昨晩の第35回東京プリンセス賞。
フライングトリップは左によれて2馬身の不利。ケラススヴィアが逃げてグロリオーソが2番手でマーク。3番手はレディブラウンとウワサノシブコの2頭。5番手にティーズアレディー。6番手にディアリッキー。7番手のアイカプチーノとイヤサカまでは集団。4馬身差でサブルドール。後方2番手がカイカセンゲンで最後尾にフライングトリップという隊列。最初の800mは50秒6のミドルペース。
3コーナーを回ると前の4頭に外から捲り上げてきたディアリッキーが追いついてきて,5頭が一団に。直線に入ると逃げたケラススヴィアが後ろとの差を離していき,楽に逃げ切って優勝。勢い余って4コーナーでは外に膨れたディアリッキーが,ケラススヴィア以外の3頭を差して7馬身差で2着。その3頭のうち最も粘ったウワサノシブコを,フィニッシュ直前でティーズアレディーが差して1馬身4分の3差で3着。ウワサノシブコがクビ差で4着。
優勝したケラススヴィアは桜花賞からの連勝で南関東重賞4勝目。これまでの3勝の2着馬との着差から,能力は圧倒的に上位と見込まれましたが,今までで最も大きな差をつけての快勝となりました。これは楽なペースで逃げることができた展開面の要素が大きかったからでしょう。このように逃げたり先行した馬が後続を離して勝つレースは,2着は差し馬が有利になるケースが多く,2着以下の着差をみると,これらの馬たちはまた展開次第で着順が入れ替わるという能力差なのだろうと思われます。父はサウスヴィグラス。母の父はネオユニヴァース。祖母の3つ下の半弟に2006年に武蔵野ステークスを勝ったシーキングザベスト。Cerasus Viaはラテン語で桜の道。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は桜花賞以来の南関東重賞44勝目。東京プリンセス賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞48勝目。第31回,33回に続く2年ぶりの東京プリンセス賞3勝目。
さらに強力な根拠があります。さらに強力というのは,この根拠は,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisをどう解するかということと無関係と考えられるからです。つまりこの形相的本性を,現実的本性actualis essentiaと異なるものと解しても,あるいは現実的に存在する各々の個物res singularisの形相的本性と解しても,それが存在するというべきだという根拠になるのです。
第一部定理三五は,神Deusの力potentiaの中にあると僕たちが考えるconcipereものはすべて存在するといっています。ここでいう考えるというのは,真に認識するcognoscereという意味であるのですから,これは,神の力の中にあるものはすべて存在するという意味でなければなりません。よって,もしあるものについて,それは存在しないあるいは存在することが不可能であるというなら,そうしたものは神の力の中にはないといわなければなりません。ところが第二部定理八は,現実的に存在しない個物の形相的本性が神の属性attributumの中に含まれているということを明言していますし,現実的に存在しない個物の観念ideaが神の無限な観念の中に包容されているということも明言しています。ですからこうしたものが神の力の中にないということは不条理でしょうし,こうしたものを僕たちが神の力の中にあるということを概念するconcipereことができないということもまた不条理でしょう。よって現実的に存在しない個物の形相的本性も,現実的に存在しない個物の観念も,神の力の中にあるがゆえに必然的にnecessario存在するというべきだということになるでしょう。
これらのことから,僕は現実的に存在しない個物の形相的本性は,属性に含まれて存在すると結論しますし,現実的に存在しない個物の観念は,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在すると結論します。ただこの形相的本性は,個物の現実的本性とは異なるものなので,現実的に存在する個々の個物についてはそれを区別することができるものではありません。むしろ,たとえば人間の形相的本性は,現実的に存在する個々の人間のすべてに共有されるような本性を意味するので,現実的に存在する個々の人間を区別しません。そして個々の人間の現実的本性の観念は,神の無限な観念には包容されていません。
フライングトリップは左によれて2馬身の不利。ケラススヴィアが逃げてグロリオーソが2番手でマーク。3番手はレディブラウンとウワサノシブコの2頭。5番手にティーズアレディー。6番手にディアリッキー。7番手のアイカプチーノとイヤサカまでは集団。4馬身差でサブルドール。後方2番手がカイカセンゲンで最後尾にフライングトリップという隊列。最初の800mは50秒6のミドルペース。
3コーナーを回ると前の4頭に外から捲り上げてきたディアリッキーが追いついてきて,5頭が一団に。直線に入ると逃げたケラススヴィアが後ろとの差を離していき,楽に逃げ切って優勝。勢い余って4コーナーでは外に膨れたディアリッキーが,ケラススヴィア以外の3頭を差して7馬身差で2着。その3頭のうち最も粘ったウワサノシブコを,フィニッシュ直前でティーズアレディーが差して1馬身4分の3差で3着。ウワサノシブコがクビ差で4着。
優勝したケラススヴィアは桜花賞からの連勝で南関東重賞4勝目。これまでの3勝の2着馬との着差から,能力は圧倒的に上位と見込まれましたが,今までで最も大きな差をつけての快勝となりました。これは楽なペースで逃げることができた展開面の要素が大きかったからでしょう。このように逃げたり先行した馬が後続を離して勝つレースは,2着は差し馬が有利になるケースが多く,2着以下の着差をみると,これらの馬たちはまた展開次第で着順が入れ替わるという能力差なのだろうと思われます。父はサウスヴィグラス。母の父はネオユニヴァース。祖母の3つ下の半弟に2006年に武蔵野ステークスを勝ったシーキングザベスト。Cerasus Viaはラテン語で桜の道。
騎乗した船橋の森泰斗騎手は桜花賞以来の南関東重賞44勝目。東京プリンセス賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞48勝目。第31回,33回に続く2年ぶりの東京プリンセス賞3勝目。
さらに強力な根拠があります。さらに強力というのは,この根拠は,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisをどう解するかということと無関係と考えられるからです。つまりこの形相的本性を,現実的本性actualis essentiaと異なるものと解しても,あるいは現実的に存在する各々の個物res singularisの形相的本性と解しても,それが存在するというべきだという根拠になるのです。
第一部定理三五は,神Deusの力potentiaの中にあると僕たちが考えるconcipereものはすべて存在するといっています。ここでいう考えるというのは,真に認識するcognoscereという意味であるのですから,これは,神の力の中にあるものはすべて存在するという意味でなければなりません。よって,もしあるものについて,それは存在しないあるいは存在することが不可能であるというなら,そうしたものは神の力の中にはないといわなければなりません。ところが第二部定理八は,現実的に存在しない個物の形相的本性が神の属性attributumの中に含まれているということを明言していますし,現実的に存在しない個物の観念ideaが神の無限な観念の中に包容されているということも明言しています。ですからこうしたものが神の力の中にないということは不条理でしょうし,こうしたものを僕たちが神の力の中にあるということを概念するconcipereことができないということもまた不条理でしょう。よって現実的に存在しない個物の形相的本性も,現実的に存在しない個物の観念も,神の力の中にあるがゆえに必然的にnecessario存在するというべきだということになるでしょう。
これらのことから,僕は現実的に存在しない個物の形相的本性は,属性に含まれて存在すると結論しますし,現実的に存在しない個物の観念は,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在すると結論します。ただこの形相的本性は,個物の現実的本性とは異なるものなので,現実的に存在する個々の個物についてはそれを区別することができるものではありません。むしろ,たとえば人間の形相的本性は,現実的に存在する個々の人間のすべてに共有されるような本性を意味するので,現実的に存在する個々の人間を区別しません。そして個々の人間の現実的本性の観念は,神の無限な観念には包容されていません。