注意しさえすれば必然的に帰結すると僕は考えます。すなわち,思惟は神の属性です。そして属性というのは自己の類においては無限です。よって神のうちには思惟する絶対的な力,それを限定したり凌駕したりするものが一切ないような力というのがあるということになります。一方,第一部定理一六により,神の本性からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在します。つまり神のうちには,それら無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念を形成する力というのがあるのでなければなりません。これは,もしもこのことを否定するならば,それの観念を形成する力を有するものによって神が限定される,あるいは凌駕されるという意味になりますから,それ自体で明らかであるといってよいでしょう。さらに付け加えれば,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるということのうちに,思惟という仕方によって無限に多くのものが,まずは第二部公理三によって観念として神のうちに生じるということがすでに含まれていると考えることもできると思います。
しかるに,第一部定理三五が明らかにしたことは,神の力のうちにあると概念されるもの,もっと端的にいうならば,神の力のうちにあるものは,必然的に存在するということでした。したがって神の本性およびその本性から生じる無限に多くのものの観念は,神の思惟する絶対的な力のうちにあるのですから,必然的に存在するということになるでしょう。
これでこの定理は証明されていると僕は考えます。ただしスピノザはこの後でさらに第一部定理一五の方を援用して,こうした観念というのがただ神のうちにのみあるということも合わせて証明しています。これはたとえば第二部定理一一系のような事柄を帰結させるためにはかなり重要な意味を有すると僕は思いますが,現状の目的として第二部定理三を証明しようとする場合には不要ですので,ここではその点に関しては省略することにします。

抜群の発走だったのがスマートファルコンでそのまま逃げました。2番手の外をフリオーソが追い,3番手の内にランフォルセ。キングスエンブレム,ニホンピロアワーズと続きました。ペース自体は速かったですが,無理をしたというほどではありません。
前2頭の能力がここでは上でしたが,苦しくなったのは追い掛けていったフリオーソの方で,直線に入るところではもう一杯。スマートファルコンはそこからも快調に後ろを離していき,4馬身の差をつけるレコードタイムで快勝。そつなく内を回ったランフォルセが2着で,かなり苦しくなったフリオーソも地力で3着は何とか確保。
優勝したスマートファルコンは暮れの東京大賞典は辛勝でしたが,どうもあのときは太かったよう。今日は絞れて真価を発揮しました。当面のライバルが休養明けということもあり順当な勝利でしょう。これで9連勝。大レースは6勝目。父はゴールアリュール,曾祖母がアリアーン,兄に1999年の東京大賞典を優勝したワールドクリーク。
騎乗した武豊騎手は東京大賞典に続き年をまたいで大レース連勝。第54回,第59回に次いで川崎記念3勝目。管理している小崎憲調教師も大レース連勝で川崎記念は初勝利。

もうひとつ必要となるのは第二部定理三です。
「神のうちには必然的に神の本質の,ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの,観念が存する」。
この定理は,第二部定理一に注意しさえすれば必然的に帰結すると僕は考えます。すなわち,思惟は神の属性です。そして属性というのは自己の類においては無限です。よって神のうちには思惟する絶対的な力,それを限定したり凌駕したりするものが一切ないような力というのがあるということになります。一方,第一部定理一六により,神の本性からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で存在します。つまり神のうちには,それら無限に多くの仕方で生じる無限に多くのものの観念を形成する力というのがあるのでなければなりません。これは,もしもこのことを否定するならば,それの観念を形成する力を有するものによって神が限定される,あるいは凌駕されるという意味になりますから,それ自体で明らかであるといってよいでしょう。さらに付け加えれば,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるということのうちに,思惟という仕方によって無限に多くのものが,まずは第二部公理三によって観念として神のうちに生じるということがすでに含まれていると考えることもできると思います。
しかるに,第一部定理三五が明らかにしたことは,神の力のうちにあると概念されるもの,もっと端的にいうならば,神の力のうちにあるものは,必然的に存在するということでした。したがって神の本性およびその本性から生じる無限に多くのものの観念は,神の思惟する絶対的な力のうちにあるのですから,必然的に存在するということになるでしょう。
これでこの定理は証明されていると僕は考えます。ただしスピノザはこの後でさらに第一部定理一五の方を援用して,こうした観念というのがただ神のうちにのみあるということも合わせて証明しています。これはたとえば第二部定理一一系のような事柄を帰結させるためにはかなり重要な意味を有すると僕は思いますが,現状の目的として第二部定理三を証明しようとする場合には不要ですので,ここではその点に関しては省略することにします。