スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中山グランドジャンプ&神のうち

2021-04-17 19:13:47 | 中央競馬
 第23回中山グランドジャンプ
 互角の発馬からヒロシゲセブンはすぐに控えました。最初の正面にかけてはケンホファヴァルト,タガノエスプレッソ,オジュウチョウサン,スマートアペックス,マイネルプロンプト,メイショウダッサイの順。ここから3馬身差でシンキングダンサーがいて4馬身差の最後尾にヒロシゲセブンという隊列。ケンホファヴァルトはすぐに控え,タガノエスプレッソとオジュウチョウサンが先頭と2番手を入れ替わりながら進み,3番手にスマートアペックス,4番手にヒロシゲセブンという隊列に。最初の大障害コースを通過すると,オジュウチョウサン,タガノエスプレッソ,スマートアペックス,メイショウダッサイ,ケンホファヴァルトの順でこの5頭が一団。3馬身差でマイネルプロンプト,6馬身差でシンキングダンサー,3馬身差でヒロシゲセブン。
 2度目の大障害コースを通過したところからタガノエスプレッソとスマートアペックスが前に出て,3馬身差でオジュウチョウサンとメイショウダッサイ。3馬身差でケンホファヴァルト,2馬身差でマイネルプロンプトとなり,ここまでが圏内。3コーナーでタガノエスプレッソが単独の先頭に。スマートアペックスの外からメイショウダッサイが追い上げてきて,オジュウチョウサンは後退。マイネルプロンプトとケンホファヴァルトが追走。直線の入口ではこの4頭が雁行でしたが直線に入るとタガノエスプレッソとメイショウダッサイで競り合いに。最終障害を飛越するとメイショウダッサイが抜け出し,ここからは後続を引き離していって優勝。逆にタガノエスプレッソは一杯となり,外からまた伸びてきたケンホファヴァルトが差して4馬身差の2着。タガノエスプレッソは2馬身半差で3着。
 優勝したメイショウダッサイは昨年の中山大障害を勝った後,今年は阪神スプリングジャンプも制し,これで重賞4連勝となる5勝目で大レース2勝目。ここはオジュウチョウサンとの対決でしたが,オジュウチョウサンは前走の京都ジャンプステークスで障害戦では久々の敗戦を喫し,能力に翳りを感じさせていた上に,ここがそれ以来のレース。なので今日はメイショウダッサイの方に分があるだろうとみていました。相手が全盛時の能力を出したとはいい難いですが,直接対決で勝ったのは意味があることで,これでこちらが名実ともに障害のトップに立ったといっていいでしょう。父はスズカマンボ。5代母がルーシーロケット。従姉に2014年にブリーダーズゴールドカップJBCレディスクラシック,2015年にTCK女王盃マリーンカップと,レディスプレリュードチャンピオンズカップを勝ったサンビスタ
 騎乗した森一馬騎手は中山大障害以来の大レース2勝目。管理している飯田祐史調教師も中山大障害以来の大レース2勝目。

 神Deusのうちにその現実的本性actualis essentiaが永遠の相species aeternitatisの下に表現されている個物res singularisの観念ideaは,そのすべてが現実的に存在するようになるということは,この観点から,神のうちで現実的本性が永遠の相の下に表現されているすべての個物の観念が現実的に存在するようになるというのと同じことだと僕は考えます。他面からいえば,現実的に存在することが不可能であるような個物の観念の現実的本性が,神のうちで永遠の相の下に表現されるということはあり得ないと僕は考えます。なぜなら,そもそも現実的に存在することが不可能である個物の観念について,その個物の観念に現実的本性があるということ自体が不条理であると僕は考えるからです。なのでそのような現実的本性が永遠の相の下に表現されるということはあり得ないというべきだと考えます。
                                   
 これでみれば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念は,そのすべてが現実的に存在するようになるという主張,柏葉が標準的解釈の主張と解している主張が正しいように思えるかもしれません。ですが,このことは直ちにそれを意味するわけではないと僕は考えます。というのは,確かに神のうちで現実的本性が永遠の相の下に表現されているすべての個物の観念が現実的に存在するようになるとはいっても,その個物の観念が現実的に存在していない場合に,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれる観念であるとは断定することができないからです。実際に第五部定理二二は,神の中にそうした観念が必然的にnecessario存在するといわれているのであり,神の無限な観念のうちにそうした観念があるとはいわれていません。したがってこのことによって柏葉の主張が崩壊するというわけではないのです。ですがこのことが柏葉の主張に対して条件を提示しているということは間違いありません。つまり,個物の観念の現実的本性を永遠の相の下に表現する観念は,単に神の中にあるというだけであって,神の無限な観念の中にあるわけではない,とりわけその個物の観念が現実的に存在しない場合に,神の無限な観念が存在する限りで存在するといわれる観念ではないという条件が必要とされるのです。
コメント
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