昨日の西武園記念の決勝。並びは高橋‐守沢の北日本,野口‐岡村‐萩原の南関東,町田‐園田の西国で,宿口と村上は単騎。
発走のやり直しとなり,また牽制がありましたが,園田がスタートを取って町田の前受けに。3番手に村上,4番手に高橋,6番手に宿口,7番手に野口という周回に。残り2周のホームから野口が上昇していくと,高橋が先んじて動き,町田を叩いて誘導が退避。ここからペースが落ちたので,野口がバックの入口で高橋を叩き,ラインの3人で出きりました。スイッチした村上が4番手に入り,5番手に高橋,7番手に宿口,引いた町田が8番手の一列棒状となって打鐘から野口の先行。町田が発進したものの,守沢の牽制が厳しく,外に浮いてしまい不発に。バックから村上が発進。直後の高橋もその外から発進しましたが,ふたりとも前には出られませんでした。逃げる野口とマークの岡村の直線勝負となり,逃げ粘った野口が優勝。マークの岡村は4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。高橋は不発でしたが,開いたコースから伸びてきた守沢が半車輪差で3着。
優勝した千葉の野口裕史選手は前回出走の前橋のFⅠからの連続優勝。記念競輪は初優勝。ハンマー投げで日本一の実績をもち,34歳で競輪選手としてデビューしたという経歴の持ち主。このレースは単騎も含めて自力を選択した選手の中に,有力と思える存在がいませんでしたので,混戦になるのは間違いないと思いました。ラインが3人なので野口の先行の可能性が高く,その番手を回る岡村か,差し脚ではこの中では明らかに上位の守沢が優勝候補の双璧というのが戦前の僕の見立て。実際に野口の先行となり,岡村にとってはここは勝たなければならないという展開になったと思うのですが,差し切るには至りませんでした。これが岡村の現状の力なのでしょう。
第一部定理八備考二でいわれている本性naturaを,現実的本性actualis essentiaと解することができないことは理解できたと思います。ではこの本性を,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisと解することはできるのでしょうか。僕の見解opinioでは,そう解することは可能です。その根拠を示していくことにします。
同じ第一部定理八備考二の中で,スピノザは次のようなことをいっています。
「我々は存在していない様態的変状についても真の観念をもつことができる。たとえそうした様態的変状が知性の外には現実に存在しなくともその本質は他の物の中に含まれていて,この物によって考えられることができるようになっているからである」。
まずこの部分の意味を正しく理解するためにふたつのことを注意しておきます。
この部分の冒頭で,存在していない様態的変状modificatioといわれているのは,現実的に存在していない様態的変状という意味でなければなりません。このことはその次の文の中に,知性intellectusの外に現実に存在しなくとも,といわれていることから明白です。つまり僕たちは,現実的に存在していない様態的変状,いい換えれば個物res singularisの真の観念idea veraあるいは同じことですが十全な観念idea adaequataをもつことができるということがここではいわれていることになります。
次に,ふたつめの文でいわれている他の物は,第一部定義五でいわれている他のものと同じ意味であると解します。第一部定義五は様態modiの定義Definitioであって,備考Scholiumのこの部分は様態的変状の本性について言及しているのですが.様態的変状というのは様態にほかなりません。また,第二部定義二から,ある様態とその様態の本性というのは一対一で対応し合います。したがって,様態がほかのもののうちにあるといわれるときのほかのものと,様態的変状の本性がほかのものの中に含まれているといわれるときのほかのものは,同じものだと解するのが適切だと考えられるからです。
第一部定義五で様態がほかのもののうちに含まれているといわれるときのほかのものは,実体substantiaのことです。このことはこの定義の意味がどういうことでなければならないのかを説明したときに明らかにしていますから,ここではそれ以上の説明は避けます。
発走のやり直しとなり,また牽制がありましたが,園田がスタートを取って町田の前受けに。3番手に村上,4番手に高橋,6番手に宿口,7番手に野口という周回に。残り2周のホームから野口が上昇していくと,高橋が先んじて動き,町田を叩いて誘導が退避。ここからペースが落ちたので,野口がバックの入口で高橋を叩き,ラインの3人で出きりました。スイッチした村上が4番手に入り,5番手に高橋,7番手に宿口,引いた町田が8番手の一列棒状となって打鐘から野口の先行。町田が発進したものの,守沢の牽制が厳しく,外に浮いてしまい不発に。バックから村上が発進。直後の高橋もその外から発進しましたが,ふたりとも前には出られませんでした。逃げる野口とマークの岡村の直線勝負となり,逃げ粘った野口が優勝。マークの岡村は4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。高橋は不発でしたが,開いたコースから伸びてきた守沢が半車輪差で3着。
優勝した千葉の野口裕史選手は前回出走の前橋のFⅠからの連続優勝。記念競輪は初優勝。ハンマー投げで日本一の実績をもち,34歳で競輪選手としてデビューしたという経歴の持ち主。このレースは単騎も含めて自力を選択した選手の中に,有力と思える存在がいませんでしたので,混戦になるのは間違いないと思いました。ラインが3人なので野口の先行の可能性が高く,その番手を回る岡村か,差し脚ではこの中では明らかに上位の守沢が優勝候補の双璧というのが戦前の僕の見立て。実際に野口の先行となり,岡村にとってはここは勝たなければならないという展開になったと思うのですが,差し切るには至りませんでした。これが岡村の現状の力なのでしょう。
第一部定理八備考二でいわれている本性naturaを,現実的本性actualis essentiaと解することができないことは理解できたと思います。ではこの本性を,第二部定理八でいわれている形相的本性essentia formalisと解することはできるのでしょうか。僕の見解opinioでは,そう解することは可能です。その根拠を示していくことにします。
同じ第一部定理八備考二の中で,スピノザは次のようなことをいっています。
「我々は存在していない様態的変状についても真の観念をもつことができる。たとえそうした様態的変状が知性の外には現実に存在しなくともその本質は他の物の中に含まれていて,この物によって考えられることができるようになっているからである」。
まずこの部分の意味を正しく理解するためにふたつのことを注意しておきます。
この部分の冒頭で,存在していない様態的変状modificatioといわれているのは,現実的に存在していない様態的変状という意味でなければなりません。このことはその次の文の中に,知性intellectusの外に現実に存在しなくとも,といわれていることから明白です。つまり僕たちは,現実的に存在していない様態的変状,いい換えれば個物res singularisの真の観念idea veraあるいは同じことですが十全な観念idea adaequataをもつことができるということがここではいわれていることになります。
次に,ふたつめの文でいわれている他の物は,第一部定義五でいわれている他のものと同じ意味であると解します。第一部定義五は様態modiの定義Definitioであって,備考Scholiumのこの部分は様態的変状の本性について言及しているのですが.様態的変状というのは様態にほかなりません。また,第二部定義二から,ある様態とその様態の本性というのは一対一で対応し合います。したがって,様態がほかのもののうちにあるといわれるときのほかのものと,様態的変状の本性がほかのものの中に含まれているといわれるときのほかのものは,同じものだと解するのが適切だと考えられるからです。
第一部定義五で様態がほかのもののうちに含まれているといわれるときのほかのものは,実体substantiaのことです。このことはこの定義の意味がどういうことでなければならないのかを説明したときに明らかにしていますから,ここではそれ以上の説明は避けます。