スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第二部定理四七証明&以前

2021-04-16 20:04:09 | 哲学
 第二部定理四七が具体的にどのような意味を有しているのかということを確定させるために,スピノザがどのような手順でこの定理Propositioを証明しているのかをみておきます。
                                   
 まずスピノザは,人間の精神mens humanaが諸々の観念ideaを有するということを論証しています。これについては本来はスピノザが示しているように論理的に裏付けるべきではありますが,僕たちの精神が多くの観念を有しているということは,とくに論証するまでもなく僕たちが知っていることですから,ここでは省略します。そしてこのこと自体はこの定理Propositioがどのような意味であるのかということとはあまり関係しません。ただ,第二部公理五により,人間の精神が有している諸々の観念というのは,物体corpusの観念であるか,そうでなければ観念の観念idea ideae,とくに物体の観念の観念であるという点は,この定理の意味と関係を有します。
 この後にスピノザは第二部定理四五第二部定理四六に訴求することによって,この定理の論証Demonstratioを完結させています。第二部定理四五がいっているのは,現実的に存在する個々の物体および個物res singularisの観念が,神Deusの永遠aeterunusで無限な本性essentiaを含んでいるということです。単に物体の観念といわれているのではなく,物体ないし個物の観念といわれているのは,観念の観念つまり物体の観念の観念である思惟の属性Cogitationis attributumの個物を含ませるためだと解しておきます。
 第二部定理四六がいっているのは,第二部定理四五でいわれている,神の永遠で無限な本性は,人間の精神によって十全に認識されるということです。そしてこのことによって第二部定理四七,すなわち人間の精神が神の永遠で無限な本性を十全に認識するcognoscereということが導かれるのです。
 よって僕たちが認識している神の永遠で無限な本性は,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性に限られることになります。つまり人間の精神は神を十全に認識するのですが,それは延長の属性によって説明される限りでの神と思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになり,絶対に無限な実体substantiaとしての神ではないということになるでしょう。

 第五部定理二二が,現実的に存在する人間の身体humanum corpusだけに成立するわけでなく,現実的に存在するすべての個物res singularisに成立するということは,現実的に存在するすべての個物の現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神Deusのうちにあるということです。それが永遠の相の下に表現されているという点がここでは重要です。永遠の相の下に表現されるということは,表現されているその個物の観念が,現実的に存在しているか存在していないかということには無関係であるということだからです。よって永遠の相の下に表現されている個物の観念は,その個物の観念が現実的に存在しているときには当然のことながら永遠の相の下に表現されているのですが,その個物が現実的に存在していないときにも永遠の相の下に表現されていると考えなければならないのです。というか,このことはスピノザが精神mensの永遠性aeternitasを論証するときに中心的な役割を果たしますから,単にそのように考えなければならないというより,そう考えなければスピノザの精神の永遠性に関する主張は崩壊するといわなければなりません。
 現実的に存在するものは持続するdurareものですから,時間tempusによって説明することができます。したがってその個物の観念が存在する以前とか以後という仕方で説明することができます。そこで,ある個物の観念が存在する以前に,その個物の現実的本性は永遠の相の下に表現されているか否かを問うとすれば,永遠aeterunusは時間によっては説明することはできないとはいっても,その個物の観念が現実的に存在する以前から永遠の相の下に表現されていたと答えるのが適切であると思います。少なくとも現実的に存在する個物の観念については,その個物の観念が現実的に存在するようになる以前というのを考えることができるのであって,しかしその時点ではその個物の現実的本性は永遠の相の下に表現されていなかったというなら,それは実際には,永遠の相と反対の意味で持続duratioの相の下に表現されているといわなければならないからです。
 この条件からは,神のうちで永遠の相の下に表現されている現実的本性を有する個物は,そのすべてが現実的に存在することになるでしょう。
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